第三部 第一章 仏教と神

仏教には神が出てきません。神について何も述べていないのです。ですから神を肯定も否定もしていません。神とはどのようなものであるかも説明していません。むしろ神を信仰する人にその信仰を捨てる必要は無いと言っていたと聞きました。私はこの部分の出典を失念していますが、、、。

仏陀はこの世の成り立ち(三法印・四諦)と生きる目標(四無量心)と生き方(八正道)を提示しているだけです。仏教徒は神について他宗教の方と論争してはならないと存じます。むしろ他宗教の方の立場を認めてあげましょう。

ここから先は、思考をめぐらす遊びです。

私は、人間と同じ姿形をした神様や見たこともない不思議な形をした神様など、物質の体を持つ神様をそこかしこに探してみました。神様をかたどった像は、確かにそこかしこにたくさんありました。しかし、どこにも、地球上にも、地下にも海にも、極微の顕微鏡の世界にも、素粒子の世界にも、宇宙を望遠鏡で眺めて見える銀河を超えた範囲にも、物質の体の神様は、見当たりませんでした。そして、日本の仏教で言われている如来や菩薩も、物質の体の者は、見当たりませんでした。

いまのところ、物質の体を持つ神様は見つかりません。もし物質の体を持つ神様がおられたら、宇宙より大きいか、宇宙の外におられるか、遠い宇宙のどこかの星におられるか、とても小さくてまだ発見できないか、それともこの宇宙そのものかでしょう。でも今のところそれを知る方法さえも見つかりません。

物質の体を持たない神様がおられるとしたら、その神様を見つける方法は、肉体の感覚器官ではとても困難です。私から肉体と感覚器官を取り除いて残ったものは、考えや思い、思考です。思考では、神様が見つかるのでしょうか。

わたしの思考には、「神様」という考えが確かにあります。

ところで、「一足す一は二の法則」はだれもが知っています。この法則もわたしの思考にあります。ところが「一足す一は三の法則」と唱えるとこれもわたしの思考にあります。私の頭の思考には「一足す一は二の法則」と「一足す一は三の法則」の両方が今あります。どこが違うのでしょうか。

違いは、「一足す一は二の法則」は真実であり、「一足す一は三の法則」は間違いということです。

もうちょっと遊んでみます。「一足す一は二の法則は真実である」と「一足す一は二の法則は間違いである」もわたしの思考にあります。その違いは、「一足す一は二の法則は真実である」は真実で、「一足す一は二の法則は間違いである」は間違いであるです。 思考って不思議なものですね。どんどん尾ひれをつけていけます。

では、法則が真実であるとか、法則が間違いであるとはどういうことでしょうか。

第一に、真実の法則には、すべての物質が従うということです。物質の世界では、「一足す一は二の法則」が満ち溢れていて、すべての物で、一足す一は二になります。心で三になれと願っても無理です。

第二に真実の法則だけでは、法則自身で自分が正しいことを説明できません。さらに、ここから理屈だけで導かれることがあります。真実の法則に間違いの法則が紛れ込んでいると、あらゆる嘘を正しい真実と言い出すことができます。簡単に言い直しますと、正直者は自分が正直で完全であると主張する方法を持ちませんが、嘘つきは自分が正直で完全であると主張できる、ということです。もちろん嘘は見破られます。これらは数学のゲーデルの不完全性定理といい二十世紀に発見されています。

脱線しましたが、ここで、ひとまとめします。

真実の法則は、この物質の世界に満ち溢れているが眼に見える物質ではない。すべての物質はもれなく公平に真実の法則に従う。真実の法則がこの物質世界の絶対支配者である。間違った考えをいくら願っても真実の法則を変えることはできない。

真実の法則は、まるで神様のように振る舞います。どうやら私にとって神様の力に相応しいものは、真実の法則である、と気が付きます。種明かしをしておきます。私はこの話を谷口雅春先生の生活読本で知りました。

そろそろ私の結論を出します。

真実の法則がこの物質世界の絶対支配者である。真実の法則を作られた生みの親こそ神様であるが、神様がどこにいるか、私が知っている真実の法則だけからはまだ判らない。それより、真実の法則を良く学びうまく利用して生きていくことが、幸せの近道である。

