第三部 第二十五章 命より大切なもの

ここまで、みなさんと一緒に調べて来た、お釈迦様の教えの特徴は、 理路整然と整理された簡単なものでした。

ところで、 「大切な命もやがて死を迎えることになるという事実」 があります。 この死は、四苦八苦の一つであり 苦しみとされています。 死の苦しみ、つまり死の恐怖を、 乗り越え克服する方法があるのか、 それにはどうしたらよいのか、

お釈迦様の教えの示すところは、

その通りなのですが、 理路整然と整理された簡単な教えからは、 今ひとつ感情に響かない感覚が私にはありました。

今は特に大きな病気も無く、死の恐怖はほぼ感じ無い。 でも、毎日毎日命は流れて行く。いずれ死を迎える。 だから恐怖は次第に大きくなる気がする。

今の今、生活はできるているが、 いつまでこの生活を安全に続けられるか保証が無い。 なんとなく不安だという気がする。 どうすれば、いいのだろうか、と思います。

私も毎日、自分なりに精一杯生きているつもりですが、 命を賭ける程は、生きていない気がします。 お釈迦様の教えを理解したつもりで、 命を大切にしていますが、 どちらかといえば、逃げ回っているようなやり方です。

「死は定めとして、冷静に受け止め、 八正道を行うことに専念しなければならない。」 このことを理解しているつもりでも、 心の喜びが減る感じがする。 つまり八正道の正思惟、喜び・楽しみ・感謝するあるいは同情・慰めができなくなる。 どうしたらいいのだろうか。

事業で思い切ったことをすれば、 お金をたくさん使い、 破産寸前の状態を経験します。 つまり、身近に死の恐怖を感じます。 この恐怖をどうすれば乗り越えることができるのでしょうか。

昔の日本人は命を賭けて戦争を戦いました。 今でも世界のあちこちで命を賭けて戦う人がいます。 私が知らない、命より大切なものが、きっとあるはずです。 それはいったい何かを知りたいと思います。

私は、命より大切なものが何かを知る必要があります。 命より大切なもの、それは、名誉、信用なんだろうか、、、 いったい何だろう。

クレオパトラ、シーザー、アントニウスの物語の映画を 録画で見る機会が有り、 当時の国王、英雄が神として崇められることを、 そして、国王や英雄は、勇敢であることも、再認識しました。

古い歴史物語のお陰で、旧約聖書に出てくるモーゼの十戒を思い出しました。 あらためてモーゼの十戒を調べなおすと、 お釈迦様の教えとよく似ているではありませんか。 お釈迦様の教えの一部は、お釈迦様が初めてではないと気がつきました。

そこで、モーゼとお釈迦様の時代関係、地理関係を調べました。 アレキサンダー大王の史実から、 モーゼ、お釈迦様、イエス様の間で、 間接的な情報の伝達、知識の共有があっても問題はなさそうです。

それから、キリスト教の有名な教え、 イエス様の「山上の垂訓」を読み直しました。

最初は意味がつかめなくで混乱していましたが、 数回読み直しているうちに、 イエス様の真意が少しずつ私なりの解釈として理解できました。

そして、命より大切なものが何かを知ることができたのです。

では、山上の垂訓から学んだことを記します。

山上の垂訓とは、 新約聖書の中のマタイの福音書5章~7章に 書かれているイエス様が人々にされた説教です。

最近は、Wikipediaなどにも聖書が記入されているから、 誰でも簡単に調べることができます。

キリスト教の信者ではない私ですら知っているぐらい 有名な部分であり、イエス様の教えの核心と思われます。

しかし、予備知識を持たずに読み進めば、 その言葉が、 現代の常識とかけ離れていること、 表面的な字づら内容が矛盾していることから、 読む人に混乱を巻き起こします。

しかし、多くの聖者や伝道者そして学者から、 山上の垂訓こそが「神の国の律法」と支持されていることも事実です。

そこで、私のとりたい態度は、

です。

まず次のことを検討しておこうと思いました。

歴史的前後関係

宗教的戒律、律法などの歴史的前後関係を おおざっぱですが確認しておきます。

ウル・ナンム法典とは、 メソポタミア文明のウル第三王朝の 初代王ウル・ナンム(紀元前2115年頃 - 紀元前2095年頃)によって発布された 現存する世界最古の法典。 古代文の全57条中の残存する32条が解読済みとのこと。

殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されているとのこと。 特に殺人・強盗・強姦・姦通は極刑。 損害賠償も記述されているとのこと。

すでにこの時代に、 人間がしてはいけないことがはっきり明文化されており、 人類の普遍の道徳として、広まっている 遅くともイエス様の時代までには、広まったと考えてよいはずです。

リピト・イシュタル法典は、 古代メソポタミア文明のイシン第一王朝の 第五代王リピト・イシュタル(紀元前1934年 - 紀元前1924年頃) によって制定されたシュメール語の法典とのこと。 断片が発見されており、その断片を集めて復元されたとのこと。

奴隷、租税、婚姻、相続、牛の賃借について、 金銭上のことが規定されている。 さらに、逃亡奴隷の扱いや土地の管理、 処女性の保護などが書かれているとのこと。

この法典は、金銭についての実生活の細かい規定であり、 宗教的な意味合いの内容ではないようです。

しかしながら、金銭つまり財産は、命の次に重要であることが、 法律の歴史的な成立順序からも、うかがい知れます。

ハンムラビ法典とは、 バビロニア王ハンムラビ(紀元前約1810-1750年頃)が制定したもの。 完全な形で残る世界で二番、あるいは三番目に古い法典。

ハンムラビ法典の記述内容は、

だそうです。 また、 財産の保障、女性の権利、奴隷の権利の記述や 「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」 との記述から 公平性、権利の保護、弱者保護も規定されているそうです。

