私が仏教についてこの文章を書いている理由は、最近、年老いた母が病気になり手術をすることになり、それをきっかけに人生について考え直す機会を得たからです。 自分の心の安定を得たいとか、母に自分の考えを知ってもらいたいという気持ちもあります。
下世話な話ですが、仏教の教えに従って会社の運営をすれば迷いを振り払い、いずれ業績も良くなるとも期待しています。
私の生家は、とあるお寺の檀家です。その上、父の生家がお寺であることから、伯父や従兄弟が僧侶です。子供のころから仏教との距離は普通の家庭より近かったのです。
現在の日本に伝えられている仏教は、私には意味不明のお経、難しい用語と「してはいけない」という禁止事項が目に付きました。本来の仏陀の教えはこんなに難しく近寄りがたいものでしょうか。私は実は単純で判り易い教えである、と思いたいのです。
そういうことで、難しい用語に、現代風の言葉で簡単に説明を付けて、禁止事項の「してはいけない」より「こうするといいよ」という推奨事項を盛り込んでみました。
私の父は数年前に亡くなっていますが、生前の父から渡された「仏教読本」という小冊子があります。これを人生で困ったときは何度も読んでいました。ただ、この本の内容で理解ができないところがいくつもありました。仏教の知識を整理したいなとずっと感じていたのです。結果的に、この幸せ研究室の内容は、仏教読本の解釈と異なる説明になっているところが多数あります。でもそれでいいと思います。
仏教教団ではなく、生長の家の本ですが、谷口雅春先生の「生活読本」はお気に入りの愛読書です。もう十年以上愛読しています。生活読本は内容が楽しく易しく書かれています。仏教の本でもこういう書き方のもがあればいいなと思っています。そこで仏教の知識を整理するにあたり、先生の良いアイデアをこの文章には多数取り入れてあります。谷口雅春先生は万教帰一を唱えておられたので、きっとお許しいただけると存じます。それにしても、先生のように楽しい文章が書けるようになりたいですね。
私は世間で言われる生粋の理科系人間で、自然科学大好き少年が、そのまま大人になった者です。そのような人間が極楽地獄、あの世を信じるはずがありません。どうすれば、私のような現代人が仏陀の教えの真髄を理解し受け入れることができるかについてもできるだけ配慮したつもりです。まだ解りにいところがあれば、会社の問い合わせURL で質問してください。
ここからは、解釈裏話です。
仏陀の教えは最初の数百年は文字がなくて、口伝されていたといいます。これでは、当然信頼性に欠けます。文字があったかどうかも怪しい時代ということです。人類で最古の優れて美しくできた大切な教えだから、人々にありがたい尊い教えと認められて、宗教になった訳です。
仏教自体が発生元のインドで廃れててしまい、信者と教えが散らばり、流れ流れて中国語に翻訳されるときに、いろいろな人の解釈が紛れ込んでいるいることは事実です。意味をとって訳したり、音をそのまま音写したりと、技巧をこらすわけです。現代では、チベット仏教が知られて、そちらのチベット語への翻訳がしっかりしているとか、まあいろいろな意見があります。それがさらに日本に流れ込み、皆が皆、勝手な解釈をしだすわけです。だれもが善意で真剣に解釈しているから、よけいに混乱を招くわけです。私もその一人で混乱を招いているだけなのかもしれませんね。
そこで、私の解釈方針です。 仏陀の考え方には、神がありません、だから、超能力のような神秘性は一切無しとします。精神力とか気合とか根性とか我慢でなんとかなるという甘い考えもすべて排除します。常に見えて感じる現実の世界をありのままとらえ、現実に反応する感情の動きを論理だけで冷静に分析していく、これが仏陀の考え方の根幹であるとします。
漢字の意味を、漢字字典でよく確認します。熟語の意味は、長い年月で変化していますから、古代中国語として、もう一度、漢字の意味を推測しなおしします。一字一字そのものの意味をとらえるようにします。
もし疑問がわき、経典原語のサンスクリット語やパーリー語とその意味が見つかれば、参考にします。チベット仏教の資料もみつかれば参考にします。
八正道の正見には、「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。」という説があります。しかし、「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」という教えや「喜無量心」と食い違いが出てきます。ですから「厭を生じ」とか「喜を離れ、貪を離る」を修行の主目的としてはいけないと私は解釈しています。それだけを目的とすると、いずれ現実世界を見ないごまかしや無関心を生み出すことになりそうです。
八正道の正思惟で「出離を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟すること」という深遠すぎて私には意味がよく判らないな説があります。これはおそらく後世の修行僧たちによる後付の理屈と私は推測しています。
正業と正語に十悪の禁止事項を書き記す解釈方法がありますが、私の解釈は逆で「こうするといいよ」を取り上げました。禁止事項だけを記しては、行うべき善が見えなくなるからです。八正道の目的は、善を行うことですからね。