霊魂はあるのでょうか。

霊という文字の旧字は、靈で、雨冠の下に口が三つで音のレイ、下にあるのは、巫女さんの巫ですから、最初は、神がかりの巫女の意味だそうです。時代が下り、神秘の意味が加わり、さらに時代が下り、「たましい」の意味となり、死者の魂の意味となり、死者そのものの意味となり、物の本質となるものの意味、鬼神の意味、不思議の意味、神々しい威厳のある様の意味、まことやまごころの意味にまで広がっています。

辞書では、霊魂(れいこん)とは、魂(たましい)の意味とされます。

魂という文字は、死者の示す鬼と、音を示す云でできています。死者の体からたましいが抜けてどこかへ行く様を意味します。だから魂は、人間の心、精神の意味です。

人が死ぬと、心が消えてしまいます。死者に問いかけても、返事は帰ってきません。でも肉体はそこに残っています。

箱の中に宝物を保管しておく様子から連想して、死者の肉体から心が抜け出して、どこかへ行ってしまったという仮説が思い浮かびます。つまり心は、生きていれば肉体の中にあり、死ねば心は霊魂となって肉体から抜け出すという仮説です。まだただの仮説です。

ところで、人間の体を切り刻んで探しても、どこにも霊魂は見つかりません。結局のところ霊魂は見たり聴いたり匂いがしたり味がしたり、重い軽い、熱い冷たい、硬い軟らかいという物質ではないことは明らかです。

中途半端に物理学をかじった人の中から、霊魂は気体だとか、霊魂は光だとか、霊魂はエネルギーだとかいう人がいますが、霊魂が気体や光やエネルギーであれば人が亡くなる時にそれが抜け出すことが判るはずですが、未だかつて気体や光やエネルギーの形態で霊魂を検出した人はいません。

霊魂が物質(プラズマ・気体・液体・固体)や光やエネルギーでは無いから、肉体で感じることができないとしても、物質やエネルギーとは異なる何かである霊魂が無いとは言えない、いや物質やエネルギーでは無い霊魂があるはずだと食い下がる人も出てきます。しかし、物理学では物質とエネルギーは究極的に同じものであることが発見されており、人間がこれまで探した限りでは、物質とエネルギー以外のものは見つかっていません。

いや情報というものがある、情報が霊魂だという人も出てくるかもしれません。生きた人間に質問を問いかければ、その人しか知らない経験を情報として話してくれます。生きた心は情報を含んでいると言えます。ところで、印刷された本も情報を含んでいます。本は生きていませんが、人間は本を見て書かれている文字を読んたり写真を観賞することができます。情報は物質の形や量や性質で表現されるものであり物質ではありません。本を燃やしたり粉々に粉砕すれはそこに書かれていた情報は失われます。失われた情報はどこかに移動するわけではなく単に消えてしまいます。ところで、霊魂は死者の体から抜けだしてどこかへ移動することになっています。生きた人間と本の違いは、人間には問いかけをすると情報が声の回答として出てきますが、本は、問いかけしても反応しません、つまり本は初めから死んでいるのでこちらから読まないといけないということです。人間の心の情報である記憶は脳の中に蓄えられていると現代では考えられていますが、どのような形態で蓄えられているのか正確なところはまだ判明していません。それでも、脳という物質で情報を表現していることは実験からも確かです。死者の肉体から情報は離れて行くのではなく、死者の持っていた情報はその脳という肉体に留まったままです。しかも死んだ肉体から脳内の情報を読み出すことはいまだかつてできていません。死んだ肉体は腐敗をしていき、脳に刻まれた経験という情報は跡形もなく失われます。まとめると、経験という情報と霊魂は明らかに別です。

人間は、目の視覚にたより昼間に行動します。人間は、夜の暗闇ではまったく目が見えないため、行動しません。暗闇の中では、耳、鼻、皮膚の感覚を全力で研ぎ澄まして何がいるか探ります。暗闇の中で人間は、何がいるか判らない、危険が迫っていても判らないという本能的な恐怖を感じます。私もそうです。この暗闇の恐怖から、微かな音、匂い、風、温度に敏感に反応して空想を膨らませます。ごくごく普通の正常な人でも、暗闇に何か霊魂のようなものがいると感じるのは、そういう暗闇の恐怖を感じている時です。

霊魂(死者の心)を本当に肉体で見たり感じた人はいません。

霊魂が見えるとか、霊が話しかけてくるとか、前世の悪縁とか、ましてや、神様の声が聞こえる、神様のお告げがあったなど言う人は、恐怖を煽りあなたから金品や服従を得ようとしている目的を隠しているか(悪徳商法、反社会的宗教団体=カルト、つまり詐欺師)、冗談として話してあなたを楽しませ笑わせようとしているか(テレビショーの多く)、恐怖心・病気・麻薬による幻覚・幻聴か、単に嘘付き常習者であるか、周囲の者が霊魂を見たというから仲間はずれを恐れて付き合っているだけか、そういうことです。このような危険を感じる人、詐欺師、病人とは付き合わないことです。

