第二部 第七章 五蘊

五蘊 とは、肉体と精神の構造を分類したものです。現代の言葉で簡潔な解釈をつけてあります。

(1)肉体
(2)感覚器官
(3)記憶
(4)行動への意志・感情
(5)認識

私の解釈

五蘊、次の六根、六境、六識は、仏陀の時代の科学知識を考えるとこれで十分だと思います。そして現代の私たち自身にとってもこの分類で十分修行、つまり、八正道の実行に励むことができます。「蘊」という漢字は、積む、蓄える、集まる、奥底の意味ですが、ここでは五個の物が集まって人間ができているという意味です。

「色」という漢字は、冠の部分が人を変形したもので下の部分は音を示す巴です、文字の本来の意味は、人ですが、意味が展開して人の性欲を意味します、さらに性欲の対象として女性、いろどりと意味が広がります。ですが、仏教の原語のサンスクリット語のルーパ(rupa、目に見えるものつまり五蘊においては肉体の意味)を漢訳するときに「色」を当てました。つまり仏教の意味では「色」は、眼に見える肉体そのものつまり、物質の体です。

「受」という漢字は、うけとるの意味です、そこで「受」は、感覚を外界から直接け入れる眼耳鼻舌膚の五器官と感覚を心(脳)へ伝える神経です。「六根」ともいいます。もちろん自分の体である「色」の動きも感覚として取り入れられます。「受」の感覚は「想」に記録されます。

「想」という漢字は、心に形や姿を思い浮かべる意味で、「想起」とは思い出すこと、「回想」とは思い出のことです。だから現代的に言えば、「想」は、記憶であり、「受」、「行」、「識」の働きを記録するところです。受け入れた感覚、感覚の認識、認識から判断して行動命令を出すことがすべて記録されます。つまり色々な情報が知識となり蓄えられるところであり、知識そのものでもあります。

「行」の説明は、後回しにします。

「識」という漢字は、物事の善悪を見分けるの意味です。物事とは「受」から来た情報や感覚のことです。外界情報や肉体感覚を「想」の記憶と照らし合わせ、何であるかを見分ける、つまり「識」は認識のことです。つまり顔を見て、これは誰であると識別するとか、今日はお化粧が美しいなとか、笑っているとか怒っているとか、食べ物の臭いなら、美味しそうだとか不味そうだとか腐っているとか、この認識には、「想」の過去の記憶と照らし合わせ判定することも含まれます。判定の方法、判定ルールは固定されたものでなく経験と学習でより良いものに変化していきます。「識」の判定は、客観的なものでは無く、あくまでも主観的なものです。主観的判断が間違いと成らないように、注意する必要があります。この判定ルールも「想」に記録されていると考えてもよさそうです。

「行」という漢字は、元は十字路をかたどった象形文字で、道路・通りの意味から、道を行く、動作を行うの意味に広がっています。つまり「行」は、「識」による感覚の判定結果により、次の精神行動を選択し、つまり感情と意志を決めて、次に肉体の行動に移すこと、つまり全身の筋肉へ命令をすることです。この「行」も「想」に記録されます。

「行」の命令で、「色」の自分の肉体が動きます。この肉体の動作と外界の反応は、「受」の感覚器官で観察されます。結果として「色受想行識」は連携して動作しており、生きている限り、「色」→「受」→「想」→「識」→「行」→「色」とこれがぐるぐると回り続けます。

具体的に人間が意識してできることは、考えをめぐらすこと、顔、喉、横隔膜、胴体、手足の筋肉を動かすことだけです。

一方で人間が意識せずとも行われることもあります。心臓の脈を打つ、呼吸をする、食べ物を消化・吸収・排泄物を作るする、栄養を全身にめぐらす、不要物を尿にとまとめる。爪や皮膚を作り変える。子供から大人に生長する。トレーニングでいつのまにか体に筋力がつき、動作が滑らかで上手になる、などです。

食事を取らないと空腹、呼吸を止めると苦しさ、病気になると体の内部からの痛みを感じます。このように生きるための欲求が自然とどこからか湧き上がります。心・精神でどれほど空腹や痛みが無いようにと願っても感じます。このことから、心・精神は実は肉体の奴隷なのかもしれないと思い至ります。心は外部の環境と肉体の時間変化により勝手に生じる単なる状態なのかもしれません。

例えば怪我をすると痛みを感じますが、眼でその傷を見るとさらに痛みを増すことがあります。実際はそんなには痛くないはずなのに、痛みを恐れると痛みが増します。そして、どんな傷もやがて痛まなくなります。痛みを感じているのは傷口なのか脳という物質なのか心なのか、、、。痛みを伝える神経や痛みの信号を媒介する物質は発見されていますが、痛みそのものは物質という実体ではないようです。傷と痛みの関係を冷静に見ることで肉体の自分と精神の自分の差を認識できます。