正思惟 、正念、 正定は心つまり感情の持ち方や考え方で頭の中のことです。私はこれら三つを難しく考えすぎないことが大切と感じて、現代風に簡単に記入してみました。
このように八正道を平易に現代風に解釈することで、誰でも八正道を理解し実行に移せるようになります。これでこそ万人のための教えとなります。
仏教の一部では、「悟りを得た直後の仏陀が人々に悟りを説くかどうか迷った。その理由は悟りが難解だから。」という説がありますが、私は「難解である」の立場ではありません。悟りの理論的核心は、四諦と三法印です。わたしの解釈はとても簡単ですね。八正道、無財七施、四無量心も僅かな項目しかなく難解とは言えません。残る本当に難しいこととは、八正道をできるだけ完全に実行することです。理解はできても、凡人には、部分的にしか実行できないのです。
たとえ、この四諦と三法印を理解できなくとも、八正道、無財七施を実行すればそれで悟りの四無量心に到達できます。ちょっとでも実行すれば、その瞬間は仏陀です。実行をやり続けれは、まさに仏陀そのものです。私は、ここにこそ、魂の救いがあると考えています。だれでも、一瞬は仏陀になれるのですからね。
またもっといいことに、人それぞれに進む道は違ってよいので、皆が教祖や修行僧になる必要は無く、社会生活を営みながら八正道を実施すれば良い訳です。そして八正道の中にあるように「根気よく努力する」ことを続ければ、次第に八正道をうまく実施できるようにきっとなります。
もちろん私はまだ八正道を完全に実行できませんので、苦しみを完全に取り去ることがまだできていません。それでも、八正道にあるような良い事を一つすると気持ちがいいものですね。この良いことをすると気持ちがいいという感覚をこれからも大切にしたいものです。
仏陀の生まれた二千四百年前、当時の交通力、通信力、科学力を空想してください。とても遅れていた時代です。私には、当時の国に文章で書かれた法律があったかどうかも解りません。きっと今より迷信が蔓延っていたことは間違いなさそうです。
仏陀が大変に偉大な人物であったことはもちろんですが、そのような昔の時代に一人の人間として生まれ、二十九歳で出家してわずか六年の修行で得られる知識の量はたかが知れているはずです。まず仏陀は迷信を見極める必要があったはずです。その点を忘れないようにしないといけません。
仏陀は六年の修行中、いろいろな師につき知識を得たそうですが、知識をそのまま鵜呑みにせず、自らこの世をじっくり観察し確実と思える知識だけを取り出し、三法印でこの世の成り立ちと生きる目的を整理されたのだ、と私は想像しています。
仏陀の生きた頃には、我という変化しない主体、いわゆる死後も不滅の霊魂でしょうか、これを想定する有我論がありました。そこで、「諸法無我は有我論の否定、無我論、すべての存在には、主体とも呼べる我がない、それはすべてのものが変化していくから我も変化してやがて消えるからだ。」と解釈する説が巷ではほとんどです。さらには、「諸法無我とは諸行無常を別の角度からいい直ししたものです。」という説まであります。諸法無我を無我論と解釈すると確かにそうなります。それは、「行」と「法」が同じ意味、ものとか存在と、捉えるから、そうなるのです。たった三つしかない三法印の項目で仏陀がそのような言い直しをわざわざすることは、誠に不思議な感じがします。もし無我論であれば、諸行無我となることがより好ましいはずです。
ネットのサイト http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha279.htm からの引用ですが、
> 諸法無我の部分に注目してみましょう。 > sabbe(全ての) dhamma(法は) anatta(魂、自己がない) > > dhamma とは宗教・教え・法則の意味で、事物という意味ではありません。 > anatta とは attan(魂、自己)の否定語で、それ自体単独で存在しないという意味です。 > > 諸法無我は間違い? > http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-50.html >とありました。原語のサンスクリットまたはパーリー語を評価したものです。 やはり、「行」と「法」は違うもので、「法」は法則を意味しています。物や存在ではありません。これを見て私は、自分の諸法無我の解釈に確信を持ちました。
つまり私は諸法無我について字句どおりに素直に受け取り、解釈することにしました。この解釈により、諸法無我が非常に明快に理解できます。現在の自然科学との相性も、とても良好です。なにしろ、私の諸法無我の解釈は、誰でも知っている常識そのものですからね。
伝えられる物語から仏陀は、「死後も不滅の霊魂」については何も語っていないようです。むしろ正しいと説明がつかない議論に立ち入ることを戒めているお話もあると聞きます。有我論と無我論があると、双方の立場からの議論が果てしなく続きます。仏陀の真意は、水掛け論になってしまう議論を止めてしまい、誰にでもはっきり真実と判ることだけに立脚することだったと私は推測します。
