幸せ研究室

目次

ようこそ、幸せ研究室へ。せっかくの人生、めいっぱい楽しまなければもったいない。 毎日心の底から笑って幸福になりたい。だれもがそう願っています。お釈迦様だってそうだったのです。

今からおおよそ二千四百年前、 悟りを開いて仏陀となられたお方、 お釈迦様が説かれた教え、 それが仏教です。

喜びに溢れた楽しい人生を送る方法を、 仏陀の尊い教えから選び出して、 できるだけ易しく説明させていただきます。 きっと幸せになれるヒントが見つかると思いますよ。

仏教をご存知の皆様はもう一度初心にお帰りいただき、 仏教は初めてという方は素直なお気持ちで、この教えをじっくりと味わってください。 皆様に、尊い教えをお持ち帰りいただくことが、私の願いです。 合掌。

第一部 仏陀の教えの真髄

仏教の長い歴史の中で仏陀の教えは、 人々に様々に解釈され変化し発展して来ました。 長い長いの歴史の中でも、 未だに変わらずに伝えられている教えがあります。 これこそ、最も大切な幸せの道の教えです。 この教えには宗教色がほとんどございませんから、 どのような宗教を信仰されておられる方でも、 また無宗教の方でもすんなりとご納得いただけると存じます。

第一部 第一章 幸福と善
第一部 第二章 信心と功徳
第一部 第三章 八正道
第一部 第四章 無財七施
第一部 第五章 四無量心
第一部 第六章 十悪

仏陀の教えの真髄 英語版

第二部 仏陀の教えの構造

第二部では、仏陀の幸せの道の教えをさらに掘り下げて説明していきます。

第二部 第一章 三学
第二部 第二章 六波羅蜜多
第二部 第三章 布施
第二部 第四章 四諦
第二部 第五章 四苦八苦
第二部 第六章 煩悩の三惑
第二部 第七章 五蘊
第二部 第八章 六根
第二部 第九章 六境
第二部 第十章 六識
第二部 第十一章 三法印
第二部 第十二章 三帰依

第三部 教えの展開

第三部からは、仏陀の教えを活用して、 毎日の生活を幸福にするヒントを集めて行きます。

第二十五章では、イエス様の「山上の垂訓」をお借りして 命より大切なものを探り、お釈迦様が説かれた教えを再確認します。

第三部 第一章 仏教と神
第三部 第二章 仏教の愛とキリスト教の愛
第三部 第三章 地獄極楽の方便
第三部 第四章 中道
第三部 第五章 喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め
第三部 第六章 祈り
第三部 第七章 意識を集中
第三部 第八章 心の安定
第三部 第九章 与楽抜苦
第三部 第十章 褒め上手、褒められ上手
第三部 第十一章 伴侶を得る
第三部 第十二章 富
第三部 第十三章 失敗と嘘
第三部 第十四章 無駄口の止め方
第三部 第十五章 悪口の止め方
第三部 第十六章 二枚舌の止め方
第三部 第十七章 節度の美意識
第三部 第十八章 怒らない
第三部 第十九章 間違いを正す
第三部 第二十章 喜怒哀楽の表し方
第三部 第二十一章 怪我と病気に向き合う
第三部 第二十二章 老いと死に向き合う
第三部 第二十三章 戦争と殺人
第三部 第二十四章 人口増大と環境
第三部 第二十五章 命より大切なもの
第三部 第二十六章 忍耐と頑張りを楽しくする
第三部 第二十七章 人から認められたい
第三部 第二十八章 若い人へ
第三部 第二十九章 嫉妬から身を守る
第三部 第三十章 人が活きる集団

第四部 付録

第四部 付録 あとがき
第四部 付録 参考資料
第四部 付録 訂正履歴
第四部 付録 全ページ バックアップ

第一部 第一章 幸福と善

まず最初に私がとても好きな教えを三つ並べます。

(1)一人でも多くの人が幸福になることが善
(2)分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる
(3)人それぞれに進む道は違ってよい

私の解釈

そもそも「幸福」とはどんな状態か。 辞書を引けば、「満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。」と出ています。 ここ幸せ研究室では、幸福とは、めいっぱい楽しい状態、心の底から笑っていられる状態、喜びに溢れた楽しい状態としておきましょう。

「一人でも多くの人が幸福になることが善」とは、できるだけ多くの人の役に立つことが善ですよ、ごく一部の人だけに役に立ち大多数の人が困ることは悪ですよ、という意味です。ご自分で善悪の判断をされるときに、ちょっとだけ思い出してください。

「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」についてですが、例えば、あなたが子供さんで学校で先生に褒められたとします。あなたは喜んで家に帰りお母さんに嬉しい報告をされますね。それを聞いたお母さんはとても喜んでくれます。お母さんが喜ぶ様子をみてあなたはさらに嬉しく喜ぶでしょう。だから、分かち合う喜びは二倍になります。もしあなたに悲しいことがあってもお母さんがそれを聞いてくれたら、きっとお母さんはあなたを慰めてくれますね。するとあなたの悲しみは半分になりますね。だから、分かち合う悲しみは半分になります。子供を育てるお母さんのように、他人の喜びを聞くときは一緒に喜び、他人の悲しみを聞くときは同情して慰めてあげることが、とても大切なことだと判ります。 (補足5)

「人それぞれに進む道は違ってよい」とは、あなたの進む道はどのような善の道でもよいということです。今風の言い方では一人一人が個性のある生き方をすればよいということでしょうか。全員が同じようにする必要はないということでもあります。ですから皆さんも私も今の道を進んでよいのです。

補足1 積極的に幸福に

日本仏教に伝わる教えでは、苦しみから逃れる方法が主に説かれています。これは、「苦しみを減ずれば自ずと幸福になる」という基本方針ですが、回りくどく消極的な印象があります。以後の章では、もっと積極的に幸福に成れるように、教えを解釈し直して行きます。

補足2 幸福の定義

「幸福」の定義について補足します。「裸のサル(The Naked Ape)」で有名な動物学者にして画家のデズモンド・モリス(Desmond Morris, 1928- , UK)さんの著書、『「裸のサル」の幸福論(The Nature of Happiness)』(訳 横田 和久さん)には、別の幸福の定義がありました。私なりに解りやすく言い換えたモリスさん流の幸福・満足・不満・不幸の定義は次のようになります。

辞書の幸福の説明は、モリスさん流の幸福と満足に相当します。モリスさんによれば、最もましな人生とは、「ほとんどの時間を快適で満足した平和な心で過ごし、強い喜びの絶頂感を感じる幸福の瞬間がときどきある」です。

モリスさんは、幸福という絶頂感を次のように分類しています。ただし、モリスさんは、男性なので女性の視点が欠けているかもしれません。モリスさんが推奨していることは、日常をほぼ満足して過ごし時々幸福な絶頂感を感じる人生になれるよう、多様な幸福を認めて肯定的に味わうことです。

  1. 標的の幸福(目標を達成すること、計画、実行過程も含めてよい)
  2. 競争の幸福(スポーツの勝利や売上目標達成)
  3. 協力の幸福(チームでの仲間や家族の助け合い)
  4. 遺伝の幸福(夫婦となり子供を残すこと)
  5. 官能の幸福(性的快感、美食、入浴、美容)
  6. 脳の幸福(ボードゲーム、パズル、学術研究、発明、芸術創作)
  7. リズムの幸福(音楽、ダンス、エクササイズ)
  8. 痛みの幸福(マゾヒスト、禁欲主義、ダイエット、ベジタリアン、ドケチ、テロリスト、他人への精神的優越感がベース)
  9. 危険の幸福(ギャンブラー、バンジージャンプ、スカイダイビング、自動車レース、不良遊び)
  10. こだわりの幸福(非日常へ逃避する、趣味や仕事に没頭して他を無視、斜に構える、鬱に沈む)
  11. 静寂の幸福(座禅・瞑想に耽る)
  12. 献身の幸福(神への信仰の幸福、聖地の訪問、神の子供としての安心感、天国・極楽往生信仰)
  13. 消極的幸福(肉体的苦痛から薬で逃れる幸福、精神的苦痛=不安・ストレス・退屈から精神分析で逃れる幸福)
  14. 化学的幸福(麻薬服用者、酒・たばこ・コーヒー・お茶等の刺激物の摂取)
  15. ファンタジーの幸福(空想家、小説、演劇、映画、ドラマ)
  16. 笑いの幸福(ユーモア、ジョーク、漫才、落語、批評、うわさ話という安全で小さな恐怖のスパイスを楽しむ)
  17. 偶然の幸福(偶然幸運(good luck、思いがけないプレゼント)が訪れた時に感じる幸福感)

多くの人は、会社や学校といった集団に属しています。集団では、集団の目標を達成する標的の幸福、集団の勝利や売上達成という競争の幸福、チームで助け合う協力の幸福を味わうことができます。

すべての人は親に育てられます。夫婦と親子を基本とする家庭は、夫婦が子供を産み育てるという遺伝の幸福の中心地で、肉体を楽しみ安楽にする官能の幸福の場所でもあります。

標的・競争・協力・遺伝・官能以外の幸福は、個人で追求することがよくある幸福です。

以降のお釈迦様が説かれた教えの解説では、モリスさん流の幸福と満足を得るための方法の説明ということになりますが、モリスさんは、『私を不幸にしようと思ったら、確実な方法がひとつあります。それは、「こうすればあなたの人生はもっと幸せになりますよ」と、私にお説教することです。』とも言っています。だからどんな方法を聞いても、あなたが自分で納得できる方法だけを取り入れるしか幸福になれる道はなさそうです。

これから説明していくお釈迦様の教えは、迷信を含まず、現代科学との相性も良く、綺麗に整理され、数が少く覚え易く、宗教や思想の違いを越えて誰でも無料で利用できる道徳律です。この教えに従うことで得られるものは、持続する心の満足です。また、お釈迦様の教えは、モリスさん流の絶頂感という幸福も肯定しています。教えの中では、喜び・楽しみの気持ちで何事にも取り組み、目標達成へフェアプレーで努力すること、達成の喜びを人々と分かち合うことを求めています。

補足3 最大多数の最大幸福

「一人でも多くの人が幸福になることが善」とは、実際に伝わるお釈迦様の教えでは無い可能性があります。この章でこの考え方を取り入れた理由は、私が参考にした仏教の本に何気なく書かれていたという単純な理由からです。これととてもよく似た考え方は、英国の政治哲学者で功利主義の創始者であるジェレミー・ベンサムさん(Jeremy Bemtham, ベンタムでもベンサムでも可、1748-1832、英国)が、「道徳および立法の諸原理序説」で発表された考え方「最大多数の最大幸福(功利性の原理)」です。

補足4 自由の互恵関係

「人それぞれに進む道は違ってよい」の意味するところは、「人間は人それぞれでありどのような考え方、発言、行動をしようと自由である」という考えにつながります。ただし、社会で共同生活を営み幸福に暮らすには、社会のルールを守ることが近道であることも事実です。そこで、自由とはどんな物か私なりのメモを書いてみます。

身体の自由

財産の自由

行動の自由

心(=感情+思想)と言論の自由

以上の考え方には、「自分の自由を認めさせるには相手の自由も認める」という対等な互恵関係(=平等)の発想があります。暴力・権力・財力を排して弱者である自分の自由を社会的に認めてもらうためには、社会全体で一人一人が平等に自由の権利を持つことを規則化することだとわかります。もし憲法・法律で国民の平等な自由の権利が保障されなければ、暴力・権力・財力が支配する暗黒社会となります。

国民の平等な自由の権利が保障されない時代に生み出されたお釈迦様の教えは、暴力・権力・財力の恐怖から逃れて安全・平穏に暮らす知恵です。しかも、この教えは現代でもきっと役立つと私は感じています。

補足5 「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」の実践

喜びや悲しみを分かち合う相手を誰にするかが、実は問題です。あなたを無条件に愛してくれているあなたのご両親となら、喜びも悲しみも分かち合うことができるでしょう。

相手が、自分の喜びを喜んでくれるかどうか、悲しみに同情してくれるかどうか、気にする必要が出てきます。その感情を、話す時期、話す内容、話す態度や表情までも注意が必要になります。

妻や夫に、異性にモテル喜びを話しては嫉妬が生まれます。

高齢者が配偶者や家族に老いや病気の苦しみをことさらに悲しんでみせると、彼らの生きる気力を吸い取ってしまいます。

家族から、友人、知人、赤の他人と、関係が薄くなればなるほど、喜びは共感されず、悲しみに同情してもらえなくなります。

あなたが生の感情をぶつけても、そのまま愛してくれる人は、現実では少ないのです。 少なくとも、あなたは、あなたを愛してくれる人を大切に愛さなければならないのです。 そして、あなたの感情を話すときは、聞いてる人から愛してもらえるように、時期、内容、態度、表情に注意してください。

もし「どんな他人の喜びでも聞くときは一緒に喜び、どんな他人の悲しみでも聞くときは同情して慰めてあげる」ことができるようになれば、あなたはこの世のすべての幸せを手に入れたことになりますが、相手が悪人の場合もあるので、よくよく注意しないとあなたの立場が無くなると思われます。

参考図書 「大往生したけりゃ医療とかかわるな - 著者 中村仁一 氏」を読んでこの補足を書き加えました。

第一部 第二章 信心と功徳

信心とは、仏陀の教えを信じて実行して行くことです。功徳とは、信心の結果得られるご利益です。

(1)八正道に励めば、苦しみから逃れ、善を行うことができる
(2)善を行えば、人々が喜び、あなたは幸福になる

私の解釈

堅く守り実行するべき仏陀の教えは、八正道といいます、その中身はさておき、まずは、その効き目について知りましょう。

苦しみから逃れるとは、苦しまずに済むということです。具体的には、怪我や病気の肉体的な苦痛を実際より大げさに感じる必要が無くなります。さらに、精神的苦痛をほとんど感じ無くなります。

八正道とは、善のマニュアルです。ですから、八正道に励めば善を行うことができるとは、当たり前の事です。

善を行った後にも、ご利益がさらに続きます。 善行により、あなたは、寛容になり、何事にも何人にも何かしらの長所を見出すことができるでしょう。 やがて、あなたの嫌いなものが減っていき、好意が増えていきます。好意に満ちたあなたの善行に人々が喜びます。 それを見てあなたは幸福になるでしょう。