聖書にある「目には目を、歯には歯を」という言葉は、 ハンムラビ法典まで遡れるそうです。

モーゼは、旧約聖書の出エジプト記に出てくる 紀元前13世紀の預言者です。

十戒は、モーゼが神から与えられたとされる10の戒律です。

十戒の内容は、キリスト教の会派により、 欠落した項目があったり、表現が異なったり、翻訳が異なるため ストレートな紹介が難しいです。

以下は、正教会・プロテスタント・カトリック教会・ルーテル教会のものを ミックスしたたため11項目あります。

十戒(ミックス版)

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
  4. 安息日を主の聖なる日として、その日は主を思い、体と心をいたわり休息せよ
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
  10. 隣人の妻を欲してはならない。(他人の妻と交わりたいと願うスケベ心を禁ずる)
  11. 隣人の家をむさぼってはいけないこと(他人の財産を欲しいと願う強欲な気持ちを禁ずる)
解釈は後の別章で行います。

参考までに、お釈迦様つまり仏陀は、紀元前463年 - 紀元前383年 頃のインドの人です。

アレキサンダー大王(ギリシャ語読みでアレクサンドロス大王、英語読みでアレクサンダー大王も可)は、 紀元前336年 - 紀元前323年 頃の人です。 マケドニアから出て、ギリシャ、小アジア、エジプト、 ペルシア、ソグディアナ方面を征服、インドも遠征し征服した大王です。

アレキサンダー大王の帝国が立証しているように、 インドとエジプトの間(イスラエルやシリアはその間にある)には 少ないながらも人的交流があったと思われます。 少なくとも商人を何人か間に挟むつながりでの交流は あったと考えていいでしょう。

ですから、仏教の知識がエジプトの アレクサンドリアに持ち帰られて、 アレクサンドリア図書館(紀元前300年頃-4世紀)に蓄えられ 知られていても、不思議ではありません。

また、仏教的考えも秘密めいたものではなく、 ごくごく常識的なものですから、 イエス様ならすぐに思いつかれたことでしょう。

実際の山上の垂訓では、 十戒に代表される律法の解釈の仕方や 十戒では不足している心の持ち方と使い方について 説明されており、 仏教的考えと似ているところも多数あります。

イエス様は、紀元前4年頃 - 紀元後28年頃の人です。

当時のその場所は、パリサイ人の偽善行為が蔓延し、 異常に細分化された律法、 規則のための規則に縛られ、 心つまり愛が失われた風潮がありましたと聞いています。

当時の政治・宗教・神・文化・風俗・科学の状況

メソポタミア文明からイエス様の時代は、王がいて政治を行う社会です。 王は、神の子孫とされています。 だから王は神であるとされた時代です。

古代の神は、太陽や月や大地や海だけではありません。 現人神がたくさんいた訳です。 現人神をかたどる偶像崇拝はアタリマエと想像できます。

私は、民に恵を与えてくれるものがすべて神だったと推定します。 自然の恵みを与えてくれる太陽、月、大地、海が神であり、 政治を行い世の中に秩序を与えてくれる王が神であることになります。

古代の法も現代の法と比べても案外しっかりしていたようです。 してはいけないこと(禁止事項、罪)、 しなければいけないこと(義務、納税や兵役など)を細かく規定しています。 また、罪を犯したときの刑罰も規定しています。

社会経済を動かす金銭は、 通貨の存在しない物々交換の時代だったので、 高価な金品、銀で計られていたようです。

医学が未発達ですから、 細菌で病気がおきることを知る人はいません。 病気は悪魔に取り付かれたためとなります。 多少の薬(麻薬、痛み止め、下痢止め)はあったでしょうが、 庶民は病気が直るまでじっと耐えるだけです。

当時は、迷信がはびこっていたのです。 妖怪、幽霊があたりまえに信じられています。

交通が不便です。 外国には、徒歩で行くしかありません。 乗り物は整備された街中の王宮の周辺でしか利用できません。 せいぜい馬に乗るぐらいです。

印刷、手紙、通信が未発達です。 テレビも新聞も電話もありません。 なかなか情報が伝わりません。 安い紙とペンが無かったので、 大量の文章の記録も残りません。

清潔な水道もガスも電気もありません。

当時は、警察が発達していません。 自分の身は自分で守るしかありません。 泥棒されても立証は困難です。 泥棒されても殺されないだけましと考える社会です。

奴隷制度がありました。 しかし、奴隷でいることは、主人から保護されていることでもあります。 有力な主人の奴隷になることは、生きる上で幸運なことかもしれません。

庶民のための学校はありません。 子供をあずかってくれるところはありません。

避妊をする道具はありませんから、女性は子供を次々と生まざるを得ません。 赤子にやる便利な粉ミルクはありません。 便利な紙おむつもありません。

女性が、身を守るためには、有力な夫を見つけるしかありません。

弱い子供はすぐ死にます。 大人でも40歳50歳で死んでアタリマエでした。

そういう社会だったのです。 そして、それが当時の科学技術でできる精一杯だったのです。

モーゼの十戒を再検証

当時の状況を前提にして、モーゼの十戒を再検証します。

十戒(ミックス版)

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと

ここまでは、神についての戒めです。 つまり、当時の習慣「王を神とすること」を禁止しているわけです。 真の神とは、人間でない、太陽、月、星、大地、海などの物でもないとなります。 唯一神、言い換えれば、この世の創造神だけが神であるということです。

では唯一神とは何か、それについて詳しい説明はありません。 でも唯一神は人間や物ではありませんから、 見たり、聞いたり、触ったりできるものではないということは確かと考えます。 それ以上の解釈はここでは止めておきましょう。

