第二部 第十一章 三法印

三法印とは、この世の成り立ちと生きる目的です。

(1)諸行無常すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬ
(2)諸法無我この世の成り立ちを決めているもろもろの法則に、我つまり個人の欲望が入り込む余地は無い
(3)涅槃寂静悟りの状態になれば煩悩から離れられる、これこそ生きる目的

私の解釈

諸行無常の上記の解釈は、この現実世界をありのまま捉えたもので誰にでも理解できて、どなたからも異論はないと推測します。つまり仏陀に言われるまでもなくまさに事実です。詳しく見てみると、「諸」は、「もろもろの、いろいろの」という意味で「すべての」といい代えてよいでしょう。「行」は、ここでは古代中国で信じられていた天地万物の成り立ちの元、現代の元素の考えに相当する考えの、五行、つまり木火土金水の行です。仏陀の教えは古代インドから中国を経て日本に伝えられました。そのため、古代インドの言葉から中国の言葉、漢字に翻訳されて伝えられているので、古代中国の五行の知識が入っていると推測されます。「無」は文字通り無いの意味です。「常」は、「つね、いつまでも変わらないこと」の意味ですから、「無常」では変わらないということは無い、変わるという意味です。もう少し深く意味を取りますと、すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬから、変化を積極的に受け入れて生きていくしか道は残されていないのだよ、ということです。

諸法無我の上記の解釈は、字句通りに素直に受け取ったものです。「諸」は、「もろもろの、いろいろの」という意味です。「法」の文字は、「のり、法律、決まり」という意味でここでは、法則、物事すべてに当てはまる決まりという意味です。「諸法」で、この世の成り立ちを決めているもろもろの法則という意味です。「無」は文字通り無いの意味です。「我」は、「われ、わたし、自分」で、ここでは心の中の勝手な思い込み、原因と結果の法則や事実を無視した思いつき、無理な願望とまで拡大してもよいかと思います。整理すると、この我とは、我がままで自分勝手な個人の欲望という意味です。全体をまとめますと、物事に当てはまる客観的な法則、例えば、一足す一は二の法則、生まれた人はみな死ぬという法則、四諦と八正道の法則、こういう普遍の法則は、我がままで自分勝手な個人の欲望とは独立して成立しているため、いくら個人の欲望から願っても変更できないという意味です。もう少し深く意味を取りますと、普遍の法則を変更しようと思っても無理だから法則、特に四諦と八正道の法則を積極的に受け入れて生きていくしか道は残されていないのだよ、ということです。

仏陀の教えで自然科学の臭いのするものは、この諸行無常と諸法無我です。この、諸行無常で、原因と結果をつなぐ自然の法則があることを暗示し、諸法無我で、自然の法則は平等に働くので、魔法や迷信が実在しないことを暗示しています。別の章の四諦、五蘊、六根は心理学の分野です。二千四百年前の科学知識はとても少なく迷信に溢れていたはずですが、その時代で、誰もが正しいと認める客観的法則を拾い出して幸福を実現する悟りへの道、八正道を導き出されたとは、やはりお釈迦様は、悟りし人、仏陀と呼ぶに相応しいお方です。

涅槃寂静の「涅」は、梵語、古代インドの言葉の「ネ」の音を漢字にしたものです。「槃」は、梵語、古代インドの言葉の「ハン」の音を漢字にしたものです。古代インドの言葉「ネハン」のより正確な音は「ニルヴァーナ」です。「涅槃」とはすべての苦しみから解脱して悟りを開くことです。「寂」は、寂しいの意味ではなくここでは静かの意味です。「静」は、争いを静止して止まって動かない、つまり「しずか」そのものです。「寂静」は心が落ち着き穏やかで意識を集中していること。つまり、悟りを開いた人の状態で煩悩から離れていることを表します。人が死んでしまうと体から心が消えるのでもはや体は苦しみを表しません、そのため、死んだ状態を涅槃といつの間にか呼ぶようになりました。でも三法印の涅槃寂静は、死んでしまうとか、じっと座って動かないとか、まったく何もしないということではありません、ただひたすら八正道の善を行う悟りの状態、四無量心の実現を指しています。八正道を行い煩悩から離れ四無量心に至る。これが生きる目的であると私は解釈しています。

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(更新日: 2017年03月23日)
幸せ研究室