私たちが事実として理解していることは、自分という我は、自分が生きている間はあると感じるということ、自分が死んだらどうなるか自分には判らないということ、他人の我は、生まれてから死ぬまでその体にあるように見えること、そして人が死んだら我としての心は体から消えるということです。
実は、「人それぞれに進む道は違ってよい」、「一人でも多くの人が幸福になることが善」、「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」、四諦、八正道、無財七施、四無量心、十悪こそが悟りです。三法印は悟りのエッセンスを別の表現で言い直したものに過ぎません。文字数からいっても明らかに三法印だけでは内容不足です。ですから、諸法無我の解釈などどちらでも大勢に影響はありません。諸法無我の解釈を他の方と議論することは意味が無いということになります。
十二縁起を取り上げなかった理由について長めですが説明します。
十二縁起は、十二因縁とも呼ばれ順に並べると、一、無明、二、行、三、識、四、名色、五、六入(六処ともいいます)、六、触、七、受、八、愛、九、取、十、有、十一、生、十二、老死とされています。いろいろな説を読んだり比較した他限りでは、正直どの説明も納得できませんでした。最もよくまとめられた説明は、悟りへの道「十二因縁」です。この説明には、外縁起と内縁起の解釈を並べてありとても良心的と言えます。が、その説明内容は何度読み返してもよく判りません。
私の立場は、「もともとお釈迦様の教えは簡単明瞭であるにちがいない、判らないとか悟りは難しいといっているのは何百年も後の人々が創作した経典の中の話にすぎない。お釈迦様は僅か三十五歳で悟られた、修行期間も六年と短いし、当時の科学、哲学の知識も僅かなものでしかない、だから誰でも体感でき実感できる常識に基づいて悟りを開かれたに違いない。」です。この立場から十二縁起を見直すと、私流の異説が出てきます。
まずこれまでの説明で出てきた用語で解釈してみます。一の無明は、真っ暗で自覚できない心の奥底、現代の用語で言う生存本能のようなものだろう。二の行は、五蘊の一つの行、つまり、行動への意志・感情。三の識は、五蘊の一つの識、つまり、心の認識作用。四の名色の色は、五蘊の色つまり、肉体であり、名が謎として残るが、名は自分以外の相手の名前を指すのだろう、だから自分以外の者や物であろう。五の六入(六処ともいいます)の六は、六根つまり六つの感覚器官である。入が謎として残るが、おそらく、感覚器官に入ってくる情報という意味だろう。六の触は、六境の触境のことで、手触り、温度、体内の動き、痛みと考えるとよい。七の受は、五蘊の受であり、これは感覚器官であり、おそらく感覚や情報を受け取ることを意味するのたろう。八の愛は、そのまま相手を好きになること、愛することだろう。九の取は、夫婦で互いに愛を交わすこと、つまり受精。十の有は、妊娠期間のこと。十一の生は、子が生まれること。十二の老死は、子が成長し大人になりやがて老いて死ぬこと。生老病死の病が無いが、単に省略しただけだろう。八の愛から十一の生、十二の老死があるので、前半の一から七までを再検討すると、男女二人が出会い互いに好きになるまでの心の動きを追ったものではないかと推察できます。
お釈迦様の母上、名はマーヤー(摩耶)は、お釈迦様を生んですぐ亡くなられ、その妹のマハープラジャーパティがお釈迦様の父上でである釈迦族王の妃となり、お釈迦様を育てられた。お釈迦様の妃は、ヤショーダラーといい、お釈迦様の息子は、ラゴラといいます。そして、ラゴラはお釈迦様の十大弟子に数えられています。つまりお釈迦様は、恋愛や子育てという家族を持つ人生の機微を十分承知されているわけです。ただし男性の立場からです、そして私も男ですからなんとなく判ります。
では、一から十二まで私の考えで再度説明し直します。一の無明は、男性は真っ暗で自覚できない心の奥底から女性を求める欲求が浮かび上がる。二の行は、そして恋人を得たいという感情から出会いを求めて男性は活動する。三の識は、たくさんの女性と出会い相手の性格や自分との相性を認識する。四の名色は、そしてついにこれはと思える良い女性に巡り会う。五の六入(六処ともいいます)は、相手に惚れてしまうと、六つの感覚器官を通してドキンという衝撃が伝わる。六の触は、恋人に触れたいという強い欲求であり男性が女性にプロポーズすることである。七の受は、相手の女性が男性を受け入れ相思相愛となることである。八の愛は、愛で結ばれた二人は愛し合うため一緒に生活すること。九の取は、夫婦で互いに愛を交わすことそして受精すること。十の有は、妊娠期間のこと。十一の生は、子が生まれること。十二の老死は、子が成長し大人になりやがて老いて死ぬこと。