  1. 安息日を主の聖なる日として、その日は主を思い、体と心をいたわり休息せよ
  2. 父母を敬うこと

これは、するべき行為です。

  1. 殺人をしてはいけないこと
  2. 姦淫をしてはいけないこと
  3. 盗んではいけないこと

これはしてはいけない行為です。

  1. 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)

これは、言ってはいけないことです。

  1. 隣人の妻を欲してはならない。(他人の妻と交わりたいと願うスケベ心を禁ずる)
  2. 隣人の家をむさぼってはいけないこと(他人の財産を欲しいと願う強欲な気持ちを禁ずる)

これは、心で思ってはいけないことです。

モーゼの十戒から神に関する部分を除くと7項目前後です。 仏陀の八正道や十悪(の私の解釈)より項目が少ないため 見劣りすることは仕方ありません。

モーゼの十戒は、本当に最小限の守るべきことなのです。

イエス様が直接執筆されていない聖書の性質

聖書は、イエス様が、直接執筆されていないため、 仮に間違いがあっても、 イエス様が正しく直すことはできません。

聖書は、イエス様から聞いたものを、 後日、記憶を頼りに、別人が書き起こしたものです。

聞いた人の記憶がどこまで正確なのか、 思い出すときに、 説明しやすいよう、 変形して説明してしまうことが、 あっても不思議ではありません。 書き取る人の主観で書き込むこともよくあります。 表現に文芸的技法をこらしてしまうこともあります。 事実を書いているはずですが、 強調したい事があったり、 誰の視点から物語りたいという意図があり、 脚色してしまうことは、 仕方の無いことです。

嘘を書こうとはまったく意図しなくとも、 文字にするだけで、 イエス様の真意と 微妙にずれが生じていきます。

文字や言葉というものは、 そういうものなのです。

しかし、それでも、書かれた文字、書物という物は、優れたものです。 記憶や口伝だけに頼るよりずっと優れています。

ところで、後世の人々の解釈に間違いがあっても、 イエス様が正しく直すことはできません。

書かれた文章は、読む人の理解力の範囲でしか理解できません。 ですから、いろいろな人がいろいろな解釈を述べることになります。 私も、これから、私流の勝手な解釈を述べることになります。

最終的には、受け手である皆さん自身でどのように感じ受け取るか、 これこそが課題ということになります。

訳本の訳本である日本語聖書の性質

日本語聖書は、翻訳の翻訳の、、、翻訳と考えて良いでしょう。 ですから、原語の意味するところと、ずれてきていても仕方がありません。

できるだけ原典をみるべきでしょうが、私にはまだそれだけの能力がありません。 ですから、翻訳である日本語聖書を利用します。

実は、聖書の日本語訳はたくさん種類があります。 そして、それぞれの訳の表現が微妙に異なります。 文が、欠けたり多かったり、違ったりもします。 2000年前から伝わることですから、仕方のないことです。

それでも、山上の垂訓は、イエス様の直接の言葉に極めて近いと推測できます。 仏教のお経の多くが、お釈迦様が本当に話された言葉ではなく、 何百年も後の僧によるファンタジー小説のような創作物語であることに比べれば、 はるかに判りやすいと思います。

だからこそ、皆さんには、たくさんの種類の訳を、 何度も読まれることをお勧めします。 (以下にリンクで、紹介します。インターネットの力はありがたいですね。) そうすることで、訳した人の意図、書いた人の目的が判ります。 そうすることで、その先にあるイエス様の真意が見えてきます。

次の節には、山上の垂訓の日本語訳を載せますが、これは、 wikisource に掲載されているもの(『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)です。 これを載せた理由は、文に番号がついており、後から解釈をつけるとき説明しやすいからです。 この他には、 新改訳聖書より抜粋(by インマヌエル別府キリスト教会)マタイ5:1-2(ジョセフ・スミス訳),ルカ6:17-19 (by 末日聖徒なんでも帳) ニーファイ第3書12章から14章 (by 末日聖徒なんでも帳) 英文での比較 (by 末日聖徒なんでも帳) などが、見つかります。

山上の垂訓(http://ja.wikisource.orgから転記)

第5章
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
5:29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
5:31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
5:33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
第6章
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。
6:11 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。
6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13 わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。
6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
6:16 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
6:22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
6:23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
第7章
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
7:9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
7:12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
7:17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

以下は、私の山上の垂訓の解釈です。

聖書の表現は、間接的で比喩的な表現が多用されいます。 また、イエス様の表情動作があまり読み取れません。 説教の時間や、記録としての客観性の説明、 肉声を一字一句写し取ったものかどうか、 そういうことが明記されていません。

言葉の表面的な内容が矛盾している項目もありますので、 説教が進むにつれて、前提となる対象者や対象となる設問状況が、 異なるのではないかと推測できます。

ですから、おそらく時間をかけて説教は行われたと思います。 説教は、数回に分けて行われた可能性も十分あります。 質問があり、それに対して回答された可能性も十分あります。

そのため、イエス様の真意を読み取ることは、 直ぐには難しいと感じました。

説教の前部と中部と後部では、状況が異なるような感じです。 何度も読み直して真意を知る必要があります。 私も何回も読み返しています。

緑色の部分は、「山上の垂訓」から拾い出したもの、 あるいは、私が整理・要約したものです。 また、心ですること、言葉ですること、行為ですることを区別してあります。

意味が取りにくいところは、あれこれと私の余計な解釈を加えてあります。

5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。

イエス様から、 心の貧しい人、 つまり、心が満足していない人、悩み苦しんでいる人、不幸を感じている人に向けて、 説教がされました。

「心の貧しい人」とは「この心の卑しい悪人どもめ」という意味ではありません。 「心に悩みを持ち、私のことを頼ってくれた皆さん、 私から精一杯の心を込めてお話をさせていただきます」 と言う意味です。