特に悪辣な詐欺師は、最初は金品を要求せず、まず、あなたの悩み事を黙って受け入れ相談に乗り、あなたを安心させます。ここまでは、詐欺師が善人を演技していますから普通の善人となんら変わりません。いったん信頼関係ができると、詐欺師は、あなたを徐々に洗脳し、要求を拡大していきます。手品や探偵のトリックを応用した占いや予言や予知であなたを信じ込ませます。仲間はずれ、孤独感、疎外感、苛めの恐怖を煽り、仲間に引き込み、あなたの行動を制約します。詐欺師の目的は、あなたの財産を自発的に貢がせることです。貢物である以上、これらの行為を犯罪であると立証することは困難です。詐欺師かどうかの区別は、相談料金と貢物の要求価格です。相談相手が善人であれば、せいぜいコンビニバイト時給からその数倍程度しか要求しないはずです。どんなに素晴らしい相談相手でも、時給で弁護士の単価以上に支払う必要はありません。あなたの年収の数%を寄付しなさいとか、あなたの財産の数%を寄付しなさいなどという者は、必要以上に要求するということで、間違いなく詐欺師です。詐欺師の可能性があれば、一刻も早く付き合いを止めることです。

結論です。物質、エネルギーあるいは情報という形態の霊魂は存在しません。それ以外の形態の霊魂については、今のところ見つけようがありません。死後の世界の存在については、なおさら確かめようがないことなのです。霊魂話や死後の輪廻転生も確かめようのないファンタジーです。

祖先を祀ることは意味があります。

「霊魂話や死後の輪廻転生も確かめようのないファンタジー」、これが、私の結論です。祖先の霊や、災害や戦争の犠牲者の霊、さらには昔の偉人の霊という表現については、ファンタジーの文脈での表現であると自分で納得していれば、霊験あらたかなご利益があるとか、恐ろしい祟りがあるとか、と妙な期待をしたり不安を持つ必要はありません。

祖先や偉人を祀ることの意味は、感謝の印です。祖先や偉人の功績、財産や知識があったから、今の自分がいるという事実を素直に認め、祖先や偉人へ感謝すること。現在感じられる満足や幸福は、自分の努力だけでなく祖先や偉人の礎の上に築かれているという謙虚な気持ちを持つということです。

祖先の遺言は絶対ではありません。例えば、大昔の偉人が残した書物はとても参考になることが多いのですが、それをそのまま現代に当てはめてしまうことは、無理があります。当時の時代背景、社会の生活・風俗・習慣・文化が現代とは大きく異なるからです。私達が昔話を聴いた時は、第一に、偉人がそういう考え方になった原因と考えの基本方針を丁寧に推測すること、第二に、現代ならその偉人はどうするかを考えることです。

現代でも、霊魂話、死後の輪廻転生の類を信じ込んでいる人はいます。古い時代に成立した教義に微塵の疑いをも持たない熱狂的宗教信者ならその可能性は高いです。そういう人を外見だけで区別できるものではありませんから、「霊魂話はファンタジーだ」と初対面で詳しく知らない人々にいきなり話すことは避けたほうが賢明です。

神様の分類

日本では、神様は神社に祀られています。八百万(やおよろず)の神と呼ばれるくらいに沢山の神様がいます。太陽や月の天体、風・雷その他の自然現象を神と崇めたり、動物や植物を神としたり、高天原にまつわる日本の神話に出てくる人のように行動する神もあります。さらに、歴史上の偉人、菅原道真など多数、を神と祀り上げたりもします。祖先を祀ることの発展形として、戦死した軍人を祀る靖国神社もあります。地下にあると死後の世界として黄泉の国、神の済むところ高天原を設定しています。もちろんファンタジーです。日本では、それぞれの神の信者と別の神の信者が今も争うことはほとんどありません。

本来のお釈迦様の教えでは仏教に神的な者は出てこないはずです。が、お釈迦様の死後に、大乗仏教の一派が教えの内容を細かく切り分け展開して、それぞれの徳目ごとに人間を超越する存在として如来、菩薩、明王、四天王などを割り当てていきました。日本に仏教が伝来した段階では、すでにお経の中に如来や菩薩が書いてありました。さらに日本の土着の神信仰と仏教が融合して神仏習合となり明神や権現が登場しました。仏教では、死んだ人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わるという輪廻思想(これはファンタジーです)があります。