直ぐには信じられないような驚きの効き目です、いったいその中身はどうなっているのでしょうか。

第一部 第三章 八正道

八正道とは、善行を八つに分類したものです。それぞれに簡単に私の解釈を書きました。

(1)正見人々と物事の原因と結果を正しく見る
(2)正思惟喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め
(3)正語優しい言葉で正直に話す
(4)正業人々の幸福のためになる職業に就く
(5)正命自分、家族、人々の命を大切にし親切にする
(6)正精進高い目標を定め、清い方法で前進する
(7)正念いまするべき仕事に集中する
(8)正定常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる

私の解釈

八正道の中身をもう少し掘り下げて見ましょう。

八正道の「八」は数の八、「正」は、正しい・真っ直ぐの意味で反対語が「邪」です。「道」は、人が守り行うべき道徳の意味です。つまり、八つの正しい道徳の意味です。

正見の「見」は、「眼で見る」より深い意味で、「見て考える」という意味です。正しい知識で考えなさい、合理的に考えなさい、ということです。見る対象は、は毎日の生活や仕事の物事だけではなく人々も入ります。物事よりむしろ人々をどのように見るかが大切です。簡潔に正見とは、「人々と物事を正しく見る」となります。仏教では、因果関係、つまり原因と結果の関係をよく持ち出すのでそれも尊重して、少し長いですが、正見とは、「人々と物事の原因と結果を正しく見る」とします。正見を実現するために、以下のことをしてください。

  1. 人々には善い面と悪い面が同居しているという事実を理解
  2. 人々にはそれぞれの立場があるという事実を理解
  3. 人々の善い面と悪い面は立場により変わるという事実を理解
  4. 人々の善い面を見つけると喜び楽しくなる、悪い面を見つけると苦しく悲しくなる法則を理解
  5. 人々の善い面を見つけるようにする
  6. 善い事をしたら喜び楽しくなる、悪い事をしたら苦しく悲しくなる法則を理解
  7. 善悪の判断は、一人でも多くの人が幸福になるかどうか
  8. 安心して相談できる親、先生や友人を大切にする
  9. 偏りなく幅広い意見を聞く
  10. 因果関係の判断が正しくできるよう科学の勉強をする
  11. 人間には判らないこともあるのだという謙虚さを持つ

仏教の用語で言えば、正見とは、四諦、三法印を理解することです。四諦、三法印については後の第二部で出てきます。

正思惟の「思」は「思う」、「惟」も「思う」の意味です、「思惟」も思うの意味です。理性で考えることは正見で出て来ましたから、正思惟とは、感情の思いのことです。感情を正しくしなさいということです。つまり、正思惟は、「喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め」です。毎日の生活や仕事の一つ一つを楽しみ、結果に喜びましょう。たとえ悲しいことでも何か良い意味を見出して受け入れることです。誰でも人々から言葉、行動、金品で同情・慰め・支援・施しを受けています、それに感謝してください。相手の長所を見て好きになることも良いことです。相手の悲しみを聞いたら、同情して慰めてあげてください。悲しみを聞くと感情は揺れ動き悪意に染まりやすいものです、たとえ悲しみを聞いても、同情と慰めで心を満たしましょう。

正語の「語」は、「語る」や「言葉」の意味です。つまり正語とは、「優しい言葉で正直に話す」ことです。ただの正直ではまだまだ不足です。相手にうまく伝わるように相手に合わせた思いやりのある優しい言葉が必要です。相手が理解しやすいように、ゆっくりと少しずつお話することも大切なことです。相手を上手に褒めましょう。自分の喜びを上手に言葉で表現したり、感謝のお礼を述べることも良いことです。相手への好意も素敵な言葉で伝えてあげてください。同情や慰めの言葉は善意に溢れているように特に慎重に選びましょう。悲しみを伝える時こそ、人のせいにしないで慎重に言葉を選んでください。「目は口ほどに物を言う」ということわざがあるように、目つき・表情・態度でも意志を伝えることができます、口にする言葉だけでなく目つき・表情・態度にも気を配りましょう。

正業の「業」は仕事の意味です。つまり正業とは、「人々の幸福のためになる職業に就く」ことです。人それぞれに進む道は違ってよいのですが、正業ではその道が人々の幸福のためになることが求められています。自分の性格にあった大好きで得意な分野の職業を探しましょう。会社を選ぶときは、単に利益だけを追求する会社や、社会悪となる事業を選択しないでください。人々を喜ばせたり、人々の役に立てる会社を選びましょう。仕事を通して人々の幸福に貢献できれば、あなたは心の安定と自信を得ることができます。もしあなたがリーダーであれば、今すぐ会社や組織の目標をできるだけ多くの人々の幸福に定めてみましょう。給金を得る仕事だけが仕事ではないので、もっと広く業を行動全般と捉えても差し支えありません。自分が助けてもらったお礼をするだけでなく、困っている人を見たら自分ができる範囲で支援してあげましょう。(日本の仏教の「業」とここの正業とは違います。理由はこちら。)

正命の「命」は、ここでは「いいつけ」ではなく「いのち」の意味です。つまり正命とは、「自分、家族、人々の命を大切にし親切にする」ということです。まず自分の身体を健康に保ちます。身体を清潔にして食事に気をつけ衣服や住まいを整えることも大切です。次に妻や夫と正しい愛を交わします。さらに家族を大切に養います。そして、すべての世の中の人の命を大切にして、困っている人がいれば、親切をしたり寄付(仏教では布施といいます)をします。

正精進の「精」とは、純粋でまじりけのないこと、「進」は、どんどんあるいて進むこと、「精進」は、身を清めて修行に努力することを意味します。つまり正精進は「高い目標を定め、清い方法で前進する」ということです。目標とは、個人的な目標でもあり、会社や組織の目標でもあります。高いという意味は、何万人ものリーダーになるとか、億万長者になるという意味よりも、一人でも多くの人が幸福になることをするという意味です。良い目標が思いつかないときは、まずは身近な家族が幸福になるという目標を立ててみてはいかがでしょうか。清い方法とは、ルールを守るフェアプレーのことです。

仏教の最高の目標は、仏陀になる、つまり悟った人になるということです。そして、悟りへ至る道とは、この八正道のことです。

正念の「念」は、心にしっかりとどめておく、心をふらつかせないという意味です、つまり正念とは、「いまするべき仕事に集中する」ということです。ひとつの仕事をしているときは、他の事に関心を向けません。心が雑念に向いたらすぐ戻してください。そうしないと仕事が捗らないからです。

正定の「定」は、単なる「さだめる」より深い意味で、「さだめて、おさめて、しずまる」の意味で、安定の意味です。つまり、正定は「常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる」ということです。環境の急変化にも慌てず心を落ち着かせてください。

八正道は、喜び、楽しみ、感謝しながら、あるいは同情と慰めを伴って行うことですから、どこにも苦しみがありません。また物事の原因と結果を正しく見ることで、何事にも長所があることに気が付きます。そして高い目標に向かって毎日行う努力が進歩となり楽しみとなります。善行をひとつ行えば喜び、より上手に行えばさらに幸福になります。

八正道のこの解釈は、明るく楽しく元気よく、幸福になりたいという願いに積極的に応えて導かれています。

八正道では、正見が最初で正定が最後です。この順番が大切です。正しい知識、原因が何で結果が何という法則や、八正道の知識を知らないと、次の正思惟から崩れていき、次々と崩れて、正定はありえないことを意味します。正定から始まり七正道だけで正見になることは、無いのです。正しい知識は、親や先生の誰かから教わらないといけません。つまり、八正道のこの順番自体も、原因と結果の順番を意味しています。

八正道をご家庭や学校で違和感なく使えるように書き直してみました。

幸せになれる八つの約束

(1)心と物の正しい法則を学ぼう
(2)嬉しい、ありがとうと同情の気持ちを持とう
(3)優しく正直に話そう
(4)みんなに親切にしよう
(5)自分とみんなの命を大切にしよう
(6)互いに励まし合ってフェアプレーをしよう
(7)目の前の仕事に集中しよう
(8)いつも穏やかに落ち着いていよう

第一部 第四章 無財七施

人に親切にし寄付をすることを、仏教の用語では布施といいます。無財とは財つまりお金がかからないという意味です。無財七施には、お金のかからない寄付が七種類あるという意味が込められています。無財七施は宗教を超えて必要なことと存じます。

(1)身施困っている人を見たら助けてあげる
(2)心施人々へ喜びと楽しみを与え、人々の苦しみを取り去る
(3)眼施いつも優しい目つきをする
(4)和顔施おだやかな笑顔を絶やさない
(5)言施暖かい思いやりの言葉をかける
(6)牀座施弱い人、尊敬するべき人に席を譲る
(7)房舎施宿の無い人を我が家に泊めてあげる

私の解釈

身施とは、身体を布施するということから、「困っている人を見たら助けてあげる」という意味です。具体例には、小さな親切とか、無償のボランティア活動があります。

心施とは、よい心、願いを布施するということから、「人々へ喜びと楽しみを与え、人々の苦しみを取り去る」という意味です。たとえ物やお金がなくとも、あなたの楽しく嬉しそうな振る舞いで、人々へ喜びと楽しみを与えることができます。人々の苦しみを取り去るには、苦しんでいる人のお話をよく聞いて、同情し慰めてあげることです。これにはお金も品物も不要ですね。

人々へ喜びと楽しみを与えることを与楽、人々の苦しみを取り去ることを抜苦と書きます。仏教は慈悲の宗教とも言われますが、慈悲の慈は与楽の意味で、慈悲の悲は抜苦の意味です。

眼施とは、「いつも優しい目つきをする」という意味です。和顔施とは、「おだやかな笑顔を絶やさない」という意味です。眼施と和顔施をすることであなたの第一印象は爽やかで素敵になります。ぜひ鏡でご自分の目つき顔つきを観察して練習されることをお勧めします。

言施とは、「暖かい思いやりの言葉をかける」という意味です。元気で明るい声で挨拶を欠かさずする、聞き取りやすくリズムの良い話し方をする、褒め上手になる、お礼上手になる、慰め上手になることも言施と考えられます。

牀座とは、横になるための床のことです。牀座施とは、「弱い人、尊敬するべき人に席を譲る」という意味です。これは、電車やバスで体の弱い人に席をゆずったり、宴会で偉い人に上座に座ってもらうことがあります。でもそれだけではありません。権力を持った人が若者や部下に権限を委譲することや、親が子供に無用な口出しをしないことも含まれています。また会社や組織で考えると、資源、市場、情報などの独占をしてはいけなくて、譲り合いも必要だということです。

房舎とは、部屋、家屋の意味です。房舎施とは、「宿の無い人を我が家に泊めてあげる」という意味になります。仮にあなたのお友達が旅行で我が家を訪ねたら求めに応じて泊めてあげることが房舎施です。現代はホテルがあちこちにあるので房舎施の機会は少ないですが、暖かい家庭のおもてなしは、また格別なものです。

無財七施はお金のかからない善行ですから、誰でもすぐにできます。ですから、今すぐから始めましょう。そして、毎日続けてください。そうすればどんどん仏陀に近づくことができます。

無財七施をご家庭や学校で違和感なく使えるように書き直してみました。

喜ばれる七つの親切

(1)困っている人を助けよう
(2)共に喜び、悲しみに共感しよう
(3)優しい目つき
(4)おだやかな笑顔
(5)思いやりの言葉
(6)弱い者に席を譲ろう
(7)泊めてあげるぐらい仲良くなろう

第一部 第五章 四無量心

悟りを開いた仏陀の心を表す言葉が四無量心です。無量とは無限大という意味です。とても量が多いと考えればよいでしょう。四無量心とは、四つの大きな大きな良心ということです。

(1)慈無量心人々に楽しみと喜びを与える
(2)悲無量心人々の苦しみに同情し、それを取り去る
(3)喜無量心人々の喜びをともに喜ぶ
(4)捨無量心人々に惜しみなく施す

私の解釈

仏陀の本名は、サンスクリット語でゴータマ・シッダールタという発音で、そこから釈迦と当て字されています。仏陀とは、悟った人という意味です。ですから悟った人はみな仏陀です。そして、四無量心こそが悟った心の状態です。

慈無量心とは、人々に楽しみと喜びを与えるという意味です。楽しむこと、喜ぶこと、笑うことは、善です。仏陀から楽しみと喜びを施されたあなたはまず最初にきっと微笑むことでしょう。

悲無量心とは、人々の苦しみに同情し、それを取り去るという意味です。仏陀に苦しみを消してもらったあなたもきっと微笑むことでしょう。

喜無量心とは、仏陀自身が人々の喜びをとともに喜ぶという意味です。つまり仏陀はあなたの喜びに合わせて一緒に喜ぶのです。仏陀は決して無表情でもなく無愛想でもありません、喜びに溢れています。

捨無量心の捨は、喜捨の捨です。喜捨とは、喜びなから捨てるという意味で、布施、寄付のことです。捨無量心とは、仏陀は持てる物、金、地位、名誉、権力、知識、経験、教え、真心、体、命さえも、人々に惜しみなく施してくれるいう意味です。仏陀には、執着心がありませんから、あらゆるものを惜しみなく施すことができます。

四無量心が示している大切なことは、悟りは、世間との関りを避けて座禅を組みじっと座っているだけでは得られないということです。悟りとは、単なる知識や経験ではなく、八正道に励み一人でも多くの人が幸福になることをしている今のその心の状態のことです。

八正道に励むことで私たちも四無量心つまり悟りに到達することができます。八正道のやり方で善行を成すときは、その時がたとえ一瞬で終わっても、それはそれで悟りの状態です。善行をどんどんやり続けることで、悟りの状態も連続して行きます。ずっと悟りの状態が続けば、あなたはそのまま仏陀になります。

(四無量心のこの解釈は、仏陀の悟りとは幸福である状態そのもであるという発見から生まれたものです。)