では、前部(5:1 - 5:16)に出てきた、「なすべきこと」です。 前部では、集まった多くの信者に一般的なお話をされたようです。

義とは、規則・法律のことです。 当然、モーゼの十戒は義に含まれます。 イエス様が、その他の規則・法律を、どこまで含まれるか、私はまだ未調査で判りません。 でも、パリサイ人による律法のための律法、偽善的な規則が含まれることはありません。 偽善については後半で詳しく説かれています。

では、中部(5:17 - 5:26)に出てきた、「なすべきこと」です。 中部では、信者からの質問に答えて具体的なお話をされたようです。

では、後部(5:27 - 7:29)に出てきた、「なすべきこと」です。 後部では、直弟子のような立場の上の者から、 あるいは、命の危険を感じるほど困った者から、 彼らが本当に困ってしまう事について質問され、 それについて、イエス様が熱意を持って詳しく回答されたと推測します。

そしてイエス様は、 命より大切なものがあり、「それは、良い心でいることである」と説かれます。 イエス様の教えから、「本当に困ってしまう事」とは、良い心を失うこと気がつきます

それを伝えたいために、イエス様は言葉を強くして、説教されたと思います。 だから、極端なたとえ話が多く、 凡人には近寄りがたい感じがしてしまいます。 私たちも、直弟子になった積もりで聞かなければなりません。 真意を汲みとれば、 決して実行が難しいことを説かれていないことが理解されます。

まずは、「姦淫」について。

姦淫してはならない。(5:27)(行為) 情欲(あの女を性欲の捌け口として犯したい)をいだいて女を見ることは心の中で姦淫を犯した。(5:28) 目や手が罪を犯しそうになるなら、切り取りなさい。(5:29)

心の中の姦淫は罪であると、イエス様は明言されました。 では、愛する妻と交わりたいとどんな夫も思うが、これは罪なのか、 それについてイエス様は明言されていない、 つまり罪ではないと私は考えます。 また、美しい女性を見ると、美しさにうっとりとしてしまいます、これは罪なのか、 それについてイエス様は明言されていない、 つまり罪ではないと私は考えます。 時には、美しい女性を見ると、相思相愛となり交わりたいと考えてしまいます、これは罪なのか、 それについてイエス様は明言されていないが、 あなたがすでに結婚して妻があるなら罪であり、 そのような空想はすぐ捨て、妻との生活に置き換える必要があります、 あなたに恋人がいるのなら、恋人と先に別れてから新しい相手を求めるべきであり、 あなたに恋人もいないなら罪ではないと私は考えます。 私は、女性がたとえ妻でも単なる性欲の捌け口として犯したいと考えてはいけないということ、 前提として相手の女性との合意が必要であるということ、この二つを考えます。 空想でも姦淫をするなとまとめておきます。

男は、不貞以外の理由で妻を離別させてはいけない。 男は、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯す。(5:32)

他の女が綺麗だから犯したいという理由だけで妻と別れる行為は、 法を守っているふりをしているだけ、ズルであり、してはいけないという意味です。 ズルをするなとまとめておきます。

いっさい誓ってはならない。(5:34)(心)

神に頼れば何でも実現できるはずという甘い考え方を止めなさいという意味と思います。 できもしないことを誓うな、 合理的に考えてできないことを誓うな、 悪事を誓うな、 という意味と思います。 邪心を神に誓うなとまとめておきます。

あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。(5:37)(言葉)

前後関係の説明がないため、解釈がとても難しいところです。 誓いをしない代りに、言葉数を極端に減らせという意味かもしれません。 神からの言葉、つまりイエス様の垂訓を聞き、 良いたとえ話には、「しかり、しかり」と理解を示し、 悪いたとえ話には、「否、否」と理解したことを示せ、 という意味かもしれません。 あるいは、質問者が多弁であり、質問内容が聞き取れず理解されず 聖書に書き残らなかったのかもしれません。 イエス様の回答から推測すれば、 多弁、能弁を戒めているかもしれません。 聞かれたことにまず正確に答えなさいという意味かもしれません。 結果だけをまず正確に述べよという意味かもしれません。 言い訳をすることを戒めているのかもしれません。 多弁の禁止とまとめておきます。

  1. 悪い者に手向かってはいけません。(5:39)(行為)
  2. 悪い者を許してあげる、(5:44)(心)
  3. 暴力を振るうものには、されるままにする。(5:39)(行為)
  4. 告訴して奪う者には、それ以上にたくさんあげる。(5:40)(行為)
  5. 強制してくる者には、それ以上にたくさんしてみせる。(5:41)(行為)
  6. 求める者には与える(行為)(5:41)
  7. 借りようとする者には貸す。(5:41)(行為)

回答内容から、 これは、権力もない、お金もない、体力も無い何も無い非力な庶民が どのように悪人と対峙すればよいかについて、詳しく具体的に説明されたものです。

つまり、力の弱い者は、 悪人が来て物をとれば、くれてやりなさい。 体に対する暴力もさせてやりなさい。 暴力もさせてやりなさいということは、 命もくれてやりなさいということです。

ただし、心はくれてやるなということです。

このくれてやってはいけない心とは具体的に何か、 もう少し先にイエス様の説明があります。

この悪人への対処方法は、 一見できそうもないことのように見えますが、 非力な庶民が無理なくできることは 実は、悪者つまり嵐が去るまで、されるがままにして、 待つだけのこの方法だけです。 こちらが暴れたり抵抗すれば、もっと酷い目に合わされるからです。