私の解釈では、十二縁起とは、「男性が女性を探し求めて出会いがあり男女が互いに好きになり子供が生まれやがて老いて死ぬこと」です。そんなことは誰でも知っている常識です。そしてこの解釈は、世間にある仏教本での難しい解釈と比べてあまりに違いすぎますね。でも、お釈迦様は悟り(八正道や四諦)の内容が正しいかどうかを確認するときに、この十二縁起のそれぞれの段階で悟りの内容が正しいかどうか確認されたという言い伝えも残っています。つまり、十二縁起とは、人生の段階を男女の恋愛と家庭生活で区切ったものであり、悟りの正確性を確認するための評価表つまりチェックシートみたいなものです。人間の精神構造は、五蘊ですでに説明済みなので十二縁起が精神構造のはずかありません。そして私の立場に述べたように、お釈迦様が十二縁起で神秘的な霊魂の話をすることもありえません。とにかく十二縁起とは、だれでも知っている平易すぎる常識ですから、わざわざ章を設ける必要がまだ無いと私は考えています。
私がこの幸せ研究室で、空、如来、菩薩を取り上げない理由は、空、如来、菩薩の考え方は、お釈迦様の死後、数百年後に発生した考えであることが、仏教の歴史を検証した学説からはっきりしているからです。空、如来、菩薩は、たいへん良くできたファンタジー小説に似ています。今風に言えば、仏教に入信してもらうための広告宣伝、キャッチコピーの役割をしていたのでしょう。その考え方は、当時の人には必要だったと思われますが、お釈迦様の許しを得て付け加えられたものではもちろんありません。
今、「すべての者と物は、空である」と言えば、体感的、経験的事実との違いをうまく説明できなくなります。仮にそうだとすると何者にも違いを認めないことにもつながり、なんでも同じという乱暴な議論になり、理論的にも実践的にも大きな成果が得られることは無くなります。最悪の場合、八正道の否定も可能になりそうです。
如来、菩薩について、物質的存在、つまり肉体を持った存在であるはずがなく、であれば現実として感じれるはずもなく、つまり、感じられたらそれは物質でありまがい物の如来、菩薩であるということ、つまり、如来、菩薩はあくまでも空想してみた、それだけのものです。仮に如来、菩薩あるとすれば、私たちの論理では証明できず、現実で体感もできない世界の者です。つまり、この幸せ研究室で取り扱う範囲外の者です。
大乗仏教の本来の目的「自分だけ悟るのでなく衆生を救う」ということを現代で実現するならば、迷信や空想に頼らず、便利な科学と貨幣経済と民主主義を重んじ、八正道を丁寧に説明しなればならないと私は考えています。
「どこを探しても明快に理解できる八正道の(日本語の)説明が見つからない。」 と私は感じています。 お釈迦様が最初の最初に語られた悟りの内容であり、 最も基本であり、最も大切であり、 しかも最初だからこそ明快なはずの悟りへの道標、 そうあるはずの八正道について、 実は(日本人は)誰も正確に理解していないのではないか という不思議な印象です。
お釈迦様が生きておられたときは、明快だったものが、 いつのまにか、忘れ去られ、 そのときそのときの時代の常識と異なる国の社会常識で間違って解釈された。 つまりボタンを掛け違えてしまった。
それに気が付いていた人もたくさんいたはずだが、 なぜだか見て見ぬふりをしてしまった。 その理由は色々でしょう。
ただ、最も後世に悪影響を与えたと思われることは、次のようなことと推測します。 宗教的な権力を持った人が解釈の間違いを犯したが、それを認めずに亡くなってしまった。 むしろその間違いに宗教的脅しを加えていた。 そのため、間違いの説が生き残り混乱を招き、教えの分裂を招いていく。 まさに諸行無常の歴史です。 こういう、状態を末法の状態と言うのでしょう。
とろこが、現代社会では、科学が発達し、物だけでなく心の問題についても、 合理的に説明できるいろいろな考えが紹介され、 常識として知られています。 また、コンピュータや人工知能の研究で、情報と知能を 機械的現象として捕らえる方法が極めて発達しています。
コンピュータ科学では、情報処理には、ハードウェアとして、 入力装置、記憶装置、演算装置、出力装置が必要です。 でも、それだけでは動くことができず、 エネルギーとして、電力が必要であることが判っています。 エネルギーにより演算装置は、ソフトウェアであるプログラムをたどり 情報を入力し続け、その情報を処理し続け、 記憶を更新し、出力を続けます。 そして、自己成長つまり進化するには、 ソフトウェアとしてのプログラムが、 自分で自分を書きなおせる能力が必要であることも判明しています。
現代の常識、分析的思考では、肉体と精神を分けて考え、精神を理性と感情に分けて考えます。 ここで漠然と持ち出した言葉である精神とは、また漠然と持ち出した言葉である心のことです。 心の働きは、感覚つまり情報の入力と、記憶と感覚の比較による対象の認識が最初にあります。 認識とは、これは何であるという区別と、大きい小さい、強い弱い、好き嫌いの程度の判定です。 認識の次には、次の動作を決める判断、決断、つまり意志決定をします。 そして意思から筋肉に命令が伝わり体が動くのです。 意識がある人とは、外界からの刺激つまり言葉に反応して、言葉を返す人です。 少なくともイエス・ノーの意志表示を筋肉反応として返すことができることです。 しかも普通の人間であれば、心の動きは、すべて記憶され、経験として思い出すことができます。