第一部 第六章 十悪

十悪とは、してはいけないこと十項目です。簡単な説明と、行為、言語、心の区別も入れてあります。

(1)殺生殺人、むやみに生き物を殺すこと悪行
(2)偸盗泥棒、盗み、ズル悪行
(3)邪淫妻や夫そして家族を苦しめる性行為悪行
(4)嘘をつくこと、悪事の隠蔽悪語
(5)二枚舌二人それぞれに反対のことをいうこと悪語
(6)悪口汚い言葉、人の悪口、陰口悪語
(7)無駄口必要の無い余計な話、心にもないお世辞悪語
(8)貪る飽きることなく欲しがる強欲や嫉妬悪心
(9)怒る怒り、怖れ、怨み、憎しみ、苛め悪心
(10)邪見真実を認めず愚かな間違い・迷信を信じること悪心

私の解釈

八正道は、するべきことでしましたが、十悪ではその反対にしてはいけないこと、禁止事項となります。

「殺生」とは、「殺人、むやみに生き物を殺すこと」です。死んだ人を生き返らせることはできません。人が人を殺すことは償うことのできない罪であり、堅く禁止されています。私たち人間は、動物や植物を食べなければ生きていけません。ですから、食事の前に犠牲になった動物や植物に感謝を捧げることが大切です。その他の場面でも動物や植物を殺すことがあります。このとき「一人でも多くの人が幸福になる」かどうかで判断し、無益な殺生は止めなければなりません。

「偸盗」は、「泥棒、盗み、ズル」のことです。人のものを盗んでははいけないということです。ズルいことをしてはいけないということです。泥棒の罪を犯すと、逃げたり隠れたり嘘をついたりしなければならなくなり、苦しみが増すだけです。盗む代わりにあなたの持てるものを他人に施してください。物や金品が無いときは、無財七施をしてください。施しをすることで、あなたにも幸運が巡って来ます。

「邪淫」とは、「妻や夫そして家族を苦しめる性行為」です。邪淫の罪を犯すとあなただけでなく妻や夫そして子供と家族が一生苦しみから逃れられなくなります。ぜひともこの罪を避けてください。

「嘘」は、「嘘をつくこと」そのものです。事実と異なる嘘をついてはいけません。悪事の隠蔽も嘘の一種ですからいけません。嘘をつくとその重みに耐えていかなければならず、苦しみが待ち受けています。一つの嘘が次の嘘を招き、さらに苦しみが増します。相手に嘘がばれたとき相手を傷つけ相手の信用を失います。優しい言葉で正直に話をしてください。(一般には、「嘘」のところに同じ意味の「妄語」を入れる場合がありますが意味を取りやすいようこうしています。)

「二枚舌」とは、「二人それぞれに反対のことをいうこと」です。人を仲たがいさせる言い方も二枚舌です。二枚舌を使いその場を取り繕ったつもりでも、その後、あなた自身は嘘と同じように苦しむことになります。そしていずれは、話をした友人二人の信頼を失い、友人二人ともを苦しめることになります。(一般には、「二枚舌」のところに同じ意味の「両舌」を入れますが、意味を取りやすいようこうしています。)

「悪口」は、「汚い言葉、人の悪口、陰口」のことです。汚い言葉、、人の悪口、陰口を使うと聞かされる相手は気分を害してしまい、あなたの評判は落ちてしまいます。あなた自身が苦しむだけでなく、また悪口を言われた人もまた傷つき苦しみます。

「無駄口」は、「必要の無い余計な話」のことです。相手との会話において、ちょうど今話す必要がないことや、心にもないお世辞、無駄に飾り立てた言葉を話さないということです。もしあなたが無駄口を叩くと聞かされる相手は気分を害してしまい、あなたの評判は落ちてしまいます。(一般には、「無駄口」のところに「綺語」を入れますが、意味を取りやすいようこうしています。)

「貪る」は、際限なく飽きることなく満足せずに金品・権力・地位・名誉・快楽を欲しがる貪欲、強欲、執着心のことです。他人の物・成功・若さへの嫉妬は、貪りに怒りを降りかけたものです。八正道の正定の落ち着いた穏やかな心持ちとは反対の、何かに急き立てられた状態です。強欲からなかなか抜け出せない理由は、強欲が八正道の正念ととても似ており、苦しみを快楽と誤解して、本人が気付かないからです。強欲者は多数の人々に大きな苦痛を与えてしまうため、軽蔑されたり、時には嫉妬を招きます。貪りを捨てるには、八正道の正見の力で、自分の取り分、会社や組織の取り分として本当に必要な量を見出し、自分の姿と比較することです。すると八正道の正定、心を落ち着かせて穏やかな心持ちが蘇ります。譲り合いにより、一人でも多くの人が幸福になることを考えるということです。(一般には、「貪る」のところに「貪欲」を入れますが、意味を取りやすいようこうしています。)

「貪る」の一種に我慢のし過ぎ、頑張り過ぎがあります。「仏の顔も三度まで」という諺があるように我慢にも限度があります。我慢のし過ぎは、「貪る」になってしまうので、心が苦しくなり、嘘や悪口に結びついてしまいます。我慢の気持ちではなく、楽しく待つという気持ちに切り替えられるよう、見方を変えて、良い点を探すことです。頑張り過ぎて体を壊したり、心を病んでしまっては、せっかくの努力も意味がなくなります。こうなっては、頑張り過ぎも「強欲」となるのです。自分の気持ちだけでなく生きている生身の自分の肉体にも相談をして頑張り過ぎかどうか判断してみましょう。

「怒る」とは、「怒り、怖れ、怨み、憎しみ、苛め」です。怖れ、怨み、憎しみ、苛めいずれも怒りの変化したものです。正思惟の喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めの反対の感情です。怒りはあなたのものや安全を奪われそうなときに感じやすくなります。空腹が怒りを呼び寄せることもあります。怒りに溺れると苦しいのですが抜け出せなくなります。怒りが怒りを招きます。たとえば、怒りの矛先を収めると、相手に怒っていると分かられてしまう、と怖れをいだき怒り続けるのです。怒る者は、敵を招き互いに傷つけ合い苦しみの連鎖が続きます。怒りを止めるには、八正道の正見の力で、対象について再考し、一人でも多くの人が幸福になる方法を丁寧に見出してください。怒りそうになったら、言葉にも表情にも出さず冷静に考え直すことです。正命の視点から人に親切にし、よい寄付ができるよう考えると良いでしょう。すると正思惟の喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めが蘇ります。食欲などの生理的欲求は定期的にやってきますから準備と蓄えが大切になります。(一般には、「怒る」のところに同じ意味の「瞋恚」を入れますが、意味を取りやすいようこうしています。)

「邪見」とは、「真実を認めず愚かな間違い・迷信を信じること」です。物事の原因と結果を正しく見出せないということです。八正道の正見が不足している状態です。あなたが邪見に犯されると、まず周囲の人が苦しみます。あなたが邪見を見破る最後のときに、邪見はあなたに恥ずかしさつまり恐れの一種を感じさせて苦しめようとします。間違いを間違いと認める正直さが邪見に勝つ秘訣です。間違いを間違いと認めることは善い事であり、人々から好まれ尊敬されることです。邪見を素早く見破る方法は、一人でも多くの人が幸福になることを判断基準として、偏りなく幅広い意見を聞き謙虚に学ぶことです。人間は、自分は何でも知っていると傲慢になってしまうとすぐ間違えてしまいます。自分には解らないことがまだまだたくさんあると謙虚に成ることです。「貪る」と「怒る」を退治する方法から解るように、邪見を捨て正見を強化することが最初に必要です。(「邪見」のところに同じ意味の「愚痴」を使うこともあります。)

十悪の順番には意味があります。悪行では、殺生の罪が一番重いです。悪語は、嘘の罪が一番重いです。悪心は、貪るの罪が一番重いです。貪るや怒るが起きてしまうと理解していたはずの正見を無視してしまうからです。もちろん、たとえ軽い罪でも犯してはいけません。

悪心の貪る・怒る・邪見が悪語、悪行を生み出して体の外に出します。悪心こそが十悪の根源です。

もし十悪の罪、特に他人への直接の被害が及ぶ、悪行と悪語、殺生から無駄口までを犯したときは、どうすればよいでしょうか。直ちにしなければいけないことは、悪を犯したことを正直に認め、優しい言葉で、事実と心持を正直に、迷惑をかけた人々に謝罪し説明しましょう。その後は、償いをします。償いは、八正道の方法で行います。こんな風になります。悪事の原因と結果を正しく見て、次から失敗しないよう反省します。人々の幸福のためになるように償いの方法を考え、償いができることに感謝して、心を落ち着かせて穏やかな心持ちで、償いに気持ちを集中して、人に親切にし、できれば寄付もして、優しい言葉で正直に根気よく償うのです。

他人から十悪の害、特に、殺生、偸盗、邪淫の悪行を被らないようよくよく気をつけて、危険な所、危険な相手には近づかないでください。嘘や二枚舌の害に合わないよう、友達を選びたいものです。嘘や二枚舌を使われるかどうかは相手の立場や状況で変わります。立場や状況をよくよく考えておきましょう。

もし他人から十悪の害を被ったらどうすれば良いでしょうか。最初に相手につられてこちらも罪を犯さないよう心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいてください。当然ですが、刑法など法律に違反している悪事は、警察に連絡することが必要です。悪事の内容・程度でこちらの対応も以下の例を参考に変化させてください。

頻繁に受ける十悪の害は、第三者に対する悪口を聞かされることです。誰でも仕事などが上手くいかず悲しみに暮れている時は第三者に対する悪口が出て来やすいものです。大切な人が悲しい時に同情心からお話を聞いてあげていると、第三者の悪口を聞かされることがあります。しかし、悪口に賛同したり、慰める側が第三者に対して怒り出すことがあってはいけません。悲しみをじっくりと聞いてあげて同情を示すことが大切で、本心からの優しい慰めの言葉が必要です。悲しみの原因への対策や改善策などは、相手から強く求められない限り、軽々しく言い出してはいけません。悪口を聞かされても相手に同調しないで聞き流すぐらいにしないといけません。

同様に頻繁に受ける十悪の害は、無駄口を聞かされることです。特に自分に興味のない話をされると無駄口に聞こえます、このような時も怒り出してはいけません、相手からすればあなたを頼って相談に来ているのかも知れません。話の内容によって、聞き流すとか、他の用事があると言って立ち去るか、相談にのるか決めましょう。

十悪の被害の後、罪を犯した相手の事情をよく考えて、罪を犯さずに済むよい方法をこちらから提案できたかどうかを調べておいてください。相手との再会は感謝しましょう、相手は悪事のことを気にしていますから、失敗をいたずらに追及してはいけません。謝罪が始まるまでじっと待ちましょう、もし謝罪がなければ、相手の悪事にいつまでも拘ることは好ましくありませんから、追求せず二人の関係を疎遠にしましょう。謝罪が終わってまだ疑問があれば、どうすればお互いに悪事を回避できたのか優しい言葉で正直に質問してみましょう。最後は互いに和解することで八正道に適うと思います。

十悪をご家庭や学校で違和感なく使えるように書き直してみました。

不幸を避ける十の知恵

(1)人を殺さない、食べ物を無駄にしない
(2)人の物を盗まない、ズルをしない
(3)不倫しない、二股かけない
(4)嘘をつかない、悪事を隠さない
(5)二枚舌を使わない
(6)悪口を言わない、陰口しない
(7)喋り過ぎない
(8)欲張り過ぎない、我慢し過ぎない
(9)怒らない、憎まない、妬まない、怖がらない
(10)間違いと迷信を信じない、傲慢にならない

仏陀の教えの真髄

幸福、善、人の道

(1)一人でも多くの人が幸福になることが善
(2)分かち合う喜びは二倍になり、
分かち合う悲しみは半分になる
(3)人それぞれに進む道は違ってよい

信心と功徳

(1)八正道に励めば、
苦しみから逃れ、善を行うことができる
(2)善を行えば、人々が喜び、
あなたは幸福になる

善なる悟りを得た至福の状態 四無量心

(1)慈無量心人々に喜び楽しみを与える (2)悲無量心人々の苦しみに同情し取り去る
(3)喜無量心人々の喜びをともに喜ぶ (4)捨無量心人々に惜しみなく施す

悟りへの善道 八正道

(1)正見人々と物事を正しく見る
(2)正思惟喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め
(3)正語優しい言葉で正直に話す
(4)正業人々の幸福のためになる職業
(5)正命自分家族人々を大切に親切に
(6)正精進高い目標へ清い方法で前進
(7)正念いまするべき仕事に集中
(8)正定常に落ち着いた穏やかな心持ち

誰にでもできる親切 無財七施

(1)身施困っている人を見たら助ける
(2)心施喜び楽しみを与え苦を取り去る
(3)眼施いつも優しい目つきをする
(4)和顔施おだやかな笑顔を絶やず
(5)言施暖かい思いやりの言葉
(6)牀座施弱い人尊敬する人に席を譲る
(7)房舎施宿の無い人を家に泊める

犯してはいけない罪 十悪

(1)殺生殺人、むやみに生き物を殺す
(2)偸盗泥棒、盗み、ズル
(3)邪淫妻、夫や家族を苦しめる性行為
(4)嘘・偽り、悪事の隠蔽
(5)二枚舌二人に反対のことを言う
(6)悪口汚い言葉、人の悪口、陰口
(7)無駄口余計な話、心にもないお世辞
(8)貪る貪欲、強欲、執着、嫉妬
(9)怒る怒り、怖れ、怨み、憎しみ、苛め
(10)邪見愚かな間違い・迷信を信じる

逃れたくても逃れられない 四苦八苦

(1)喜びと苦しみの始まり
(2)老いる苦しみ
(3)病気や怪我の苦しみ
(4)死ぬ苦しみ
(5)愛別離苦愛するものとの別離の苦しみ
(6)怨憎会苦怨み・憎しみ・敵意の苦しみ
(7)求不得苦求める物を得られない苦しみ
(8)五蘊盛苦空腹や渇きを感じる苦しみ

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The essence of the teachings of the Buddha

Happiness, Goodness, Life

(1)Better Goodness make more people happy.
(2)Sharing joy becomes doubled,
Sharing grief becomes half.
(3)Each person's life may be different.