反対に、権力があったり、お金があったり、力がある者は、 すでに前部で説明があったように、 「義(規則・法律)を守り」弱い人を悪人から守る必要があります。

ということで、非力な庶民と正義の権力の執行者では、するべきことが違うのです。 そう捉えると、イエス様の説明に矛盾が無いことが良く判ります。 弱者の強悪への具体的対処法悪者も赦す とまとめておきます。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(5:44) (心)

自分を愛してくれる者を愛することはアタリマエ。だから他の人も愛しなさい。(5:46)(心) 自分の兄弟にだけあいさつすることもアタリマエ。だから他の人にもあいさつしなさい。(5:47)(行為) (悪人・異教徒にも平等にしてあげることで)完全でありなさい。(5:48)(行為)

悪人にくれてやっていけない心は、 悪に従う心、悪に対して悪で返事する心です。

つまりあなたが悪に染まることはいけないと イエス様は教えられているのです。

イエス様は、良心(人を愛する心、悪人も愛する心)は決してっして失わないようにしなさい、 悪の手先となってはいけないと説かれました。

イエス様は、敵を愛し、迫害する者のために祈ることを私達に求められているのですから、 前部や中部で説かれたことを悪人にもしなければなりませんから、

と説かれたことにもなります。

あなたは、悪人のためにも良い行ないをする必要がある。 だから、敵を愛せよ、とイエス様は教えられているのです。 だから、迫害する者のために祈りなさい、とイエス様は教えられているのです。

そして、決して心を悪で汚さないこと、 これこそが、悪人の暴力で殺されることよりも大切、 命より大切なことなのです。 決して心を悪で汚さない敵を愛し、迫害する者のために祈れ とまとめておきます。

どのように、祈るとよいのか、考えてみました。 多分、「あなたが天にいますわが父の御旨を行われますように。」 が一番と思います。 次が、「あなたがわたしを赦しててくださいますように。」でしょうか。 悪人の心が落ち着いてから、相手の事情をよく聞いてみたり、 最後にイエス様の事を知っているか尋ねてみることもよいかと思います。

人に見せるために人前で善行をしても、人に見られることで偽善を見抜かれます。 だから、偽善をしてはいけない。(6:1)(行為)

イエス様は、パリサイ人の偽善行為を知り、 悩まされていました。 ですから、ここからは、偽善とは何か、偽善の報いとは何かを説かれています。 イエス様によれば、 偽善は、その場ですぐ報いられるということです。 その報いは、プラスではなくむしろマイナスであると説かれています。 つまり、偽善は、人々に見抜かれるということです。 あなたは偽善者を哀れんでください。彼を、軽蔑してはいけません。

陰で善行をすれば、よい報いが後から来ます。(6:4)(行為)

善行は隠れているときこそ、するものということです。

施しをするときには、ラッパを吹いて他人を集めては、いけません。(6:2)(行為)

これは、儀式としての施しを ド派手に宣伝して、 人を集めてから実施してはいけないという戒めです。 今まで私は、商売をするときある程度の宣伝(ラッパ)は黒字経営のため必要と考えていました。 現代の宣伝広報活動のあり方から偽善を取り去るにはどうしたらいいのでしょうか。 自分の売名行為は結構しているわけです。 例えば、あなたか見ているこのページが一種の売名行為です。 私が偽善をしないようにするには、 自分の売名行為にからめて寄付の宣伝をするな、 このぐらいしか思いつきません。 私自身もっと善行と偽善の境目の研究が必要です。 善行は見せびらかすな とまとめておきます。

人前で祈ると、偽善を見抜かれます。 祈るときには、陰でひっそりと祈りなさい。(6:5)(行為) ことば数多く祈ることは、意味がありません。(6:7)(言葉)

祈りも偽善とならないようにしなさいということです。

私たちに負いめのある人たちを赦しなさい。(6:12)(心) 人々のあやまちを赦しなさい。(6:14)(心)

借金を返さない人、借りを返さない人を赦しなさいということです。 人々のあやまちを許しなさいということです。 インターネットの掲示板に人のあやまちを書き捨てることは止めなさいということです。 人々のあやまちを赦す とまとめておきます。

わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。(6:13)

祈りの文言ですが、日本語として試みの意味がとれません。 他の訳をみたりすると、試みとは、悪魔からの誘惑、つまり悪事のたくらみを思いつくことや、 悪人に出会って凶事に巻き込まれることであることが判ります。

断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな(6:16)(行為)

努力や修行で、陰気な顔つきをするなということです。 努力や修行を陽気に楽しげに喜んでしなさいということです。 努力や修行を我慢できない苦痛を感じるほどする必要はないという意味かもしれません。 努力や修行を楽しく行う とまとめておきます。

宝・富を地上にたくわえるのはやめなさい。(6:19)(行為)

ここからは、宝・富・お金とは何かを説かれています。 現世のお金を追い求めることは止めなさいと説かれています。 金銭・宝物を追い求めるな とまとめておきます。

自分の宝は、天(神の国)にたくわえなさい。(6:20)(心) 神と富とに兼ね仕えることはできない。 (6:24)(心)

つまり心に愛と許しと喜びを蓄えるようにしないさいということです。 私は、神の国は私の心にあるものと思います。 心に愛と許しと喜びを蓄える とまとめておきます。

物質の宝・富・お金は、本当の宝ではないということです。 私見ですが、付け加えて、姦淫で得られる性的快楽も本当の宝ではないということです。 私見ですが、付け加えて、 「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。」から 単なる知識や興味本位の情報も本当の宝ではないと推測します。