そして、この程度のことは、誰でも体験している日常生活での心と体の動きそのものです。 この説明に、異を唱える人はいません。 そしてコンピュータに詳しい人には、注目して欲しいのですが、 人間の肉体と精神の基本構造とコンピュータの動作がとても良く似ていることです。
現代の日本では、キリスト教の教えも広く知られており、その長所もまたよく知られています。 わたしは、キリスト教の信者でも研究者でもないのでその教義について詳しくは判りませんが、 アメリカやヨーロッパの人々の生活に根付くキリスト教の教えが、 彼らの発想、感情、行動の根本にあり、 それが彼らの成功に結びついていると推測しています。
また、現代は、スポーツや芸術が発達し、優秀な人が表彰され、 彼らから勝利のための方策を聞く機会がたくさんあります。 心をどのようにコントロールすると成功するのか、 ハウツーとして沢山の人が良いことをたくさん述べています。
世界最高峰の選手、例えばオリンピック選手たちのインタビュー等で判ることは、 日本人選手にしろ外国人選手にしろ、 リラックスしていながらも集中していることが大切なことです。
日本人にありがちな、歯を食いしばって、息を止めて、 がんばるだけの単純な根性論では、勝利は遠のくということです。
伸び伸びと育てられた、気立ての良い明るい人が勝利者の大多数です。 卑屈で偏屈ですねた者が勝利を得ることは少ないです。
私は、リラックスとは、八正道の正定、常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいること。 集中とは、八正道の正念、いまするべき仕事に集中すると考えています。
仏教も本来は、もっと明快で使えるハウツーだったはずではないのでしょうか。 そうであって欲しいと私は思います。
心とは何かというときに、不滅の霊魂とか、神秘的瞑想に頼ることは止めてみましょう。 現実に物や感覚として感じることのできない、つまり実証できないただの空想に頼らなくとも、 だれでも感じられる共通の常識だけで説明していきましょう。 では、話を戻します。
十悪については、比較的理解しやすいためか、世の人の解釈にあまり大きな違いはありません。 それで、八正道と十悪を表で対比させたいと思います。
まず、八正道の項目を心(つまり精神、理性と感情、)、語り(つまり話言葉と書き言葉)、行い(つまり行動)に分類します。
No. | 八正道 | 分類 |
---|---|---|
(1) | 正見 | 心 |
(2) | 正思惟 | 心 |
(3) | 正語 | 語 |
(4) | 正業 | 行 |
(5) | 正命 | 行 |
(6) | 正精進 | 行 |
(7) | 正念 | 心 |
(8) | 正定 | 心 |
八正道の項目は、心から始まり、次が語りであり、次が行いであり、最後に心が二つあります。 これは、どういう心を持つと正しいか、 それによってどういう話をして意思表示をすると正しいか、 その意志をどういう行為をして実現すると正しいのか、 そして目指す正しい心の状態つまり悟った心状態とは何であるかを 順を追って説明したものです。 つまり、原因から結果について並べたものです。 ですから、最初の正見が最も大切であり悟りの始まりです。次に大切なものが正思惟です。
正見は、精神の理性・理論・理屈のことですので、正思惟は感情・好き嫌いです。 ここでつまずくと、正見も正思惟も考えということになり、 何がなんだかわからない曖昧で漠然とした説明 (上っ面だけの説明、正見とは正しく見る、正思惟とは正しく考えること)と成り果てます。 後で、八正道と十悪を対比させてよく考えてみます。 すると正思惟が感情であると結論つけることができます。
本文で説明した私の解釈ですが、 正業は、人々の幸福のためになる職業に就く。つまり、どういう事をすると良いか。 正命は、自分、家族、人々の命を大切にし親切にする。つまり、どういう方針ですると良いか。 正精進は、高い目標を定め、清い方法で前進する。つまり、どういう方法ですると良いか。 としています。
まず、十悪の項目も心(つまり精神、理性と感情、)、語り(つまり話言葉と書き言葉)、行い(つまり行動)に分類します。
No. | 十悪 | 分類 |
---|---|---|
(1) | 殺生 | 行 |
(2) | 偸盗 | 行 |
(3) | 邪淫 | 行 |
(4) | 嘘 | 語 |
(5) | 二枚舌 | 語 |
(6) | 悪口 | 語 |
(7) | 無駄口 | 語 |
(8) | 貪る | 心 |
(9) | 怒る | 心 |
(10) | 邪見 | 心 |
十悪の項目は、行いから始まり、次が語りであり、最後に心が三つあります。 これは、罪の重いものから並べたという意味があります。 悪い行いは、悪い言葉より罪が重く、悪い言葉は、悪い心より罪が重いということです。 また、結果を先に述べ、原因を後に述べた形です。 悪い行いの原因は、悪い言葉である。悪い言葉の原因は、悪い心であるということです。 悪い心の貪るは、強欲とも言われ、果てしない欲望です。 悪い心の怒るは、精神の悪い感情のことです。 悪い心の邪見は、精神の悪い理性、理屈に合わない間違いのことです。 そして、悪い心の根本原因は、邪見です。