Religious Merit

(1)Noble Eightfold Paths help you
do Good deed without suffering
(2)Doing Good deed makes people joy,
then you are happy

four Buddhist virtues, Brahmavihara

(1)Kindnessgive people Joy and Fun (2)Compassionerase Suffering of people by sympathy
(3)EmpatheticRejoice together the joy of people (4)Equanimitycontribute to people calmly

Noble Eight rght Paths

How to enlighten.
(1)viewLooking at everything as they really are.
(2)emotionJoy, fun, thanks, sympathy, comfort
(3)speechTalk honestly with kind words
(4)actionProfession for the welfare of the people
(5)lifeHealth-full, Love-full to people, family, wife, husband and oneself
(6)effortFair play forward to higher targets
(7)mindfulnessOccupy one's mind with the work to do now
(8)relaxationAlways calm serene mood

Contribute without money

Anyone can do it.
(1)BodyHelp troubled people
(2)Heartgive Joy and Fun, erase Suffering of people
(3)EyeAlways friendly eyes
(4)FaceAlways gentle smile
(5)TalkWarm words of sympathy
(6)Yieldgive way to vulnerables and esteemed
(7)Welcometreat and hospitality to person

Ten bad sins

We should avoid them.
(1)KillingKill human, Recklessly kill creatures
(2)ThiefThief, unfairness
(3)Bad sexAffair, suffering wife, husband and family
(4)LieLie, Fool, Concealment of bad
(5)Duplicitybe double‐tongued
(6)AbuseFoul language, abusive person, backbiting
(7)TwaddleExcessive talk, cheap flattery
(8)Greedgreed, obsession, jealousy
(9)AngerAnger, fear, bitterness, hatred, bullying
(10)Wrong viewstupid mistake, superstition

four and eight sufferings

We want to escape them, but can't.
(1)BirthBeginning of pleasure and pain
(2)OldAgeing
(3)DiseaseIllness or injury
(4)DeathDeath
(5)SeparationSeparation of lovers
(6)GrudgeResentment, Anger, bitterness, hatred, jealousy
(7)Can't getcan't obtain requested things
(8)survival instinctsHunger and thirst, others

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KOSHIRYOKU Labo

第二部 第一章 三学

三学は八正道の入門編です。お寺で修行を開始するときにまず習うことです。

(1)戒律、罪(殺生、邪淫、偸盗、妄語、飲酒)を犯さない
(2)常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる
(3)智慧つまり真理である四諦、三法印を理解する

私の解釈

戒とは、戒律のことで、十悪の殺生、邪淫、偸盗、妄語ともうひとつ、飲酒の罪を犯さないことを求められています。

妄語は、嘘のことです。が、二枚舌、悪口、無駄口も含めた方が好ましいと思います。

お寺で修行をする最中は飲酒の戒、つまり禁酒をお守りください。今の日本国では、禁酒を守ることが難しい人は多いと思います。私は、日常生活では酒を飲みませんが、宴があれば酒を少々口にします。せめて節度ある飲酒で、心の安定を損なわないようにしてください。

定とは、八正道の正定のことで、常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいることです。

慧とは、智慧のことで仏教用語です。これは、真理のことを意味しており、四諦、三法印に代表される仏陀の教えを理解すること、八正道の正見のことです。

第二部 第二章 六波羅蜜多

三学をさらに発展させると倍の六波羅蜜多になります。

(1)持戒波羅蜜三学の戒
(2)禅定波羅蜜三学の定
(3)智慧波羅蜜三学の慧
(4)布施波羅蜜布施をする
(5)忍辱波羅蜜侮辱にも心静かに耐えること
(6)精進波羅蜜仏陀に近づくよう根気よく努力すること

私の解釈

波羅蜜多は聞き慣れない言葉ですが意味は修行して悟りに到達することだそうです。

六波羅蜜多なので、学ぶだけの三学から、実践の項目が三つ追加されています。 注意して欲しいことは、八正道の八より二つ数が少ないことです。 みなさんも、六波羅蜜多と八正道の比較をしてみてください。

なぜ八正道より六波羅蜜多が少ないかということについて、私見を書きます。 理由は、六波羅蜜多はお寺で修行しているときに行うものだからです。 お寺で修行中は、実社会から切り離されているので、 八正道から実生活で必要な項目・正業が切り離されて、 十悪の悪行や悪口を戒として取り込み、修行向けに再構成されているのです。 お寺で修行中とは、師から学ぶときですからね、 修行中は六波羅蜜多を守り、八正道を知識として学び、 心と言葉と行為の訓練をして合格し卒業して、 実社会で八正道に従い生きて行きなさい、ということですね。

布施波羅蜜は、布施をすることで、八正道の正命にあたります。布施については、別の章で説明します。 六波羅蜜多の布施は修行中の布施なので、布施の練習という意味が強まるでしょうね。

忍辱波羅蜜は、「侮辱にも心静かに耐えること」です。他人からの悪口、たとえば、非難、中傷、侮辱や罵詈雑言にも心を静かにし、さらりと耐えることです。 逆は、怒る、喧嘩をする、取り乱す、泣き喚く、愚痴をこぼす、言い訳をする、逃げる、正しい信念を捨てるなどです。 忍辱波羅蜜は、八正道の正思惟と正念にあたり、正見で知った教えを守り正定と正精進重ねることで耐えることができます。 自分に対する意見や悪口を、苦しいこと、つらいこと、嫌なことと捉えないで、 アタリマエの反応であると捉えることが、心静かにさらりと耐えるコツです。 これまでの自分の言動の結果として、意見や悪口がやって来るのです。 たとえ、多くの人に良いことをしても、一部の人にとっては良くないことが多少残るものです。 意見や悪口は、当然与えられる反応であると予測し、普段から対策を考え練習しておく必要があります。 少なくとも、意見や悪口を静かに聞いて受け止めるようにしなければなりません。

師から学ぶときに、今までの自分の考えと違うので、師から非難されたと誤解することが無いようにしたいものです。 智慧波羅蜜、つまり正見に至るには自分の過去の過ちを認め乗り越えなければならないので、忍辱波羅蜜が必要です。

精進波羅蜜は、八正道の正精進、「高い目標を定め、根気よく努力する」と同じですが、お寺で修行している状況を想定して、「仏陀に近づくよう根気よく努力すること」としました。

第二部 第三章 布施

布施とは、親切や寄付のことで、八正道の正命にあたり、全部で三種類あります。

(1)無財施お金のかからない施し
(2)財施金品の施し
(3)法施仏法を説き広める施し

誠の布施とは、布施をした自分、布施したもの、布施した相手を忘れること。つまり、執着から離れること。 また最高の布施として、大善のために命を捧げることがあり、捨身行といいます。

私の解釈

無財施は、お金のかからない施しです。これはについては、無財七施として第一部で説明しました。

財施は、金品の施しです。お寺へのお布施だけが財施ではありません。助け合いの募金、バザーそして税金までを財施として考えてよいでしょう。

そうなると税金の行方が気になってきます。私の意見が反映された使い方がされるといいなと思いますが欲なのかも知れません。今は、民主主義の世の中、多数決で物事が決まります。つまり税金はできるだけ多くの人の役に立つよう多数決で使い道が決まります。民主主義の原理である多数決は、「一人でも多くの人が幸福になることが善」の教えに適うのですね。一部の人の特権のためでなく正しく公平に民主主義が実施されるよう願うばかりです。

法施は、仏法、仏陀の教え、八正道などを説き広める施しです。

誠の布施とは、一切の見返りを求めないギブ・アンド・キブの精神です。私はまだまだその境地に到達できそうもありませんが、いろいろ失敗して損をしたときは布施をした気分になろうかなと思います。

第二部 第四章 四諦

四つの智慧つまり四つの真理です。

(1)苦諦人は苦しみを感じることがある
(2)集諦苦しみの原因は煩悩=悪心である
(3)滅諦煩悩から離れれば、苦しみが消滅する
(4)道諦煩悩から離れる方法は八正道を行うこと

私の解釈

お釈迦様が出家した動機として四門出遊の故事が伝えられています。この故事では、お釈迦様が、世の中の人、家族そして自分が苦しみに悩まされていることについて解決したいと願われた、と語られています。お釈迦様にとって、苦しみの起きる原因と苦しみを消滅する方法を見出すことが、出家の第一の目標でした。この目的は、四諦の発見で達成されたわけです。この史実を仏教では、お釈迦様が成道して仏陀となったと伝えています。

煩悩とは、十悪に出てきた三つの悪心、貪る、怒る、邪見のことです。

つまり四諦とは、人間の苦しみの原因の特定と、それを取り除く解決策の提示です。

八正道を行い、苦しみを取り除いた後には、喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めに溢れ、常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいることができます。これこそが人生を心の底から楽しむ方法です。

四諦は、わずか四項目しかないため、その理屈の流れはすんなりと納得できますが、他の宗教との違いが際立つ視点でもあります。違いについてあれこれ言う人がいても、仏陀の教えに従い、四諦について正邪の言い争いをしてはいけません。

仏陀の物語では、仏陀が得た悟りについて世の中の人に語り伝えるべきかどうかを考えた、とあります。四諦は当時の考え方と異なるため、仏陀は、人々が四諦を実行することがが難しい、と感じたのでしょうか。仏陀の物語には、梵天という古代インドのバラモン教(今のヒンドゥー教につながる)の神から人々に悟りを説くよう強く何度も頼まれたという梵天勧請の伝説があります。私の解釈は、仏陀自身が悟りを継続する方法は、悟りを説くしか道が無いというものです。四無量心で説明しましたように、悟りの状態を続けるためには、八正道を実施し続けることが必要です。仏陀が、一人でも多くの人の幸福のためになる職業を選ぶなら、悟りを説く教祖の道しかありません。八正道を実施することが、悟りの状態、四無量心を継続する唯一の道だったのです。

四諦や八正道をただの知識として知るだけでは、悟りは一瞬で終わるということです。悟りの状態を続けるには、仏陀がされたように、八正道を実践し続ける必要があります。

第二部 第五章 四苦八苦

四苦八苦とは、苦の分類です、まず、四苦があり、さらに、四つ加えて八苦となります。

(1)生まれることから人間の苦しみが始まる
(2)老いて体が利かなくなる苦しみ
(3)病気や怪我をする苦しみ
(4)必ず死ぬことの苦しみ
(5)愛別離苦愛するものとの別離の苦しみ
(6)怨憎会苦怨み・憎しみ・敵意を受けたり感じる苦しみ
(7)求不得苦求める物を得られない苦しみ
(8)五蘊盛苦生身の体であり飢えや渇きを感じる苦しみ

私の解釈

生、老、病、死までが、四苦です。これは他人からも見える外見の苦しみです。

生では、生まれることが苦しみの始まりであるとしています。しかしながら、生まれることは苦しみだけではありません。生まれることが八正道の始まりでもあります。つまり、喜びに満ちた人生の第一歩でもあります。この二面性の事実を正しく理解してください。

老、死は、たとえ八正道に励んでも避けることができない事実です。悪心に染まらず、静かに受け入れるものです。

病は、健康を保つことで避けたり軽減できます。中には避けられない病もあります。悪心に染まらず、静かに受け入れるものです。

さらに追加された四つの苦は心の中にあり他人から直接見えない苦しみです。

愛別離苦は、普通は愛する人の死を意味しますが、本人達の仕事の都合で別れて暮らすことも有ります、邪淫などの十悪を犯した人ならば、子供と生き別れとなることも含まれます。

怨憎会苦は、普通は相手から受ける苦しみを意味しますが、怒りの十悪を犯した人は、自ら苦しみます。

求不得苦は、物、金、地位や名誉などを求めても得られない苦しみです。ほとんどの場合は、当人が十悪の貪るに取り憑かれ、身の丈以上を求めていることから苦しみます。しかし、昔は戦争や飢饉で食べ物や水さえも無い時がありました。

五蘊盛苦の五蘊とは生身の体のことです。盛は健康であるという意味です。生身の体が健康であっても、食欲や喉の渇き、さらには性欲など生理現象としての苦しみを感じます。これもたとえ八正道に励んでも避けることができない事実です。悪心に染まらず、静かに受け入れて対処するものです。五蘊の詳細は、後の章で詳しく説明します。

[補足]
パーリ語やサンスクリット語の仏教経典の原典で用いられているドゥッカ(dukkha)、ドゥフカ(duḥkha)から、中国語の「苦」へ翻訳されたという歴史がある。ドゥッカ(ドゥフカ)は、思い通りにならない、空しい、不満、不安定、苦しい、という意味。この世のほとんどの出来事は人間個人の思い通りにはならないから、人間個人は苦るしさを感じるということである。

第二部 第六章 煩悩の三惑

煩悩の三惑とは、十悪の三つの悪心のことです。

(1)貪欲貪る反正定飽きることなく欲しがる強欲や嫉妬
(2)瞋恚怒る反正思惟怒り、怖れ、怨み、憎しみ、苛め
(3)愚痴邪見反正見真実を認めず愚かな間違い・迷信を信じること

真の悪魔とは、人間の心の悪の面、つまり煩悩の三惑、すなわち、貪欲、瞋恚、愚痴のことである。

自らが愚かであることを知っていることほど賢いことは無い。

私の解釈

貪欲・瞋恚・愚痴は、貪る・怒る・邪見の仏教用語です。瞋恚は、しんい、または、しんにと読みます。とくに愚痴は、通常の意味の愚痴と異なり、愚かで無知であるの意味です。

貪欲・瞋恚・愚痴は、十悪の三つの悪心、貪る・怒る・邪見に同じです。そして、八正道の正定・正思惟・正見の反対です。

貪欲・瞋恚・愚痴の三つの悪魔が、互いに絡みつつ、誤魔化し、策謀、暗い気持ちなどの悪魔に変化して、あなたの正定、正思惟、正見に挑んで来ます。邪魔が入れば正念も乱されます。貪欲・瞋恚・愚痴の三つの悪魔こそ、あなたを苦しめる根源です。この三つを無くせば、その外の十悪、悪行為と妄語、殺生から二枚舌は、最早生じることがありません。

八正道に励むことで悪魔を退散させてください。三つの悪魔のそれぞれの性質と退治の方針は、十悪のところで説明しておきました。ぜひ今一度戻って読み直ししてください。

「自らが愚かであることを知っていることほど賢いことは無い。」とは、物事の原因と結果を正しく見るために必要な謙虚さのことです。謙虚さを失うと愚痴・邪見に入り込み、自分は何でも知っている、自分は誰よりも頭がいい、自分の意見こそ正しい、他の人の意見は聞く必要が無い、科学で解らないことはない、非科学的だから間違いだ、善悪ではない理論が正しいかどうかだ、などと一人よがりに考えます。