インドのヒンドゥー教は、インドで8億人以上、世界で9億人と第3番目に多く信者のいる大宗教です。ヒンドゥー教では、世界維持の神であるヴィシュヌ神、創造と破壊の神であるシヴァ神、世界創造の神であるブラフマー神を3大神としています。他にも、ガネーシャ、ハヌマーン、インドラといった神がいます。ヒンドゥー教は、人間を超越する力を抽象概念化した3大神、さらに古代神話に登場する神々がいる多神教です。ヒンドゥー教では、仏教の開祖であるお釈迦様をヴィシュヌ神の9番目の化身としていることも面白い点です。ヒンドゥー教も信心と業(カルマ)により来世が決まるという輪廻思想(これはファンタジーです)があります。

日本の新興宗教にも色々な神があります。神は言葉だとか、神は光だとか、私達人間を含むこの世のものすべてが神の一部だとか、様々な教義があるようです。

世界で最も古い文明といえばナイル川のほとりの古代エジプト文明です。ユダヤ教やキリスト教の旧約聖書より明らかに古いと思われる古代エジプト世界は、多神教の世界でした。太陽神・ラー(=アトゥム)が主神であり、天はヌトという女神、地はゲブという男神という具合です。肉体から離れた霊魂バーが行く死後の世界が設定されているが、肉体が残っていれば再生ができると信じられ、肉体の保存のためにミイラ作りが盛んに行われました。

ギリシア神話に出てくるオリュンポス十二神は人間の姿をした神々です。オリュンポスの王・神々の父・主神であるゼウス、太陽の神であるアポロン、戦争の神であるアレース、都市の守護・戦い・技芸の女神であるアテナ、美と愛の女神アプロディーテーなど華やかで賑やかな印象です。ギリシア神話も紀元前15世紀頃に成立したとされているので旧約聖書より明らかに古いです。

旧約聖書を聖典とする宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。旧約聖書に出てくる預言者アブラハムが最初に神を信仰した者として設定されているため、アブラハムの宗教と呼ばれます。旧約聖書は、前5世紀から前4世紀頃に成立したと見られています。キリスト教は、信者人口で世界最大で、約33%です。第二位がイスラム教で20%です。

アブラハムの宗教の最大の特徴は、一神教であることです。他の神を一切認めません。ただし、神の使わされた下僕、たとえば天使、もちろん天使は人間を超越する存在です、こういう者は宗教的に存在を認められています。神の世界は、天国にいる一人の神とその配下の軍団で構成されています。

アブラハムの宗教の第二の特徴は、人間はその神の国天国から追放された罪深い者という設定です。キリスト教では、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命を得ると設定されています。イスラム教では、死ぬと魂は一箇所に集められ最後の審判を待つ、最後の審判では信教を貫いた者だけが永生を得る天国に入りその他は地獄へ落とされるとされます、天国の世俗的な快楽の様子や苛烈な地獄の様子もまた聖典クルアーンに設定してあります。

アブラハムの宗教の第三の特徴は、人間を他の動物から峻別する伝統です。日本人は自然や動植物に近親感を感じ情けを掛けますが、アブラハムの宗教では、自然や動植物に情けも容赦もありません。

アブラハムの宗教の第四の特徴は、過激な宗教原理主義者がいることです。たとえば、キリスト教原理主義では、旧約聖書に出てくる創世記をそのまま信じ込み進化論や古生物学の科学的成果を一切認めません。イスラム原理主義という呼称もありますが、これはキリスト教世界からイスラム教に敵対するニュアンスを込めて付けられたとされています、言い直せば、イスラーム復興運動となりますが、イスラーム復興運動を理論的背景とするイスラム過激派は世界の政治の大きな課題です。また、現在のパレスチナ紛争(ユダヤ教徒が76%を占めシオニズムで建国されたイスラエル国とイスラム教徒が住むパレスチナ地区や周辺の国の間の紛争と敵対関係)もアブラハムの宗教を信じる人々の争いの歴史です。さらに、イラクやシリアでの紛争もアブラハムの宗教を信じる人々の争いです。