十悪は、八正道の逆順であることが理解できたので、十悪を並べ変えて八正道と対比させます。
No. | 八正道 | 分類 | 十悪 |
---|---|---|---|
(1) | 正見 | 心 | 邪見 |
(2) | 正思惟 | 心 | 怒る (貪る) |
(3) | 正語 | 語 | 嘘 二枚舌 悪口 無駄口 |
(4) | 正業 | 行 | 殺生 偸盗 邪淫 |
(5) | 正命 | 行 | 殺生 邪淫 |
(6) | 正精進 | 行 | 偸盗 |
(7) | 正念 | 心 | 貪る |
(8) | 正定 | 心 | 貪る 怒る |
いかがでしょうか、八正道と十悪は項目の数と範囲が微妙に違うので、 一対一には対応させにくいのですが、ほぼうまく対応します。
正見と邪見は完全に一対一です。
正思惟つまり正しい感情は、主として怒るに対応します。 さらに、貪る・強欲をカッコつきでいれておきました。 強欲があると怒りが増すことが多いからです。
正思惟は、怒ると反対の感情です。貪る強欲も無くします。 それは、いったいどんな感情でしょうか。 正思惟の説明として、怒らないこと、で済ませてしまうのでは無く、 もっと踏み込んで積極的に説明してみましょう。 正思惟とは、喜び、楽しみ、感謝すること、あるいは同情・慰めではないでしょうか。 付け加えて、強欲を無くし相手に譲り与えることではないでしょうか。
正語に対応するものは、明快です、嘘・二枚舌・悪口・無駄口の四つです。
正業は、するべきこと、仕事、職業ですので、殺生 偸盗 邪淫に関係する仕事はいけません。 正命は、良い方針、命を大切にし親切にするですので、特に、殺生 邪淫を対応させます。 正精進は、良い方法ですので、ズルや卑怯なことをしないという意味で、偸盗を対応させます。
正念、つまり、いまするべき仕事に集中することには、 十悪の貪るの強欲、あれもこれもと欲しがり気がふらついていることを対応させます。
正定、つまり、常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいるですが、 その反対とは、心が異常に興奮してざわめき、我を失っている状態、 怒りや強欲に身をまかせている状態ということで、 十悪の貪ると怒るを対応させます。
八正道と十悪の対比は、いかがでしたか。 これまで説明が不十分と思われた八正道の心の部分について理解が深まると思います。
正見は、合理性を理解し重んじること、 正思惟、感情・気持ちの問題であり、喜び、楽しみ、感謝すること、あるいは同情と慰め、 正念が、雑念を払い、目の前の仕事に集中すること、 正定が、落ち着いたおだやかな気持ちであること という解釈が、合理的であると理解していただけると思います。
そうなんです、不滅の霊魂とか、神秘的瞑想は、八正道に出てこないことが判ります。
宗教の教義についていろいろ調べています。いろいろと考えさせられます。
だれでも思いつくことですが、宗教と聞くと息苦しさを感じる人がいると思います。 息苦しさとは、宗教からくる何らかの強制・圧迫・ストレスという意味です。 息苦しさがあると楽しくありません。
ですから、信心する前に、その宗教とその宗教の指導者の性質を見極める必要があります。
信者に対して優しいのはアタリマエのようですが、そうでもないこともあります。 たいてい、信者に何かを要求してきます、それが私たちには問題です。 信者に金品を要求するか、労働を要求するか、布教を要求するか、心を要求するか、何も要求しないか。
信者を止める人(裏切り者?)には、どういう態度をとるかも問題です。 信者以外、異教徒には、どういう態度をとるか。 褒めるか、哀れむか、無視するか、改宗を強制するか、怨むか、憎しむか、呪うか、脅すか。
「私には自由に感じ考える意志がある」と人間の全員が感じていると、私には思えます。
実は、自由意志というものがあるかどうか、証明することは、とても困難と思います。 だから、自由意志なんて、そもそも、ありえないかもしれません。
また、絶対的支配者であれば、 自由意志のある世界を作ることも、 自由意志の無い世界を作ることもできたはず。
なぜその宗教の世界観が説かれるのか、よく考える必要があります。 絶対的支配者の名を借りて、なんらかの人間の目的が隠されている気がします。
少なくとも今の現実は、 「自由意志がほぼ確実にありそうだ」と 私に感じさせてくれる世界です。
ゲームで、「ゲームオーバー後に、成績一覧で、下位者は罰せられる。」 そんなゲームに誰が好き好んで参加するでしょうか。
自由意志のある者を、ルール説明も承諾も無く、 拉致してゲームで競わせ、 ゲームがある程度進行してから、 ルール説明を始める、 そしてゲームオーバーになり、 下位者は永遠に罰せられる。
そんなゲームを運営したら、 人権侵害で間違いなく逮捕され監獄送りです。
でも、「この世はそんなゲームのような世界だ、だからこの宗教に入りなさい」 という風に聞こえることも時々あります。
結局のところ、どの宗教も自由意志の存在を認めていると思われます。 自由意志が無いなら、全員を絶対的支配者の力で信者にすれば良いだけなのに、 そうしていないからです。