自分が何か悩んでいたり気分が優れないときは煩悩に取り付かれているはず。逆に悩んでいたり気分が優れないとき、あっ煩悩だと気が付くぐらいだと修行の成果も出てきたと思えます。

年末の風物詩として十二月三十一日の大晦日にお寺の鐘が百八回鳴らされるのは、煩悩が百八個あるからといわれています。ここでは簡単のため、煩悩を大きく三つに分類しています。百八個も教えられても気分が悪いだけですからね。

第二部 第七章 五蘊

五蘊 とは、肉体と精神の構造を分類したものです。現代の言葉で簡潔な解釈をつけてあります。

(1)肉体
(2)感覚器官
(3)記憶
(4)行動への意志・感情
(5)認識

私の解釈

五蘊、次の六根、六境、六識は、仏陀の時代の科学知識を考えるとこれで十分だと思います。そして現代の私たち自身にとってもこの分類で十分修行、つまり、八正道の実行に励むことができます。「蘊」という漢字は、積む、蓄える、集まる、奥底の意味ですが、ここでは五個の物が集まって人間ができているという意味です。

「色」という漢字は、冠の部分が人を変形したもので下の部分は音を示す巴です、文字の本来の意味は、人ですが、意味が展開して人の性欲を意味します、さらに性欲の対象として女性、いろどりと意味が広がります。ですが、仏教の原語のサンスクリット語のルーパ(rupa、目に見えるものつまり五蘊においては肉体の意味)を漢訳するときに「色」を当てました。つまり仏教の意味では「色」は、眼に見える肉体そのものつまり、物質の体です。

「受」という漢字は、うけとるの意味です、そこで「受」は、感覚を外界から直接け入れる眼耳鼻舌膚の五器官と感覚を心(脳)へ伝える神経です。「六根」ともいいます。もちろん自分の体である「色」の動きも感覚として取り入れられます。「受」の感覚は「想」に記録されます。

「想」という漢字は、心に形や姿を思い浮かべる意味で、「想起」とは思い出すこと、「回想」とは思い出のことです。だから現代的に言えば、「想」は、記憶であり、「受」、「行」、「識」の働きを記録するところです。受け入れた感覚、感覚の認識、認識から判断して行動命令を出すことがすべて記録されます。つまり色々な情報が知識となり蓄えられるところであり、知識そのものでもあります。

「行」の説明は、後回しにします。

「識」という漢字は、物事の善悪を見分けるの意味です。物事とは「受」から来た情報や感覚のことです。外界情報や肉体感覚を「想」の記憶と照らし合わせ、何であるかを見分ける、つまり「識」は認識のことです。つまり顔を見て、これは誰であると識別するとか、今日はお化粧が美しいなとか、笑っているとか怒っているとか、食べ物の臭いなら、美味しそうだとか不味そうだとか腐っているとか、この認識には、「想」の過去の記憶と照らし合わせ判定することも含まれます。判定の方法、判定ルールは固定されたものでなく経験と学習でより良いものに変化していきます。「識」の判定は、客観的なものでは無く、あくまでも主観的なものです。主観的判断が間違いと成らないように、注意する必要があります。この判定ルールも「想」に記録されていると考えてもよさそうです。

「行」という漢字は、元は十字路をかたどった象形文字で、道路・通りの意味から、道を行く、動作を行うの意味に広がっています。つまり「行」は、「識」による感覚の判定結果により、次の精神行動を選択し、つまり感情と意志を決めて、次に肉体の行動に移すこと、つまり全身の筋肉へ命令をすることです。この「行」も「想」に記録されます。

「行」の命令で、「色」の自分の肉体が動きます。この肉体の動作と外界の反応は、「受」の感覚器官で観察されます。結果として「色受想行識」は連携して動作しており、生きている限り、「色」→「受」→「想」→「識」→「行」→「色」とこれがぐるぐると回り続けます。

具体的に人間が意識してできることは、考えをめぐらすこと、顔、喉、横隔膜、胴体、手足の筋肉を動かすことだけです。

一方で人間が意識せずとも行われることもあります。心臓の脈を打つ、呼吸をする、食べ物を消化・吸収・排泄物を作るする、栄養を全身にめぐらす、不要物を尿にとまとめる。爪や皮膚を作り変える。子供から大人に生長する。トレーニングでいつのまにか体に筋力がつき、動作が滑らかで上手になる、などです。

食事を取らないと空腹、呼吸を止めると苦しさ、病気になると体の内部からの痛みを感じます。このように生きるための欲求が自然とどこからか湧き上がります。心・精神でどれほど空腹や痛みが無いようにと願っても感じます。このことから、心・精神は実は肉体の奴隷なのかもしれないと思い至ります。心は外部の環境と肉体の時間変化により勝手に生じる単なる状態なのかもしれません。

例えば怪我をすると痛みを感じますが、眼でその傷を見るとさらに痛みを増すことがあります。実際はそんなには痛くないはずなのに、痛みを恐れると痛みが増します。そして、どんな傷もやがて痛まなくなります。痛みを感じているのは傷口なのか脳という物質なのか心なのか、、、。痛みを伝える神経や痛みの信号を媒介する物質は発見されていますが、痛みそのものは物質という実体ではないようです。傷と痛みの関係を冷静に見ることで肉体の自分と精神の自分の差を認識できます。

人間の高尚な精神活動、たとえば言葉を操りすばらしい詩を作りたいたいとか、心地よい音楽を奏でたいとか、躍動的なダンスで情熱を表現したいとか、壮麗な絵画を書きたいとか、立派な科学理論を発見したいとか、これについてもその始まりとなるきっかけは、心と肉体と外界の関係のどこかに必ずあると私は思います。

心は物質ではなくその時その時の環境に合わせて生じ消えていく状態であるという解釈から、心を良い状態に保つことができれば苦しみから逃れることができる可能性があると気が付きます。

外界からの刺激を肉体が自動的に感知しますが、その時心も動かされます。この心の動きを八正道から外れないよう制御することで苦しみから開放されるという訳です。

八正道に沿って具体的な行動指針を言いますと、こんな具合です。「識」においては、怨み・憎しみ・敵意を捨て、相手の欠点ばかりに着目せず、なるべく長所を見出すようにしましょう。「行」では優しい言葉で正直に、喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めを表しながら、人々の幸福のためになるよう、親切を行うということでしょう。また「五蘊」全体としては、世の中いろいろな事態が発生するのだから、物事の原因と結果を正しく知り、「受」で得た感覚にいちいち驚かず、落ち着いて穏やかな心持ちではっきりと意識を集中して、善い事を行いましょう。そうすれば、「想」には良い経験がどんどん記録されていきこの世の中について正しく学習し、理解が深まるでしょう。

仏陀の時代と異なり現代の科学知識では、人間の脳の構造とそれぞれの機能がおおまかに判明しています。それによると脳は三層構造です。

第一層は、自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核です。この第一層は、爬虫類以下の脊椎動物にも存在します。その役割は、心拍、呼吸、血圧、体温、など意識と関係なく自動調整する基本的な生命維持の機能です。さらに脳幹の一部の視床下部と呼ばれる場所では、原始的欲求である、渇き、食欲、性欲、及び攻撃性(自分の縄張りの防衛意識)の役割を担います。この第一層は、自己保全の目的の為に機能する脳とされています。自分縄張りに侵入者がいるかどうかは、この脳が判断して攻撃反応します。縄張り意識は、最も原始的で強烈な本能です。

この第一層は、ほぼ無意識、つまり潜在意識として活動しています。この第一層の苦痛を回避するには、渇き、食欲などに困らないよう普段から蓄えを用意しておき、さらに安全な住処を確保することです。

第ニ層は、海馬、帯状回、扁桃体といった大脳辺縁系です。この第ニ層は、哺乳類(低級なネズミ、さらに犬、猫、馬そして人間にも)に共通して存在します。役割は、快・不快を基本とする本能的情動や感情を産み出します、また短期の記憶も担います。第ニ層が司る行動は、哺乳類の発達した性欲による生殖活動、子供やパートナーへの愛情行動、集団活動です。ですから、集団を守るために、危険や脅威から逃避する本能的反応、外敵を攻撃する本能的反応もここから生まれます。この第ニ層で哺乳類として家族の保存を司ります。

この第ニ層の快・不快の感覚はほぼ本能的に判断されます、その感覚が感情として意識されるのです。ただし、不快だからいって直ぐ言葉にしたり表情に出さないようにしましょう。さらに、理性でこの感情を意識して良い方向に変更することができます。つまり、対象の短所ばかりを見て不快の感覚を高めることをできるだけ避けて、対象の長所を見て快の感覚を高めることで、苦痛を回避できるようになります。また、危険をできるだけ予知して対策を取り危険を事前に避けることです。

第三層は、大脳新皮質です。この第三層は、高等哺乳類と猿、人類が獲得した脳です。視覚認識から空間把握機能と表情認識機能、聴覚認識から、言語解釈機能と発声、表情と動作を含む高度の運動機能、長期の記憶機能と経験による推論学習機能があります。そして人類だけには文字を用いた創造的思考機能、つまり理性があります。つまり人類には理性があるのです。

人間は、第三層の大脳新皮質にある理性を働かせて、第ニ層と第一層の本能の判断をうまく制御すれば、苦痛を軽減できることになります。

ところで、理性には、自分が常に正しいと勘違いする、何でも知りたがる、何でも話したがる、他人に認められたい、将来への不安あるいは今の快感に急き立てられて必要以上に欲しがる、という困った本能があります。だから、人間は、自分の理性さえをも、自分で抑える必要があるのです。

第二部 第八章 六根

六根とは、五蘊の受、つまり感覚器官を分類したものです。

(1)眼根
(2)耳根
(3)鼻根
(4)舌根
(5)身根皮膚や内臓のこと
(6)意根神経、心へ感覚を伝えるところ

第二部 第九章 六境

六境とは、感覚器官が捉える対象の分類です。

(1)色境色彩、形状
(2)声境音声、重力、平衡
(3)香境香り
(4)味境
(5)触境手触り、温度、体内の動き、痛み
(6)法境神経が伝達する感覚、色境 から触境 を統合して心が感覚として感じる情報すべて

第二部 第十章 六識

六識 とは、六境、つまり感覚器官に対応した心の認識作用です。五蘊の識を分類したものになります。

(1)眼識色彩、形状を認識する作用
(2)耳識音声、重力、平衡を認識する作用
(3)鼻識香りを認識する作用
(4)舌識味を認識する作用
(5)身識手触り、温度、体内の動き、痛み
(6)意識眼識から身識を取りまとめて対象が何であるか認識すること

(ここでの意識は、現代の意識という言葉と意味が異なることに注意)

第二部 第十一章 三法印

三法印とは、この世の成り立ちと生きる目的です。

(1)諸行無常すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬ
(2)諸法無我この世の成り立ちを決めているもろもろの法則に、我つまり個人の欲望が入り込む余地は無い
(3)涅槃寂静悟りの状態になれば煩悩から離れられる、これこそ生きる目的

私の解釈

諸行無常の上記の解釈は、この現実世界をありのまま捉えたもので誰にでも理解できて、どなたからも異論はないと推測します。つまり仏陀に言われるまでもなくまさに事実です。詳しく見てみると、「諸」は、「もろもろの、いろいろの」という意味で「すべての」といい代えてよいでしょう。「行」は、ここでは古代中国で信じられていた天地万物の成り立ちの元、現代の元素の考えに相当する考えの、五行、つまり木火土金水の行です。仏陀の教えは古代インドから中国を経て日本に伝えられました。そのため、古代インドの言葉から中国の言葉、漢字に翻訳されて伝えられているので、古代中国の五行の知識が入っていると推測されます。「無」は文字通り無いの意味です。「常」は、「つね、いつまでも変わらないこと」の意味ですから、「無常」では変わらないということは無い、変わるという意味です。もう少し深く意味を取りますと、すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬから、変化を積極的に受け入れて生きていくしか道は残されていないのだよ、ということです。

諸法無我の上記の解釈は、字句通りに素直に受け取ったものです。「諸」は、「もろもろの、いろいろの」という意味です。「法」の文字は、「のり、法律、決まり」という意味でここでは、法則、物事すべてに当てはまる決まりという意味です。「諸法」で、この世の成り立ちを決めているもろもろの法則という意味です。「無」は文字通り無いの意味です。「我」は、「われ、わたし、自分」で、ここでは心の中の勝手な思い込み、原因と結果の法則や事実を無視した思いつき、無理な願望とまで拡大してもよいかと思います。整理すると、この我とは、我がままで自分勝手な個人の欲望という意味です。全体をまとめますと、物事に当てはまる客観的な法則、例えば、一足す一は二の法則、生まれた人はみな死ぬという法則、四諦と八正道の法則、こういう普遍の法則は、我がままで自分勝手な個人の欲望とは独立して成立しているため、いくら個人の欲望から願っても変更できないという意味です。もう少し深く意味を取りますと、普遍の法則を変更しようと思っても無理だから法則、特に四諦と八正道の法則を積極的に受け入れて生きていくしか道は残されていないのだよ、ということです。

仏陀の教えで自然科学の臭いのするものは、この諸行無常と諸法無我です。この、諸行無常で、原因と結果をつなぐ自然の法則があることを暗示し、諸法無我で、自然の法則は平等に働くので、魔法や迷信が実在しないことを暗示しています。別の章の四諦、五蘊、六根は心理学の分野です。二千四百年前の科学知識はとても少なく迷信に溢れていたはずですが、その時代で、誰もが正しいと認める客観的法則を拾い出して幸福を実現する悟りへの道、八正道を導き出されたとは、やはりお釈迦様は、悟りし人、仏陀と呼ぶに相応しいお方です。

涅槃寂静の「涅」は、梵語、古代インドの言葉の「ネ」の音を漢字にしたものです。「槃」は、梵語、古代インドの言葉の「ハン」の音を漢字にしたものです。古代インドの言葉「ネハン」のより正確な音は「ニルヴァーナ」です。「涅槃」とはすべての苦しみから解脱して悟りを開くことです。「寂」は、寂しいの意味ではなくここでは静かの意味です。「静」は、争いを静止して止まって動かない、つまり「しずか」そのものです。「寂静」は心が落ち着き穏やかで意識を集中していること。つまり、悟りを開いた人の状態で煩悩から離れていることを表します。人が死んでしまうと体から心が消えるのでもはや体は苦しみを表しません、そのため、死んだ状態を涅槃といつの間にか呼ぶようになりました。でも三法印の涅槃寂静は、死んでしまうとか、じっと座って動かないとか、まったく何もしないということではありません、ただひたすら八正道の善を行う悟りの状態、四無量心の実現を指しています。八正道を行い煩悩から離れ四無量心に至る。これが生きる目的であると私は解釈しています。