人間の高尚な精神活動、たとえば言葉を操りすばらしい詩を作りたいたいとか、心地よい音楽を奏でたいとか、躍動的なダンスで情熱を表現したいとか、壮麗な絵画を書きたいとか、立派な科学理論を発見したいとか、これについてもその始まりとなるきっかけは、心と肉体と外界の関係のどこかに必ずあると私は思います。

心は物質ではなくその時その時の環境に合わせて生じ消えていく状態であるという解釈から、心を良い状態に保つことができれば苦しみから逃れることができる可能性があると気が付きます。

外界からの刺激を肉体が自動的に感知しますが、その時心も動かされます。この心の動きを八正道から外れないよう制御することで苦しみから開放されるという訳です。

八正道に沿って具体的な行動指針を言いますと、こんな具合です。「識」においては、怨み・憎しみ・敵意を捨て、相手の欠点ばかりに着目せず、なるべく長所を見出すようにしましょう。「行」では優しい言葉で正直に、喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めを表しながら、人々の幸福のためになるよう、親切を行うということでしょう。また「五蘊」全体としては、世の中いろいろな事態が発生するのだから、物事の原因と結果を正しく知り、「受」で得た感覚にいちいち驚かず、落ち着いて穏やかな心持ちではっきりと意識を集中して、善い事を行いましょう。そうすれば、「想」には良い経験がどんどん記録されていきこの世の中について正しく学習し、理解が深まるでしょう。

仏陀の時代と異なり現代の科学知識では、人間の脳の構造とそれぞれの機能がおおまかに判明しています。それによると脳は三層構造です。

第一層は、自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核です。この第一層は、爬虫類以下の脊椎動物にも存在します。その役割は、心拍、呼吸、血圧、体温、など意識と関係なく自動調整する基本的な生命維持の機能です。さらに脳幹の一部の視床下部と呼ばれる場所では、原始的欲求である、渇き、食欲、性欲、及び攻撃性(自分の縄張りの防衛意識)の役割を担います。この第一層は、自己保全の目的の為に機能する脳とされています。自分縄張りに侵入者がいるかどうかは、この脳が判断して攻撃反応します。縄張り意識は、最も原始的で強烈な本能です。

この第一層は、ほぼ無意識、つまり潜在意識として活動しています。この第一層の苦痛を回避するには、渇き、食欲などに困らないよう普段から蓄えを用意しておき、さらに安全な住処を確保することです。

第ニ層は、海馬、帯状回、扁桃体といった大脳辺縁系です。この第ニ層は、哺乳類(低級なネズミ、さらに犬、猫、馬そして人間にも)に共通して存在します。役割は、快・不快を基本とする本能的情動や感情を産み出します、また短期の記憶も担います。第ニ層が司る行動は、哺乳類の発達した性欲による生殖活動、子供やパートナーへの愛情行動、集団活動です。ですから、集団を守るために、危険や脅威から逃避する本能的反応、外敵を攻撃する本能的反応もここから生まれます。この第ニ層で哺乳類として家族の保存を司ります。

この第ニ層の快・不快の感覚はほぼ本能的に判断されます、その感覚が感情として意識されるのです。ただし、不快だからいって直ぐ言葉にしたり表情に出さないようにしましょう。さらに、理性でこの感情を意識して良い方向に変更することができます。つまり、対象の短所ばかりを見て不快の感覚を高めることをできるだけ避けて、対象の長所を見て快の感覚を高めることで、苦痛を回避できるようになります。また、危険をできるだけ予知して対策を取り危険を事前に避けることです。

第三層は、大脳新皮質です。この第三層は、高等哺乳類と猿、人類が獲得した脳です。視覚認識から空間把握機能と表情認識機能、聴覚認識から、言語解釈機能と発声、表情と動作を含む高度の運動機能、長期の記憶機能と経験による推論学習機能があります。そして人類だけには文字を用いた創造的思考機能、つまり理性があります。つまり人類には理性があるのです。

人間は、第三層の大脳新皮質にある理性を働かせて、第ニ層と第一層の本能の判断をうまく制御すれば、苦痛を軽減できることになります。

ところで、理性には、自分が常に正しいと勘違いする、何でも知りたがる、何でも話したがる、他人に認められたい、将来への不安あるいは今の快感に急き立てられて必要以上に欲しがる、という困った本能があります。だから、人間は、自分の理性さえをも、自分で抑える必要があるのです。

ページ先頭へ

(更新日: 2017年03月23日)
幸せ研究室