人に自由意志があれば、他人を自分の思い通りに動かすことは、難しい。
他人の意志を制約しないとき、他人の行動を制約するには、牢獄が必要になる。 もちろん、私に、他人を牢獄に入れる権利も力も意志も無い。
他人の意志を制約するとは、その他人の意志決定の選択肢の中で、 こちらの希望する選択肢を選ばせること。
それには、こちらの希望する選択肢が他人にとって利益があり、 残りの選択肢が悪い選択肢であると思わせることである。
他人に知識を与え、判断基準を変更させ、 こちらの希望する選択肢を選ばせる。
でもその選択肢は、その他人にとって利益がある、 少なくともその他人が不利益を被らないと判断しないと、 選択されることは無いでしょう。
利益とは、物質的快感(金品)、肉体的快感(食欲、性欲、病気が治る、若返る)、 心理的快感(勝利、褒められる、愛される、家族仲間と安寧に過ごせる、自分のプライドを満たす)の いずれかでしょう。
不利益とは、物質的損害、肉体的苦痛、 心理的苦痛(怨み、憎しみを受ける、差別される、プライドを無視される) ということでしょう。
優れた宗教なら、「どんなときも、どんな相手にも、怨み、憎しみを心に思ってはいけない」 と説かれると思います。
そして現実の問題、例えば、女性を見るとだれかまわず抱きたくなるという男の性欲、 敵から攻撃を受けたときの対処の仕方、をどのように説明するかで、 その宗教の特徴が出てくると思います。
信者に何も要求しない、求められれば、ただ知識だけを提供する、知識の実践は信者の自由である、 それでは宗教と言えないのでしょうか。
2012年07月24日
日本の仏教に出て来る業を取り上げない理由
日本の仏教には「業」という言葉がありますが、
ここ「幸せ研究室」では敢えて「日本の仏教の業」を取り上げていません。
その理由を説明しておきます。
辞書「大辞泉」によれば、「日本の仏教の業」とは、
(1) 人間の身口意による善悪の行為
(2) 前世の行為によって現世で受ける報い
(3) 理性で制御できない心の働き
とあります。
(1)ですが、身口意とは、身体・言葉・心のことでありますから、 「日本の仏教の業(1)」とは「精神と肉体のすべての行為」を指します。すべての行為とは、善悪すべての行為という意味です。 八正道とは、心(理性と感情)と言葉と行動をどうすると良いかという指針ですから、八正道は「日本の仏教の業(1)」の正しい仕方の説明です。反対に十悪とは、「日本の仏教の業(1)」悪い仕方の説明です。ここで、(八正道)+(十悪)=(日本の仏教の業(1))という関係が成り立ちます。 注意して欲しいことは、八正道の中にある「正業」の業(=仕事)と「日本の仏教の業(1)=精神と肉体のすべての行為」は意味の範囲が違うことです。 これで、私流の解釈ですが「正業とは人々の幸福のためになる職業に就く」とした理由を理解していただけるのではないでしょうか。 八正道が仏教の根本であることは明白なので、「正業」と混乱を招きやすい「日本の仏教の業(1)」は取り上げる必要はないといえます。
(2)ですが、前世、現世という証明できないことについて語っているため、 「誰もが正しいと認める客観的法則」とは言えません。 ですから、ここ「幸せ研究室」では「日本の仏教の業(2)」を取り上げるわけには行きません。
(3)ですが、「理性で制御できない心の働き」とは現代の用語では、動物的な本能やその感情のことです。 動物的な本能やその感情を「幸せ研究室」から拾い出すと、 八正道の「正思惟」、十悪の「貪る = 貪欲」や「怒る = 瞋恚」、 四苦八苦の「愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」などが出てきます。 既に丁寧に詳細に明快に説明されているこれらの適切な言葉があるのに、 「日本の仏教の業(3)」という言葉でぼんやりとした範囲に戻してしてしまう必要はないと言えます。
2013年03月08日 2013年10月23日(改)
お釈迦様が家族を捨てて出家したことへの批判を検討します。
お釈迦様への批判としてよく言われていることは、妻や幼い子供を捨てて出家したこと、一国の王子の地位を捨てて出家したことです。この「出家した」という事実は最も有名な話として言い伝えられておりますから、お釈迦様でも言い逃れることはできません。
お釈迦様の出家という行為は、妻子ある王子という立場とお釈迦様自身の教えに照らして正しかったのかという検証が必要になります。できるだけ当時の状況をふまえて、順を追って検討していきましょう。
まず、お釈迦様についての言い伝えやお経の話が、どれが想像上の伝説・脚色なのか、どれが史実なのか、今では不明なことばかりであることを承知しておく必要があります。残された資料から慎重に史実と思われるものを拾い集めていくことになります。そして、推定史実の状況から、お釈迦様の個人的な考え・感情を推測することになります。