第二部 第十二章 三帰依

三帰依とは、仏教徒が以下の三宝に帰依することです。

(1)仏陀つまり悟りに到達した者
(2)仏陀の教え
(3)僧伽(修行に励む僧侶と在家の仏教徒)

仏陀は釈尊だけとしないのが大乗仏教です。大乗仏教は、仏陀死後ずっと後世に、仏教教団が教義を発展させて成立した教えです。

南無とは帰依するの意味です。南無大師遍照金剛は、遍照金剛の弘法大師に帰依する、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に帰依する、南無妙法蓮華経は妙法蓮華経に帰依するということです。

私の解釈

帰依は信仰するという意味です。僧は、一般に僧伽の略と解釈されております。僧伽には、出家した修行僧だけでなく在家の模範的仏教徒も含まれます。

仏陀を釈尊だけとしないことも良い意味に捉えることが大切です。悪い方向に捉えると仏教教団の宗派間の争いになります。争いをしては仏教といえません。

八正道、無財七施、四無量心、十悪については、宗教臭さがありません。つまり個人崇拝や排他主義がありませんが、三帰依あたりから宗教臭さが少し顔を出しています。信徒が僧に帰依して布施をいただかないと仏教教団の生活が成り立ちませんから、いたし方ないことなのでしょう。

第三部 第一章 仏教と神

仏教には神が出てきません。神について何も述べていないのです。ですから神を肯定も否定もしていません。神とはどのようなものであるかも説明していません。むしろ神を信仰する人にその信仰を捨てる必要は無いと言っていたと聞きました。私はこの部分の出典を失念していますが、、、。

仏陀はこの世の成り立ち(三法印・四諦)と生きる目標(四無量心)と生き方(八正道)を提示しているだけです。仏教徒は神について他宗教の方と論争してはならないと存じます。むしろ他宗教の方の立場を認めてあげましょう。

ここから先は、思考をめぐらす遊びです。

私は、人間と同じ姿形をした神様や見たこともない不思議な形をした神様など、物質の体を持つ神様をそこかしこに探してみました。神様をかたどった像は、確かにそこかしこにたくさんありました。しかし、どこにも、地球上にも、地下にも海にも、極微の顕微鏡の世界にも、素粒子の世界にも、宇宙を望遠鏡で眺めて見える銀河を超えた範囲にも、物質の体の神様は、見当たりませんでした。そして、日本の仏教で言われている如来や菩薩も、物質の体の者は、見当たりませんでした。

いまのところ、物質の体を持つ神様は見つかりません。もし物質の体を持つ神様がおられたら、宇宙より大きいか、宇宙の外におられるか、遠い宇宙のどこかの星におられるか、とても小さくてまだ発見できないか、それともこの宇宙そのものかでしょう。でも今のところそれを知る方法さえも見つかりません。

物質の体を持たない神様がおられるとしたら、その神様を見つける方法は、肉体の感覚器官ではとても困難です。私から肉体と感覚器官を取り除いて残ったものは、考えや思い、思考です。思考では、神様が見つかるのでしょうか。

わたしの思考には、「神様」という考えが確かにあります。

ところで、「一足す一は二の法則」はだれもが知っています。この法則もわたしの思考にあります。ところが「一足す一は三の法則」と唱えるとこれもわたしの思考にあります。私の頭の思考には「一足す一は二の法則」と「一足す一は三の法則」の両方が今あります。どこが違うのでしょうか。

違いは、「一足す一は二の法則」は真実であり、「一足す一は三の法則」は間違いということです。

もうちょっと遊んでみます。「一足す一は二の法則は真実である」と「一足す一は二の法則は間違いである」もわたしの思考にあります。その違いは、「一足す一は二の法則は真実である」は真実で、「一足す一は二の法則は間違いである」は間違いであるです。 思考って不思議なものですね。どんどん尾ひれをつけていけます。

では、法則が真実であるとか、法則が間違いであるとはどういうことでしょうか。

第一に、真実の法則には、すべての物質が従うということです。物質の世界では、「一足す一は二の法則」が満ち溢れていて、すべての物で、一足す一は二になります。心で三になれと願っても無理です。

第二に真実の法則だけでは、法則自身で自分が正しいことを説明できません。さらに、ここから理屈だけで導かれることがあります。真実の法則に間違いの法則が紛れ込んでいると、あらゆる嘘を正しい真実と言い出すことができます。簡単に言い直しますと、正直者は自分が正直で完全であると主張する方法を持ちませんが、嘘つきは自分が正直で完全であると主張できる、ということです。もちろん嘘は見破られます。これらは数学のゲーデルの不完全性定理といい二十世紀に発見されています。

脱線しましたが、ここで、ひとまとめします。

真実の法則は、この物質の世界に満ち溢れているが眼に見える物質ではない。すべての物質はもれなく公平に真実の法則に従う。真実の法則がこの物質世界の絶対支配者である。間違った考えをいくら願っても真実の法則を変えることはできない。

真実の法則は、まるで神様のように振る舞います。どうやら私にとって神様の力に相応しいものは、真実の法則である、と気が付きます。種明かしをしておきます。私はこの話を谷口雅春先生の生活読本で知りました。

そろそろ私の結論を出します。

真実の法則がこの物質世界の絶対支配者である。真実の法則を作られた生みの親こそ神様であるが、神様がどこにいるか、私が知っている真実の法則だけからはまだ判らない。それより、真実の法則を良く学びうまく利用して生きていくことが、幸せの近道である。

霊魂はあるのでょうか。

霊という文字の旧字は、靈で、雨冠の下に口が三つで音のレイ、下にあるのは、巫女さんの巫ですから、最初は、神がかりの巫女の意味だそうです。時代が下り、神秘の意味が加わり、さらに時代が下り、「たましい」の意味となり、死者の魂の意味となり、死者そのものの意味となり、物の本質となるものの意味、鬼神の意味、不思議の意味、神々しい威厳のある様の意味、まことやまごころの意味にまで広がっています。

辞書では、霊魂(れいこん)とは、魂(たましい)の意味とされます。

魂という文字は、死者の示す鬼と、音を示す云でできています。死者の体からたましいが抜けてどこかへ行く様を意味します。だから魂は、人間の心、精神の意味です。

人が死ぬと、心が消えてしまいます。死者に問いかけても、返事は帰ってきません。でも肉体はそこに残っています。

箱の中に宝物を保管しておく様子から連想して、死者の肉体から心が抜け出して、どこかへ行ってしまったという仮説が思い浮かびます。つまり心は、生きていれば肉体の中にあり、死ねば心は霊魂となって肉体から抜け出すという仮説です。まだただの仮説です。

ところで、人間の体を切り刻んで探しても、どこにも霊魂は見つかりません。結局のところ霊魂は見たり聴いたり匂いがしたり味がしたり、重い軽い、熱い冷たい、硬い軟らかいという物質ではないことは明らかです。

中途半端に物理学をかじった人の中から、霊魂は気体だとか、霊魂は光だとか、霊魂はエネルギーだとかいう人がいますが、霊魂が気体や光やエネルギーであれば人が亡くなる時にそれが抜け出すことが判るはずですが、未だかつて気体や光やエネルギーの形態で霊魂を検出した人はいません。

霊魂が物質(プラズマ・気体・液体・固体)や光やエネルギーでは無いから、肉体で感じることができないとしても、物質やエネルギーとは異なる何かである霊魂が無いとは言えない、いや物質やエネルギーでは無い霊魂があるはずだと食い下がる人も出てきます。しかし、物理学では物質とエネルギーは究極的に同じものであることが発見されており、人間がこれまで探した限りでは、物質とエネルギー以外のものは見つかっていません。

いや情報というものがある、情報が霊魂だという人も出てくるかもしれません。生きた人間に質問を問いかければ、その人しか知らない経験を情報として話してくれます。生きた心は情報を含んでいると言えます。ところで、印刷された本も情報を含んでいます。本は生きていませんが、人間は本を見て書かれている文字を読んたり写真を観賞することができます。情報は物質の形や量や性質で表現されるものであり物質ではありません。本を燃やしたり粉々に粉砕すれはそこに書かれていた情報は失われます。失われた情報はどこかに移動するわけではなく単に消えてしまいます。ところで、霊魂は死者の体から抜けだしてどこかへ移動することになっています。生きた人間と本の違いは、人間には問いかけをすると情報が声の回答として出てきますが、本は、問いかけしても反応しません、つまり本は初めから死んでいるのでこちらから読まないといけないということです。人間の心の情報である記憶は脳の中に蓄えられていると現代では考えられていますが、どのような形態で蓄えられているのか正確なところはまだ判明していません。それでも、脳という物質で情報を表現していることは実験からも確かです。死者の肉体から情報は離れて行くのではなく、死者の持っていた情報はその脳という肉体に留まったままです。しかも死んだ肉体から脳内の情報を読み出すことはいまだかつてできていません。死んだ肉体は腐敗をしていき、脳に刻まれた経験という情報は跡形もなく失われます。まとめると、経験という情報と霊魂は明らかに別です。

人間は、目の視覚にたより昼間に行動します。人間は、夜の暗闇ではまったく目が見えないため、行動しません。暗闇の中では、耳、鼻、皮膚の感覚を全力で研ぎ澄まして何がいるか探ります。暗闇の中で人間は、何がいるか判らない、危険が迫っていても判らないという本能的な恐怖を感じます。私もそうです。この暗闇の恐怖から、微かな音、匂い、風、温度に敏感に反応して空想を膨らませます。ごくごく普通の正常な人でも、暗闇に何か霊魂のようなものがいると感じるのは、そういう暗闇の恐怖を感じている時です。

霊魂(死者の心)を本当に肉体で見たり感じた人はいません。

霊魂が見えるとか、霊が話しかけてくるとか、前世の悪縁とか、ましてや、神様の声が聞こえる、神様のお告げがあったなど言う人は、恐怖を煽りあなたから金品や服従を得ようとしている目的を隠しているか(悪徳商法、反社会的宗教団体=カルト、つまり詐欺師)、冗談として話してあなたを楽しませ笑わせようとしているか(テレビショーの多く)、恐怖心・病気・麻薬による幻覚・幻聴か、単に嘘付き常習者であるか、周囲の者が霊魂を見たというから仲間はずれを恐れて付き合っているだけか、そういうことです。このような危険を感じる人、詐欺師、病人とは付き合わないことです。

特に悪辣な詐欺師は、最初は金品を要求せず、まず、あなたの悩み事を黙って受け入れ相談に乗り、あなたを安心させます。ここまでは、詐欺師が善人を演技していますから普通の善人となんら変わりません。いったん信頼関係ができると、詐欺師は、あなたを徐々に洗脳し、要求を拡大していきます。手品や探偵のトリックを応用した占いや予言や予知であなたを信じ込ませます。仲間はずれ、孤独感、疎外感、苛めの恐怖を煽り、仲間に引き込み、あなたの行動を制約します。詐欺師の目的は、あなたの財産を自発的に貢がせることです。貢物である以上、これらの行為を犯罪であると立証することは困難です。詐欺師かどうかの区別は、相談料金と貢物の要求価格です。相談相手が善人であれば、せいぜいコンビニバイト時給からその数倍程度しか要求しないはずです。どんなに素晴らしい相談相手でも、時給で弁護士の単価以上に支払う必要はありません。あなたの年収の数%を寄付しなさいとか、あなたの財産の数%を寄付しなさいなどという者は、必要以上に要求するということで、間違いなく詐欺師です。詐欺師の可能性があれば、一刻も早く付き合いを止めることです。

結論です。物質、エネルギーあるいは情報という形態の霊魂は存在しません。それ以外の形態の霊魂については、今のところ見つけようがありません。死後の世界の存在については、なおさら確かめようがないことなのです。霊魂話や死後の輪廻転生も確かめようのないファンタジーです。

祖先を祀ることは意味があります。

「霊魂話や死後の輪廻転生も確かめようのないファンタジー」、これが、私の結論です。祖先の霊や、災害や戦争の犠牲者の霊、さらには昔の偉人の霊という表現については、ファンタジーの文脈での表現であると自分で納得していれば、霊験あらたかなご利益があるとか、恐ろしい祟りがあるとか、と妙な期待をしたり不安を持つ必要はありません。

祖先や偉人を祀ることの意味は、感謝の印です。祖先や偉人の功績、財産や知識があったから、今の自分がいるという事実を素直に認め、祖先や偉人へ感謝すること。現在感じられる満足や幸福は、自分の努力だけでなく祖先や偉人の礎の上に築かれているという謙虚な気持ちを持つということです。

祖先の遺言は絶対ではありません。例えば、大昔の偉人が残した書物はとても参考になることが多いのですが、それをそのまま現代に当てはめてしまうことは、無理があります。当時の時代背景、社会の生活・風俗・習慣・文化が現代とは大きく異なるからです。私達が昔話を聴いた時は、第一に、偉人がそういう考え方になった原因と考えの基本方針を丁寧に推測すること、第二に、現代ならその偉人はどうするかを考えることです。

現代でも、霊魂話、死後の輪廻転生の類を信じ込んでいる人はいます。古い時代に成立した教義に微塵の疑いをも持たない熱狂的宗教信者ならその可能性は高いです。そういう人を外見だけで区別できるものではありませんから、「霊魂話はファンタジーだ」と初対面で詳しく知らない人々にいきなり話すことは避けたほうが賢明です。

神様の分類

日本では、神様は神社に祀られています。八百万(やおよろず)の神と呼ばれるくらいに沢山の神様がいます。太陽や月の天体、風・雷その他の自然現象を神と崇めたり、動物や植物を神としたり、高天原にまつわる日本の神話に出てくる人のように行動する神もあります。さらに、歴史上の偉人、菅原道真など多数、を神と祀り上げたりもします。祖先を祀ることの発展形として、戦死した軍人を祀る靖国神社もあります。地下にあると死後の世界として黄泉の国、神の済むところ高天原を設定しています。もちろんファンタジーです。日本では、それぞれの神の信者と別の神の信者が今も争うことはほとんどありません。