自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配するな。(6:25)(心) 体のことで、何を着ようかと心配するな。(6:25)(心) まず神の国と神の義とを求めなさい。(6:33)(心)(行為) そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

神の国と神の義とを求めるとは、何かというと、 神の国が、心に愛と許しと喜びを蓄えるということ、 神の義が、正義が守られることです。

命をつなぐ、食料や、飲み物、衣服より、大切なものがある、 つまり、命より大切なものは、 愛と許しと喜びと正義であると説かれていることになります。 そして、愛と許しと喜びと正義を保てば、 食料や、飲み物、衣服は必要なだけ与えられると説かれています。

厳しく言えば、 食料や、飲み物、衣服は今日与えられた物で満足せよということです。 不足を感じるなら、愛と許しと喜びと正義が足りないということです。 つまり、命より大切なものは、愛と許しと喜びと正義であり、 それは、誰でも心の中でいくらでも増やすことができる。 増やし方が足りないから、 今日与えられた食料や、飲み物、衣服が不足と 感じるのだということです。

あすのための心配は無用です。 今日をしっかり働く必要があります。(6:34)(行為)

物質の宝・富・お金やを求めていない、 姦淫となる性的快楽も求めない、 単なる知識や興味本位の情報も求めない人は、 今日をしっかり働きさえすれば、 必要な食物や衣服は、 神の導きで手に入りますから それで満足しなさいという意味です。 今日をしっかり働く とまとめておきます。

人を裁いてはいけない。裁かれないために。(7:1)(言葉)

どのようにすればよいかを「兄弟の目にあるちり」に喩えて説明されています。 人の欠点を指摘するより、まず自分の欠点を直しなさいという意味です。 もっと積極的に考えると、人の欠点を指摘するなという意味です。 さらに積極的に考えると、人の長所を褒めなさいという意味です。 まず自分の欠点を直す とまとめておきます。

言葉のわからない動物に聖なるものや価値あるものを与えてはいけない。(7:6) (行為)

意味の無い無駄なことをするな、かえって損をするという意味です。 意味の無い無駄なことをするな とまとめておきます。

求めなさい、さすれば与えられる。(7:7)(行為)

良い物を求めなさい、さすれば良い物が与えられる。 悪い物を求めると、悪い物が与えられるということです。 良い物を求め良い物を得なさい とまとめておきます。

人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。(7:12)(行為)

これは、そのままの解釈でよいです。 人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ とまとめておきます。

狭い門からはいれ。 滅びにいたる門は大きく、その道は広い。 そして、そこからはいって行く者が多い。(7:13) 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(7:14) (行為)

努力を惜しまず高い理想を目指しなさいという意味です。 努力を惜しまず高い理想を目指しなさい とまとめておきます。

実(結果)によって彼ら(偽善者・悪人・にせ預言者)を見分けることができるのです。(7:16)(行為)

善人と悪人の見分け方です。 悪人は、強欲な狼なので、 あなたに良い結果(実)をもたらさないのです。 だから、悪人と付き合うときは、警戒しなければいけません。 悪人を見つけたからといって、 悪人に対して「あなたは悪人だ」と言う事は、 危険ですからしてはいけません。 悪人と付き合うときは、警戒 とまとめておきます。

でも、悪人にも愛を注ぐことを忘れてはいけません。

天にいますわが父の御旨を行う者だけが、天国にはいるのである(7:21)(行為)

わが父の御旨とは、この山上の訓戒でイエス様が説明された、 心の持ち方、言葉の使い方、行動の仕方です。

天国とは、当時の人々にとっての常識、 「人は体が死んでも心は生きていつか生まれ変わる」に、 対応した言い方ですが、 イエス様は、死んでも心が生きているとか、 天国というものがどこか遠い場所にあるとか、 地獄がどこの場所にあるとか、 そういうことは、山上の訓戒では、 一言も話されていません。

今の現代でも、「体が死んだら霊魂が残り、 いずれ天国に召されるか地獄に投げ込まれるか」、 という話をする人が後を立ちませんが、 実は、天国と地獄は今ここの現実の世界のことです。 イエス様が説明された正しい心で正しいことことをすれば、 心の中の気持ちが天国にいるように感じられ、 邪悪な心で邪悪なことをすれば、 心の中の気持ちが地獄にいるように感じられる、 ということが、生きている私たちが今の今感じる本当の事です。 ですから、ときどき良い事をして普段は悪いことをしていれば、 どきどきは天国にいますが、普段は地獄で生活しているということなのです。 できるだけ良い事をして、天国にいる時間を長くしましょうということです。

その日には、(7:22)

「その日」という言葉は、当時の人にとっては、 そのとき信じられていた「最後の審判」のことを指すと考えるべきですが、 なぜ、最後の審判と言われなかったと、皆さんは思いますか。

ひとつに、イエス様は宗教的な脅迫、脅しをしたくなかったのだと思います。 叱られるのは嫌だ、命・霊魂を奪われるのは怖い、祟られるのは怖い、 という恐怖心につけこんで、道徳を押しつけることを、避けておられます。 「喜びなさい(5:12)」と言われたように、 良い事を楽しくできるようにしてもらうために、 「その日」とだけ、言われたのです。

また、その日がいつかも、言われていません。 「彼らはその報いを受けてしまっている。 (6:2)」からも、判りますように 実は、その日は、私たちが生きているこの毎日なのです。

お金や物や性的快楽は、天国と関係ないのです。 私が思うに、天国とは心の中にあり、 それは、愛と許しと喜びを蓄える場所です。 だから、心に愛と許しと喜びを蓄え、 愛と許しと喜びは、またいくらでも考えることで 作り出すことができるので、 あなたの言葉と行為に乗せて、 人々に配ることができます。 こうして正義を実行することで、 心の中の天国は広がり続けるということです。