イスラム教の開祖ムハンマドは神の啓示を受けてアラビア語で聖典クルアーンを書いたと伝えられています。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教の流れを汲んでいますが、さらに鋭い特徴を備えています。第一に、開祖のムハンマドが自らを最後の預言者としていることです。これが教義一切の発展的修正を拒む可能性を含むことになります。第二に、イスラム教は偶像崇拝を一切認めていません。ムハンマドの像や顔の絵は完全に排除されます。第三に聖典クルアーンには、改宗及び棄教行為は明確に死罪と書かれています。第四にイスラム教には政教分離の考えがありません。基本は政教一致です。第五に開祖ムハンマドが商人だったため、商取引に厳しい決まり(利子をとってはいけない)があります。第六に一夫多妻制であること、女性の服装・行動が厳しく制限されていること。第七に飲酒と豚肉の食用が禁止されていることや日中断食期間の習慣があること。さらに一日五回の礼拝義務。第八に聖典クルアーンには、異教徒に対する暴力を奨励するような記述が多数見られ、征服戦争「ジハード」を正当化できてしまうことです。これらの特徴のため、イスラム教の信者が、ユダヤ教社会、キリスト教社会やその他の多神教の社会の中で仲良く社会生活を送ることを困難にしています。ところが、ムハンマドの没後に新しくできた物(食物、写真、テレビ、コンピュータ、携帯電話、株式会社、兵器、自由、平等、民主主義)は利用を禁止されないという矛盾もあります。

典型的な無宗教の日本人が、熱心な信仰を持つ人と友達になるときは相手の気分を害することのないように事前の学習と準備が必要です。

宗教、思想ってどのぐらい確かなのか

ほとんどの宗教の教義は、超自然的な存在(=神や仏)、道徳律、違反者へ死後の罰、信者への現世利益と死後の報奨から構成されます。秘密あるいは公開の教義として教団の組織化が組み込まれています。

これに対して、近代に発生した思想、哲学、ナントカ主義の類は、立証できない超自然的な存在を無視し、科学的であると主張し、実際に科学的かどうかは最新科学で常に検証が必要ですが、古い道徳律を破壊し、独善的で矛盾した道徳律を強制したりし、ほとんどの場合に集団の組織化が組み込まれています。

宗教も思想も共通項目が多いです。人間、一人ひとりは日常の生活に追われ、時間がないことから、宗教、思想についてしっかりした吟味をすることはできていません。誰でも、親や学校から教わった宗教、思想をそのまま鵜呑みにするか、反発するかぐらいのものです。

共産主義思想は、歴史的開始の時点から、既存道徳の破壊、暴力の肯定、手段を選ばないなんでもありという三大矛盾を掲げているため、初めから論理的に破綻していました。それは、古い道徳を破壊しただけで信頼できる新しい道徳を生み出していません。物事をまだ深く知らない不良インテリがカッコつけるに適していましたが、20世紀の歴史がその害悪を立証してからは、今では残念な思想です。

現代社会の共通ルールである、自由主義、平等主義、民主主義は、人間の数千年の歴史の中で徐々に適用範囲、対象者の範囲が、拡大されてきたルールです。人間には、住処を定め、道具を持ち、水と食糧を確保するという生物としての所有と生存の本能があります。また、子供を産み育てるという生殖本能もあります。共同社会で貨幣を用いて生産性を向上することで物質的繁栄を目指す所有欲の拡大面、余暇を作り娯楽を楽しむという享楽面もあります。また、共同社会では、他人を支配して権力を発揮したいという願望もあります。宗教、思想では、こういった人間と社会の性質を総合的に取り扱うようにしないと実用にはなりません。

仏陀の教えの核心である八正道がなぜ八項目なのか、十悪がなぜ十項目なのか、三法印、四苦八苦、四諦も含めてそれぞれの項目に矛盾や過不足がないのかといった、数学的に厳密な検証は、誰もまだ行っていません。世間一般には、八正道や十悪の意味や解釈が十人十色というお寒い現状では、難しいと思えます。八正道や十悪のさらに根本となる原理原則に何を据えるべきか、私は幸福と善の三定理を置きましたが、これも議論が必要です。

結局のところ、宗教、思想で完璧なものはまだないということです。だから、使えそうな良いところだけをつまみ食いして継ぎ接ぎの思想を作るしかないと思えます。ここに書いてあることは、私が継ぎ接ぎしたものです。もちろん、私にとっては十分に実用的です。皆さんは、この中から使えそうな良いところだけをつまみ食いすれば良いのだと思います。

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(更新日: 2017年03月23日)
幸せ研究室