本来のお釈迦様の教えでは仏教に神的な者は出てこないはずです。が、お釈迦様の死後に、大乗仏教の一派が教えの内容を細かく切り分け展開して、それぞれの徳目ごとに人間を超越する存在として如来、菩薩、明王、四天王などを割り当てていきました。日本に仏教が伝来した段階では、すでにお経の中に如来や菩薩が書いてありました。さらに日本の土着の神信仰と仏教が融合して神仏習合となり明神や権現が登場しました。仏教では、死んだ人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わるという輪廻思想(これはファンタジーです)があります。

インドのヒンドゥー教は、インドで8億人以上、世界で9億人と第3番目に多く信者のいる大宗教です。ヒンドゥー教では、世界維持の神であるヴィシュヌ神、創造と破壊の神であるシヴァ神、世界創造の神であるブラフマー神を3大神としています。他にも、ガネーシャ、ハヌマーン、インドラといった神がいます。ヒンドゥー教は、人間を超越する力を抽象概念化した3大神、さらに古代神話に登場する神々がいる多神教です。ヒンドゥー教では、仏教の開祖であるお釈迦様をヴィシュヌ神の9番目の化身としていることも面白い点です。ヒンドゥー教も信心と業(カルマ)により来世が決まるという輪廻思想(これはファンタジーです)があります。

日本の新興宗教にも色々な神があります。神は言葉だとか、神は光だとか、私達人間を含むこの世のものすべてが神の一部だとか、様々な教義があるようです。

世界で最も古い文明といえばナイル川のほとりの古代エジプト文明です。ユダヤ教やキリスト教の旧約聖書より明らかに古いと思われる古代エジプト世界は、多神教の世界でした。太陽神・ラー(=アトゥム)が主神であり、天はヌトという女神、地はゲブという男神という具合です。肉体から離れた霊魂バーが行く死後の世界が設定されているが、肉体が残っていれば再生ができると信じられ、肉体の保存のためにミイラ作りが盛んに行われました。

ギリシア神話に出てくるオリュンポス十二神は人間の姿をした神々です。オリュンポスの王・神々の父・主神であるゼウス、太陽の神であるアポロン、戦争の神であるアレース、都市の守護・戦い・技芸の女神であるアテナ、美と愛の女神アプロディーテーなど華やかで賑やかな印象です。ギリシア神話も紀元前15世紀頃に成立したとされているので旧約聖書より明らかに古いです。

旧約聖書を聖典とする宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。旧約聖書に出てくる預言者アブラハムが最初に神を信仰した者として設定されているため、アブラハムの宗教と呼ばれます。旧約聖書は、前5世紀から前4世紀頃に成立したと見られています。キリスト教は、信者人口で世界最大で、約33%です。第二位がイスラム教で20%です。

アブラハムの宗教の最大の特徴は、一神教であることです。他の神を一切認めません。ただし、神の使わされた下僕、たとえば天使、もちろん天使は人間を超越する存在です、こういう者は宗教的に存在を認められています。神の世界は、天国にいる一人の神とその配下の軍団で構成されています。

アブラハムの宗教の第二の特徴は、人間はその神の国天国から追放された罪深い者という設定です。キリスト教では、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命を得ると設定されています。イスラム教では、死ぬと魂は一箇所に集められ最後の審判を待つ、最後の審判では信教を貫いた者だけが永生を得る天国に入りその他は地獄へ落とされるとされます、天国の世俗的な快楽の様子や苛烈な地獄の様子もまた聖典クルアーンに設定してあります。

アブラハムの宗教の第三の特徴は、人間を他の動物から峻別する伝統です。日本人は自然や動植物に近親感を感じ情けを掛けますが、アブラハムの宗教では、自然や動植物に情けも容赦もありません。

アブラハムの宗教の第四の特徴は、過激な宗教原理主義者がいることです。たとえば、キリスト教原理主義では、旧約聖書に出てくる創世記をそのまま信じ込み進化論や古生物学の科学的成果を一切認めません。イスラム原理主義という呼称もありますが、これはキリスト教世界からイスラム教に敵対するニュアンスを込めて付けられたとされています、言い直せば、イスラーム復興運動となりますが、イスラーム復興運動を理論的背景とするイスラム過激派は世界の政治の大きな課題です。また、現在のパレスチナ紛争(ユダヤ教徒が76%を占めシオニズムで建国されたイスラエル国とイスラム教徒が住むパレスチナ地区や周辺の国の間の紛争と敵対関係)もアブラハムの宗教を信じる人々の争いの歴史です。さらに、イラクやシリアでの紛争もアブラハムの宗教を信じる人々の争いです。

イスラム教の開祖ムハンマドは神の啓示を受けてアラビア語で聖典クルアーンを書いたと伝えられています。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教の流れを汲んでいますが、さらに鋭い特徴を備えています。第一に、開祖のムハンマドが自らを最後の預言者としていることです。これが教義一切の発展的修正を拒む可能性を含むことになります。第二に、イスラム教は偶像崇拝を一切認めていません。ムハンマドの像や顔の絵は完全に排除されます。第三に聖典クルアーンには、改宗及び棄教行為は明確に死罪と書かれています。第四にイスラム教には政教分離の考えがありません。基本は政教一致です。第五に開祖ムハンマドが商人だったため、商取引に厳しい決まり(利子をとってはいけない)があります。第六に一夫多妻制であること、女性の服装・行動が厳しく制限されていること。第七に飲酒と豚肉の食用が禁止されていることや日中断食期間の習慣があること。さらに一日五回の礼拝義務。第八に聖典クルアーンには、異教徒に対する暴力を奨励するような記述が多数見られ、征服戦争「ジハード」を正当化できてしまうことです。これらの特徴のため、イスラム教の信者が、ユダヤ教社会、キリスト教社会やその他の多神教の社会の中で仲良く社会生活を送ることを困難にしています。ところが、ムハンマドの没後に新しくできた物(食物、写真、テレビ、コンピュータ、携帯電話、株式会社、兵器、自由、平等、民主主義)は利用を禁止されないという矛盾もあります。

典型的な無宗教の日本人が、熱心な信仰を持つ人と友達になるときは相手の気分を害することのないように事前の学習と準備が必要です。

宗教、思想ってどのぐらい確かなのか

ほとんどの宗教の教義は、超自然的な存在(=神や仏)、道徳律、違反者へ死後の罰、信者への現世利益と死後の報奨から構成されます。秘密あるいは公開の教義として教団の組織化が組み込まれています。

これに対して、近代に発生した思想、哲学、ナントカ主義の類は、立証できない超自然的な存在を無視し、科学的であると主張し、実際に科学的かどうかは最新科学で常に検証が必要ですが、古い道徳律を破壊し、独善的で矛盾した道徳律を強制したりし、ほとんどの場合に集団の組織化が組み込まれています。

宗教も思想も共通項目が多いです。人間、一人ひとりは日常の生活に追われ、時間がないことから、宗教、思想についてしっかりした吟味をすることはできていません。誰でも、親や学校から教わった宗教、思想をそのまま鵜呑みにするか、反発するかぐらいのものです。

共産主義思想は、歴史的開始の時点から、既存道徳の破壊、暴力の肯定、手段を選ばないなんでもありという三大矛盾を掲げているため、初めから論理的に破綻していました。それは、古い道徳を破壊しただけで信頼できる新しい道徳を生み出していません。物事をまだ深く知らない不良インテリがカッコつけるに適していましたが、20世紀の歴史がその害悪を立証してからは、今では残念な思想です。

現代社会の共通ルールである、自由主義、平等主義、民主主義は、人間の数千年の歴史の中で徐々に適用範囲、対象者の範囲が、拡大されてきたルールです。人間には、住処を定め、道具を持ち、水と食糧を確保するという生物としての所有と生存の本能があります。また、子供を産み育てるという生殖本能もあります。共同社会で貨幣を用いて生産性を向上することで物質的繁栄を目指す所有欲の拡大面、余暇を作り娯楽を楽しむという享楽面もあります。また、共同社会では、他人を支配して権力を発揮したいという願望もあります。宗教、思想では、こういった人間と社会の性質を総合的に取り扱うようにしないと実用にはなりません。

仏陀の教えの核心である八正道がなぜ八項目なのか、十悪がなぜ十項目なのか、三法印、四苦八苦、四諦も含めてそれぞれの項目に矛盾や過不足がないのかといった、数学的に厳密な検証は、誰もまだ行っていません。世間一般には、八正道や十悪の意味や解釈が十人十色というお寒い現状では、難しいと思えます。八正道や十悪のさらに根本となる原理原則に何を据えるべきか、私は幸福と善の三定理を置きましたが、これも議論が必要です。

結局のところ、宗教、思想で完璧なものはまだないということです。だから、使えそうな良いところだけをつまみ食いして継ぎ接ぎの思想を作るしかないと思えます。ここに書いてあることは、私が継ぎ接ぎしたものです。もちろん、私にとっては十分に実用的です。皆さんは、この中から使えそうな良いところだけをつまみ食いすれば良いのだと思います。

第三部 第二章 仏教の愛とキリスト教の愛

仏教とキリスト教では成立した年代・地域・文化が異なるため、仏教の愛とキリスト教の愛では、言葉の意味の範囲に大きく違いがあります。

仏教は、愛という言葉をもっぱら欲にからんだ狭い意味で使用しています。例は、渇愛、欲しい欲しいと際限なく欲張ること、です。

キリスト教は、愛という言葉を博愛の意味で利用しています。キリスト教の愛は仏教の四無量心に対応すると考えてもよいかも知れません。

どちらの宗教も人々をより良き方向に導くことを目的としております。教えの正邪を論争しても意味がありません。

第三部 第三章 地獄極楽の方便

日本のお寺に行くと地獄極楽の絵図があります。地獄極楽がどこにあるか、本当にあるか誰も知りません。実は地獄極楽は仏陀に帰依してもらうための方便です。方便とは、一種の嘘です。

方便は、十悪の妄語でしょうか。昔は、地獄極楽の話で、ひとりでも多くの人が八正道に励むことができました。ですから、地獄極楽の話は信心深い人たちにとって妄語になりませんでした。

前世、現世、あの世の話も方便です。現代の社会で、前世の報いで現世がこうなっていると言われても、根拠が希薄でなかなか信用できません。まして、死んだらあの世に行くとかとても信じられません。

しかも方便は、妄語との境目、微妙なさじ加減が、実は難しいのです。私たちがそんな作り話を作ってみても簡単に見破られてしまいます。

この現代において地獄極楽の話やあの世の話で、八正道に励む人は少ないと存じます。我々は地獄極楽とあの世に代わるもっと良い方法を考える必要がありそうです。

良い方法が見つかるまでは、仏陀の教えの真髄を簡単に正直に説くことが良いと存じます。

第三部 第四章 中道

中道とは、厳しすぎる苦行やそれと反対の快楽のみを追求することを否定する考え方です。

具体的な問題と回答を書いてみます。

Q. 仏教なら全員出家して僧にならなければいけませんか。

A. いいえ、人それぞれに進む道は違ってよいです。人々の幸福のためになる職業はたくさんあります。

Q. より多くの人のために、家族を捨てて社会のために働くことが必要ですか。

A. いいえ、身近な家族を第一にそして社会も大切にしてください。
その比率は人それぞれです。その時その場で比率を変えてもかまいません。人それぞれに進む道は違ってよいですからね。
例えば、あなたが独身であれば親の承諾を得て社会のためを中心に仕事をすることも良いでしょうし、あなたに家庭があれば家族や子供のことに多くの時間と力を割いてかまいません。
ただし、家族や社会の人へ自分の立場を優しい言葉で正直に話して理解してもらうことが大切です。そうすれば「一人でも多くの人が幸福になることが善」という教えに適います。

Q. 贅沢は禁止ですか。

A. いいえ、その時その場で相手に合わせた服装や食事をすればよろしいです。あなたがあなたなりの贅沢を人に見せることで人々が幸福になればよろしいかと存じます。
例えば相手を喜ばせるために豪華な服装が必要な職業があります。
注意して欲しいことは、実力や金力に合わない浪費はいずれあなた自身を苦しめることになります。ですから今のあなたに相応しい贅沢の範囲があります。この範囲を守りましょう。

Q. ケチをしないといけないですか。

A. いいえ、極端な贅沢の反対である極端なケチは、相手を不快にします。いずれあなた自身の心も不快になります。
あなたにお会いする人々を喜ばせる範囲で節約をお願いします。

Q. 努力努力努力と歯をくいしばりがんばっているが苦しくてたまりませんこれでいいのか不安です。

A. ちょっと休憩してみませんか。
あなたがスポーツ理論に少し詳しいなら、練習でいたずらにバーベルを持ち上げても力が付かないことをご存知のはず、適度な休息がないと筋肉に力は付きません。
物を作るときもいだすらに一人でがんばっても成果はたかがしれています。料理では時間がたたないと美味しくならないものがあるように時間でしか解決できないものもあります。物の性質をよく考えて作り方を変えたほうが良いかもしれません。
考えをとりまとめているとき迷いや混乱が生じたら休憩が何よりも必要です。あなたの頭脳も生きており疲れて来るものです。
物を買ってもらう商売の場合、買う側が実際に購入するまでにには段階があり時間がかかります。まず、知ってもらう、聞いてもらう、信用してもらう、試してもらうなどの段階ですね。たくさんの人に知られるにはそれなりの時間がかかることは致し方ありません。
ちょっと休憩して一笑いしてみてください。あまりに辛い苦痛に苦しむあなたを見て周りの人があなたに声をかけられないこともあります。「分かち合う悲しみは半分になる」にしても悲しみが大きすぎると相手に負担が大きすぎます。余分な苦しみを友人に与えることにならないように苦しいがんばりを減らしてください。
空いた時間で今のやり方より簡単でより多くの人が幸福になる方法を工夫しましょう。

Q. 今のままでいいんです、仕事もありお金もあり家族もあり健康だし、ずっとこのままがいいんです。

A. あなたは変化を恐れていませんか。もしそうだとしたら今から少しだけ変化について学びましょう。変化とはいわゆる諸行無常のことですね。いずれ、あなたにも席を譲るときが来ます。余裕のある今こそ、一人でも多くの人が幸福になることを考えておくことも必要かと存じます。