天国の門は、狭いかも知れないが、いつも開いているのです。 入るも自由、出るも自由です。 入るも簡単、出るも簡単。 天国の門は心にあり、心で思えば入れますし、心で思えば出れます。 通行手形は、愛と許しと喜びです。 いつも愛と許しと喜びを考え天国にいよう とまとめておきます。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、 岩の上に自分の家を建てた賢い人に例えることができます。(7:24)(行為)

悪い考えや悪いことはしないで、 良い心で良いことをしたという結果を残しなさいという意味です。 山上の垂訓の最後の励ましです。

命より大切なものとは何か

2012年の現代日本では、 命より大切なものは何かなんて 問う人は少ないでしょう。

イエス様の教えでは、 命や日常の稼ぎより大切なものは、 正義が守られること、 心を愛で満たすことです。

つまり、 心に愛と許しと喜びを蓄える ことです。

命を脅かされる目にあっても、 日銭を稼ぐことに苦労しても、 心は愛で満たすことが 大切だと説かれています。

心は愛で満たすことは、 仏教では、悟りの心理状態 「四無量心」であり続ける ことに相当します。

でも、仏陀の教えでは、 命より大切なものが 何であるか具体的に 出てきません。

テクニックとしての 八正道・十悪・無財七施があり、 悟りの状態を示す四無量心の 説明がありますが、、、。

お釈迦様が命を狙われる危険に 晒されたことが 無い(少なくとも私は知らない)からとも言えます。 そして、お釈迦様の説法を解説してきたこの私も、 そこまでの命の危険を知らないということです。

この点でイエス様の方が 厳しい状況・立場に置かれておりました。

実際、イエス様は無実の罪で処刑されてしまいました。 処刑のときにも、 心は愛で満たされており、 身をもって「命より大切なもの」があることを証明された訳です。

つまり、私のように死の恐怖におびえる者に、 その克服の方法を示された訳です。

イエス様の教えでは、 お金に拘ることは 止めなさいといわれています。

お釈迦様の教えでは、 人々に惜しみなく施しなさい とされています。

つまり、大切さの順序は、 慈愛 > 命 > 金 ということです。

おまけ

お釈迦様とイエス様の教えの対比表

お釈迦様とイエス様の教え、十戒と山上の垂訓だけですが、これの対比をしてみます。 優劣をつけるためではありません。 尊い教えの特徴をよく理解することで、 小人である自分の状態、環境に合わせて、 より早く幸せになる方法を見つけるためです。

項目お釈迦様イエス様寸評
神を語らず 唯一神 根拠の無い水掛け論が不要
法則 諸行無常、すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬ。
諸法無我、この世の成り立ちを決めているもろもろの法則に、我つまり個人の欲望が入り込む余地は無い
神の決め事、万物が従う法則が、善人にも悪人にも平等に適用される 絶対法則を認めている
人間の目標 涅槃寂静 悟りの状態(四無量心と八正道の実践)になる 心に愛と許しと喜びを蓄え、正義を行う 四無量心と愛と許しと喜びは同義、八正道の行いも正義と同義

唯一神による効果を考えます。 まず、人を神としなくて済むということです。 人を神とすると、間違いや争いごとばかりが起きてしまいます。 唯一神なので他の神はありません。 ですから、どの神が強いとかより正しいとか、 根拠の無い水掛け論を延々とする必要が無くなります。

唯一神は、物や人では無いから、 五感で見たり聞いたり触ったりすることができない、 となります。 唯一神は、物や人では無いから、 実は偶像崇拝することは不可能です。 十戒の偶像を作ってはならないという意味は、 人や物の(よく黄金・宝石で作られるので無駄となる)偶像を神としなくて済むということです。

唯一神は、人智を超えているため、 言葉でなんであるかを言い尽くすことは、 難しいことになります。 少なくとも私にはうまく説明できません。

イエス様の山上の垂訓でも、唯一神について説明はありません。 イエス様には判っているから説明の必要がないというより、 言葉で説明できないことであり、説明すると嘘になるから、 説明されなかった、と私は理解しています。

イエス様の山上の垂訓で出てきますが、神の力により、 善人にも悪人にも平等に太陽が照らされているとされています。 つまり、この世では、神の決め事、つまり万物が従う法則が、 正義として、善人にも悪人にも平等に、 絶対的に行われているという事です。

十戒の神の名を徒らに取り上げてはならないこととは、 真意がわかりにくいことですが、 山上の垂訓で出てきた祈りの方法、誓いの方法からすれば、 人前で神に祈り善人を装うな、 異邦人のように、くどくどと祈るな という意味と思います。

また、哲学的問答になりますが、 唯一神に名前をつけてしまうということは、 他のものと区別するということであり、 唯一で無くなる恐れがあるということで、 怖れ多いから、それはしたくありません、ということです。