お釈迦様は、29歳で出家され、35歳で悟りを開かれ、その後80歳で入滅されるまで教えを説かれたと言われています。お釈迦様の父上は、コーサラという大国に服属する小部族のシャーキャの王(クシャトリヤ階級)で名をシュッドーダナといいました。母上の名はマーヤーです。母上はお釈迦様の生後一週間で亡くなり、母上の妹君、名はマハープラジャパティー、によって育てられました。お釈迦様は、16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ(ラゴーラとも言う)を授かります。ラーフラの生年ははっきりせず、お釈迦様の出家前後ではないかという説が有力です。その他にも数人の妃がいて子供がいたという説もありますが、正確なことは解りません。
当時は、バラモン教が支配する階級社会であり、大きくバラモン(聖職者・僧侶)、クシャトリヤ(王族・武人)、ヴァイシャ(庶民)とシュードラ(隷民)と四階級に分かれていました。当時の男性社会については、女性社会より詳しく伝えられています。女性社会もあったはずですが言い伝えが少ないです。母上と養母の妹君のように、当時の王族には、姉妹婚の風習があったことも事実のようです。当時は文字による記録をされずに、すべて口伝したと伝えられています。数百年後に文字による記録としてお経ができましたが、亡くなってから数百年経つのでお釈迦様に事実を確認することはもちろんできません。現代の立場からお釈迦様時代の階級社会の制度・風習・結婚習慣を批判しても意味がありません。
お釈迦様が悟りを開いてから12年後の47歳に故郷カピラ城に帰郷したと言い伝えられています。そのとき、女性の弟子(比丘尼)を初めてとって、母上の妹君であり養母となられたマハープラジャパティー妃らが比丘尼となりました。妻のヤショーダラーも、最終的には比丘尼(それも第一人者と言われています)になっています。息子のラーフラも弟子(比丘)となり、釈迦十大弟子の一人として有名です。
お釈迦様の親族の多くが出家してお釈迦様の弟子になったということは、僧の集団として過ごし、心・言葉・行動の戒律を守ったということです。
残念なことに、今も残る言い伝えでは年月の計算に辻褄が合わないところがあり、ぼんやりとした史実しか浮かび上がりません。
お釈迦様が出家して悟りを得るまでの7年間、さらに故郷のカピラ城に帰郷するまでの12年間、放置された家族に対する責任には何があるでしょうか。現代の目から見れば、経済的責任と精神的責任でしょうか。当時の社会常識を推測して責任の果たし方を判断しなければなりません。
経済的責任については、お釈迦様の家族は、お釈迦様の出家後も、これまで通り王族の生活ができていたようですから、お釈迦様は生まれ持った王子の地位と財力で、家族の生活の保証をするという経済的責任を果たしたと考えられます。
親が長期間不在だったわけですから、現代の目から見て、父としての精神的役割を果たせなかったこと、及び、家族への連絡不足が責められることでしょうか。
父親不在には、昔も今も家族が待つことを納得できる理由が必要でしょう。お釈迦様は、世の中の人々を苦しみから救う前人未到の知恵を悟るために修行に出たわけで、明確な理由がありました。現代的に言えば、危険な外国への単身赴任でしょうか。待つ側にも辛いことがあったと思われますが、家族は父の親の目的を理解して待つことを求められても仕方ない部分がありました。
現代的な家庭教育と違い、当時の王族の文化習慣では、子供の養育は生みの親でなく専任の教師が行っていても不思議ではありません。お釈迦様に子弟の教育の責任はなかったと言えそうです。
30歳近くの妻への愛情表現については、日本の徳川将軍家の大奥がそうであったように、当時の文化習慣では不要だったかもしれません。この点は曖昧な責任問題として残ります。
現代の交通事情や通信事情を仮定して、家族への連絡がないことを非難することはできません。当時の交通手段は徒歩です。また電話も郵便もありません。何年も音信不通になることは当然ですし、当時の人にはそれがアタリマエの感覚でした。
王国側から見ると、お釈迦様の父上の治めたシャーキャ国は、政治形態としてはサンガという共和制(専制的な王を持たず、部族民の代表たちが協議して政治する)を取っていたため、お釈迦様が必ず王位を継ぐ必要があったわけではなさそうです。また、跡継ぎの子供が生まれてから出家したとも言えます。
お釈迦様の晩年に、このシャーキャ国は、服属していた支配側のコーサラ国から攻め込まれて滅んでしまったと言い伝えられています。この祖国の滅亡がお釈迦様の責任と言うこともできません。伝説ではコーサラ国王の逆恨みが滅亡の原因のようです。お釈迦様とその家族は出家していたのでこの争いに巻き込まれなかったとも推測できます。
征服側のコーサラ国もやがて滅んでしまいました。この諸国の盛衰こそ諸行無常の教えの通りです。ただ、お釈迦様が残された八正道の教えは、人間の思惑(=我欲)とは関わり無く、昔から変わらずに残り続ける真理の法則という意味で諸法無我の教えです。
どんな人間も必ず老いて病に伏していずれ死ぬのですが、この逃れられない運命を少しでも苦しまずに、むしろ楽しく一生を過ごして終わるための知恵が、お釈迦様の教えです。
お釈迦様の家族を含め多くの人々が、この教えを知ることで少しでも苦から逃れることができたのなら、結果として「お釈迦様の選択は正しかった」と私は感じます。
2014年12月05日-08日