道徳律として、するべきこととを比較します。

お釈迦様イエス様
四無量心(慈悲喜捨) 心施 人々へ喜びと楽しみを与え、人々の苦しみを取り去る 心を清くしなさい。(5:8)
他の人も愛しなさい。(5:46)
自分の宝は、天(神の国、実は心の中)にたくわえなさい。(6:20)
慈無量心 人々に楽しみと喜びを与える 人と仲良くしなさい。(5:23)
人と仲良くすることは、神への祈りより優先しなさい。 (5:24)
悪いことをして訴えられる前に、(謝罪して)、相手と仲良くしなさい。 (5:25)
悲無量心 人々の苦しみに同情し、それを取り去る 悲しい人たちを、慰めてあげなさい。 (5:4)
哀れみ深くしなさい。(5:7)
悪い者を許してあげる、(5:44)
私たちに負いめのある人たちを赦しなさい。(6:12)
人々のあやまちを赦しなさい。(6:14)
敵を愛せよ、迫害する者のために祈りなさい。(5:44)
喜無量心 人々の喜びをともに喜ぶ 喜びなさい。(5:12)
捨無量心 人々に惜しみなく施す
房舎施 宿の無い人を我が家に泊めてあげる
神と富とに兼ね仕えることはできない。 (6:24)
弱者の強悪への具体的対処法
悪い者に手向かってはいけません。(5:39)
暴力を振るうものには、されるままにする。(5:39)
告訴して奪う者には、それ以上にたくさんあげる。(5:40)
強制してくる者には、それ以上にたくさんしてみせる。(5:41)
正見 人々と物事の原因と結果を正しく見る 義(規則・法律)を守りなさい。 (5:6)(5:10)
人を裁いてはいけない。裁かれないために。(7:1)
まず自分の欠点を直しなさい
実(結果)によって彼ら(偽善者・悪人・にせ預言者)を
見分けることができるのです。(7:16)
悪人と付き合うときは、警戒しなさい。
正思惟 喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め 喜びなさい。(5:12)
断食をする時には、偽善者がするように、
陰気な顔つきをしてはいけません(6:16)
正語 優しい言葉で正直に話す
眼施 いつも優しい目つきをする
和顔施 おだやかな笑顔を絶やさない
言施 暖かい思いやりの言葉をかける
柔和でありなさい。 (5:5)
他の人にもあいさつしなさい。(5:47)
正業 人々の幸福のためになる職業に就く 平和を作りなさい。(5:9)
求めなさい、さすれば与えられる。(7:7)
良い物を求め良い物を得なさい
人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい
正命 自分、家族、人々の命を大切にし親切にする
身施 困った人を見たら助けてあげる
牀座施 弱い人、尊敬するべき人に席を譲る
父母を敬うこと(十戒)
求める者には与えなさい(5:41)
借りようとする者には貸しなさい。(5:41)
人々(悪人・異教徒を含む)のためにも良い行ないをしなさい。(5:16)
正精進 高い目標を定め、清い方法で前進する 狭い門からはいりなさい。(7:13)
正念 いまするべき仕事に集中する あすのための心配は無用です。
今日をしっかり働く必要があります。(6:34)
正定 常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる 自分の命のことで、何を食べようか、
何を飲もうかと心配するな。(6:25)
体のことで、何を着ようかと心配するな。(6:25)
まず神の国と神の義とを求めなさい。(6:33)
安息日を主の聖なる日として、
その日は主を思い、
体と心をいたわり休息せよ(十戒)

道徳律としてしてはいけないことを比較します。

お釈迦様イエス様
殺生 殺人、むやみに生き物を殺すこと 殺人をしてはいけないこと(十戒)
人を殺してはならない。(5:21)
偸盗 泥棒、盗み、ズル 盗んではいけないこと(十戒)
ズルをするな(5:32)
邪淫 妻や夫そして家族を苦しめる性行為 姦淫をしてはいけないこと(十戒)
隣人の妻を欲してはならない。
(他人の妻と交わりたいと願うスケベ心を禁ずる)(十戒)
空想でも姦淫をするな(5:28)
男は、不貞以外の理由で妻を離別させてはいけない。
男は、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯す。(5:32)
嘘 嘘をつくこと、悪事の隠蔽 偽証してはいけないこと
(嘘を言ってはならない)(十戒)
邪心(できもしないことや悪事)を
神に誓ってはいけません(5:34)
二枚舌 二人それぞれに反対のことをいうこと
悪口 汚い言葉、人の悪口、陰口 人を直接、面前で罵倒したり貶してはいけない。(5:22)
悪人に対して悪口を言ってはいけない
無駄口 必要の無い余計な話、心にもないお世辞 多弁の禁止(5:37)
貪る 飽きることなく欲しがる強欲や嫉妬 隣人の家をむさぼってはいけないこと
(他人の財産を欲しいと願う強欲な気持ちを禁ずる)(十戒)
宝・富を地上にたくわえるのはやめなさい。(6:19)
神と富とに兼ね仕えることはできない。 (6:24)
怒る 怒り、怖れ、怨み、憎しみ、苛め 腹を立てては、いけない、怒りは、いけない。(5:22)
悪人に対して怒ってはいけない
邪見 真実を認めず
愚かな間違い・迷信を信じること
偽善
人に見せるために人前で善行をしても、
人に見られることで偽善を見抜かれます。
だから、偽善をしてはいけない。(6:1)
陰で善行をすれば、よい報いが後から来ます。(6:4)
人前で祈ると、偽善を見抜かれます。
祈るときには、陰でひっそりと祈りなさい。(6:5)

如何ですか、お釈迦様とイエス様、ほぼ同じ内容の道徳を私たちに説明されています。

お釈迦様は、時代が古く、数百年も教えが口伝されたらしいこと、 今あるお経の多くが後世の創作で、 お釈迦様の教えから飛躍した ファンタジー小説のような内容が多数であり、 その大掛かりな舞台設定の陰に隠れて、 もともとの教え、八正道や十悪、については、 項目名だけが伝わり、 詳しい内容が現代に伝わっていません。 私の八正道や十悪の解釈が、みなさんの参考になれば、と願います。

イエス様の山上の垂訓の方は、 イエス様から大勢の方に直接話され、 推測ですが実生活からの素朴ですが深刻な質問に、 具体的に答えられていること、 お釈迦様より時代も新しいため、 新約聖書として文章で残り、 しかも世界中の言葉に翻訳されていることが、 特徴と思います。

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(更新日: 2017年03月23日)
幸せ研究室