Q. 目下の者に間違いを指摘され引っ込みがつかない、今まで育てた恩を忘れたような言い草に腹が立ちます。

A. 鏡をみてご自分の顔をよく観察してください。優しい目つきとおだやかな笑顔が現れていますか。よく顔の筋肉を動かして表情の練習をして見てください。あと深呼吸も忘れずに。しばらくしてから微笑みながら相手の表情を見てみましょう。どうですか相手は怒っていますか笑っていますか。間違いや失敗は誰にでもあります。またやり直しはいつでもできます。一人で苦行の世界へ突進してしまう必要はありません。一呼吸して状況を確かめ進路変更しましょう。

いかがでしょうか、私の場合は、中道を第一の目的としないで、「人それぞれに進む道は違ってよい」、「一人でも多くの人が幸福になることが善」という教えの実現を目的として行動すれば結果として中道になるという考え方です。

第三部 第五章 喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め

物事をなす時の気持ちの持ち方は、喜び、楽しみ、感謝しながら、あるいは同情と慰めを伴ってと、八正道に示されています。

仕事や勉強も、育児、掃除、洗濯、炊事の家事、食事、入浴、睡眠の生活も楽しみながらするものです。

ただし、他人の悲しみを聞く時だけは、喜ばす、楽しまず、同情して、慰めてあげます。相手の話を、静かに丁寧に聞いて差し上げることが、第一番の同情であり慰めです。いたずらに着飾った言葉は慰めにはなりませんし、こちらから根掘り葉掘り聞き出すことや、余計な忠告などは、慎まなければいけません。

自分が得意なこと、できると判り切った易しいこと、儲かること、興味のあること、そんなことなら、言われなくとも喜び、楽しみ、感謝しながら、あるいは同情と慰めを伴ってできます。

苦手な事、難しい事、損をすること事、興味の無いこと、そんなことでも、喜び、楽しみ、感謝しながら、あるいは同情と慰めを伴ってやりましょう、ということが、八正道の示していることです。

何事もまず、始める前に、きっとできると信じましょう。信じられるまで手を出さないことです。やっている様子を想像して、だんだん得意になり慣れて簡単になっていくと考えましょう。損をすること事だけに囚われてはいけません、その物事や経験を積むことで得られる利益が何かあるはずです。その何かをやる前によく探してください。そしてチャンスを与えてもらったことに感謝しましょう。

いざ始めるときは、これから楽しむぞ、と気持ちを切り替えてから行いましょう。祈ることもいいですね。

どうにも頭の空想だけでは、気持ちが切り替わらないという人は、鏡をみてにっこり笑ってみてください。それから気持ちを切り替えると、さっきより楽に気持ちが簡単に切り替わりますよ。

やっている途中も喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めが大切です。心に花をたくさんたくさん咲かせてください。作業の途中途中で、その美しい花を、その場その場に植えていましょう。

作業が終わったら、成果に喜び、自分の努力を讃えます、チャンスを与えてくれた人にもう一度、感謝しましょう。

たとえ結果がうまくなくとも、がっかりする必要はありません。まず、途中までできた範囲を喜びましょう。そして懸命に努力できたことを喜びましょう。

お手紙やメール、ネットのブログなどでも喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めを表す暖かい思いやりの言葉は大切ですね。書いた文字はいつまでも残ります。そして、良い言葉はいつになっても良い思い出を思い起こさせてくれます。

あなたの心の中には世の中の地図ができていると思います。世の中のあちこちを訪問するたびに心のメモ用紙に、楽しいな、とか、ここで嬉しいことがあったな、と書いてその場所に貼ってください。心のメモ用紙は他の人には直接見えませんが、心の地図を通してあなたには見えます。あなたがもう一度そこに行くと心のメモ用紙が見つかりますね。きっとあなたは喜びで微笑みますから、そんなあなたを見て他の人も喜べるのです。

ふと思いついたのですが、優しい眼差し、笑顔、美しい思いやり言葉の最高のお手本は、天皇陛下、皇后陛下であると気が付きました。皆さんもそう思いませんか。両陛下をお手本とささせていただき、眼施、和顔施、言施を常に心がけたいですね。

第三部 第六章 祈り

宗教にはそれぞれ祈り方があります。たとえば、キリスト教の祈りなら、「天にましますわれらの父よ」で始まり、「アーメン」で終わるそうです。そして胸に十字を切ります。

仏教にもいろいろな祈り方があります。長いお経をあげる祈りもあれば、南無大師遍照金剛とか、南無阿弥陀仏とか、南無妙法蓮華経とかを唱える祈りもあります。仏教のポーズは、両手を合わせる合掌ですね。密教になるとマントラがあるそうです。

時代劇で聞いたセリフでは、「神様仏様どうかよろしく」とかがありますね。ずいぶんいい加減じゃあないかと言われても仕方がないのですが、実は私もこんな感じです。このままでは、いけないと思い、南無八正道と言う事を思いつきました。

私の意見ですが、祈りの決めセリフやポーズは、明るく簡単ではっきりしているものが良いですね。祈りの効果は、心がリラックスし、不安が消え、集中しやすくなることです。周りからみてもその人何か良さそうに見えますしね。

第三部 第七章 意識を集中

八正道の正念には、何事もはっきりと意識を集中して行うよう示してあります。

私の経験では、物事のやり始めの最初はまあまあ集中しているのですが、すぐに心が移ろいで行きます。心が移ろいで行くことを防ぐことができません。外界からの刺激に反応することは、生存本能の一種なんですね。また、思考というか考え事ですが、これも次から次から心の奥底からポッコリポッコリ湧き上がってきます。これも本能ですね。

毎朝の腹筋運動を二十回しています。一回、二回と数えるのですが、途中で雑念が入って五回目ぐらいから回数がわからなくなります。十回までまともに数えることができません。自分で自分がアホかいなと思います。気が付くと、はて、今六回かな七回かなとね。で、そこから数えて十回と、まあだいだい十回になったかなとするわけです。二十回なんでもう一度これを繰り返すわけです。腹筋運動なんて厳密に何回というほど意味がないからこれでも問題がありませんので気にすることもありませんが、例として出しました。興味が薄れたことを集中して続けることは難しいですね。

腹筋運動をもうちょっと分析してみます。最初は腹筋運動しながら、数を数えています。なにかポッカリ心の奥底から湧き上がってきて別の考えごと、例えばご飯のメニューとか考えます、ここで数を数える集中が切れてます。ところが不思議なことにご飯のメニューを集中して考えているのですね。と間もなく、腹筋運動中の体から刺激が入ってきて、あれっ今何してる、あっ腹筋、そう今何回だっけ、と呆然として、腹筋運動にも注意がいかなくなり、また数えることからやり直し、とまあ、こうなっています。

たとえば、サッカーの試合を見ていると、弱いチームが同点に追いつかれるととたんに逆転されることを恐れてしまい、良いプレーができなくなります。「負けを意識し始めてしまうのですかね。こういうときは、追加点を狙っていくほうがよいですね。」と解説者は気楽にいいますが、今戦っている選手はそうは簡単に気持ちを切り替えられないのです。

意識を集中して行っていても、意識が逸れ始めたときに、あっ逸れ始めたとまず気が付かないですね。だから、ある程度逸れ先のことを考え時間がたってしまう。これは仕方ない。とにかく早めに、あっ逸れていた、と気が付かないといけない。ここで気が付かないとさらに別の刺激でまた別の世界へ逸れて行きます。いずれにしろ、逸れていたと気が付いたら、直ちに、今するべきこと、目的に心をグイッと引き戻すことが必要です。

サッカーであれば勝利のゴールが目的、負けることを考えてはいけないのです。経験の豊富なサッカー選手であればプレー中にどんなことで心を逸らされるか良く知っているはずです。ふだんから心を逸らすことが何かよく調べておいて、状況によってどういう掛け声を掛けるか決めておきます。そして、普段から何度も唱えて練習しておく、という具合でしょうか。

第三部 第八章 心の安定

八正道の定で示された心の安定を得るには、何事をするにも事前にどういうことがありうるか検討しておき、それに備えて練習やリハーサルを行うことをお勧めします。

予想外の良くないことが発生すると心はかき乱されます。そんなときは、慌てずに一呼吸して優しい微笑みを顔に浮かべてください。心が落ち着きます。また、普段から祈りをしている人は祈りをするとさらに落ち着きます。それから物事に対処しましょう。

以下は、心の安定を助ける方法です。

相手の悪口・敵意・嘘を受けて心が乱れないように、相手の立場をよく理解して原因を取り除いておくことが大切です。

いつも、すべての人にわけ隔てなく好意で接し、優しい言葉で正直に話しておけば、誰からも信用されるため心が安定します。

人々を楽しませ励まし、喜びを共に喜び、恩と親切に感謝しておけば、誰からも好かれるため心が安定します。

人々の幸福のためになる職業に就いたり、人に親切にし、よい寄付をすることも、人々から尊敬されるので、心の安定を得られます。

失敗を恐れると失敗を招きます。反対に勇気を出して、何事も、喜び・楽しみ・感謝しながら、あるいは同情・慰めを伴って、はっきりと意識を集中して行えば成功します。

成功を達成するまで心を逸らさず根気よく努力しましょう。

大きな物事の結果が急に出ることはありません。おおらかに構えて待ちましょう。

たとえ、失敗してしまっても、できた範囲をまず喜び、一生懸命努力できたことを喜び、チャンスを与えてくれた人に感謝すれば心が落ち着きます。

悪いことをした上に、隠してしまうと、さらに罪を重ねて心が乱れます。そもそも悪いことをしないでください。

失敗してしまったり、悪いことをしたときは、すぐ優しい言葉で正直に謝り、訂正や償いをしましょう。

老・病の苦しみを過剰に受けないよう体を丈夫で健康に保ちましょう。

死はいずれ来る定め、静かに受け入れ、命ある限り八正道に励み充実した人生を送りましょう。

殺されそうになったり、泥棒されそうにならないように、危ないところに行かず、危ない人に会わないことが大切です。

愛する人に愛情を贈るから、愛する人から愛情を貰えます。愛情がすぐ戻されないからとて、焦らずに、さらに喜びの愛情を差し上げあげましょう。

体の飢えや渇きを感じてもすぐ食べたり飲んだりできるように、よく働いて蓄えをしておきましょう。

必要以上にもっともっとと欲しがることが無いように、自分や会社に十分必要な量を良く考えておきましょう。

もう少し付け加えておきます。

第三部 第九章 与楽抜苦

物やお金がなくとも喜びと楽しみを与えることができます。

人々の苦しみを取り去る方法として、苦しんでいる人のお話をよく聞いてあげることがあります。そのときに、注意することは、

といわれています。

苦しんでいる人のほとんどは、苦しみの原因も対処方法もそれなりに考えていることが多いそうです。まず苦しみについて丁寧に聞いて差し上げましょう。

苦しみはあなた自身に起きていることではありませんから、いくら聞いてもあなたが苦しむ必要はありません。相手の苦しみを受け取りそのまま空のかなたへ捨て去りましょう。

聞いてもらうことで心が次第にほぐれて来れば、相手は苦しみの原因を話し始め、さらに対処方法について話して来るそうです。一つ聞く度に、もっともであるとか、大変に苦労されましたね、と優しく相槌を打ちましょう。

もし相手からアドバイスを求められれたら、最初は八正道や無財七施の考えにそって優しく大まかなアドバイスをしてあげましょう。細かい立ち入った話は後ほど徐々にすればよろしいかと存じます。

第三部 第十章 褒め上手、褒められ上手

褒め上手になられるとよろしいかと存じます。子供や仕事の部下が喜びますよ。

褒め方として良いといわれている方法は、よく努力したことを褒めることです。相手は、自分の努力を良く見てくれていたのだと感謝し、次回も努力するようになるそうです。

成果だけを褒めると努力を忘る可能性が出てくるそうです。

相手に「あなたはそれが好きである」という暗示を植え付ける言葉も添えてあげてください。そうすれば自分から積極的に取り組むようになるそうです。好きなことをするときは、肩の力が抜けてリラックスして動作に淀みなくなりミスが減ります。

「得意なんだ、上手なんだ」という褒め方だけでは、失敗を恐れる緊張を招くそうです。

褒め言葉は、気持ちが大切です。冷やかし、嫌悪、蔑み、嫉妬を含めてはいけません。

あなたに仕事や勉強のチャンスを与えてくれた人は、目上の方、尊敬している方、両親です。目上の方、尊敬している方、両親には、いつも感謝のお礼を捧げましょう。

仕事や勉強の成果は、できるだけ優しい言葉で正直に報告してください。感謝の一言も添えましょう。報告内容は、順序立てて丁寧に説明することが大切です。発表のリハーサルをしておきましょう。

たとえ仕事や勉強の成果が芳しくなくとも、泣き叫んで取り乱したり、悪口をいったり、人のせいにしてはいけません。チャンスを与えてくれた人に感謝し、楽しく集中できたことを喜び、できたところまでを喜びましょう。

褒められたときは、嬉しいですね。嬉しさを上手に表現しましょう。優しい目つき、笑顔、態度、優しい言葉で嬉しさを表現しましょう。喜び方も練習しておくといいですね。

第三部 第十一章 伴侶を得る

仏陀の教えが、認め勧めているものは、ふさわしい相手とのふさわしい時とふさわしい場所での愛情表現です。

あなたは、よい相手を恋人として選び、よい時よい場所で愛を育んでください。優しい言葉で正直に喜び、楽しみ、感謝を忘れないことです。

独身のあなたは、独身の相手を探してください。現代ならあなたにふさわしい恋人を探すよい方法は、いくらでもあります。

あなたに魅力があればあるほど多くの異性が近づいて来ます。あなたはいつまでも異性の心を弄んではいけません。いつか必ずあなたにふさわしい相手を一人だけ選ぶ必要があります。おだやかな笑顔を絶やさず、暖かい思いやりの言葉をかけて、しかしながら毅然として、その他の人にお断りを告げる必要があります。

思いを寄せた異性からお断りを告げられると、その時は悲しいですが、尾を引くことがないようにしなければいけません。そもそもお眼が高いあなたが思いを寄せるほどですから、よほどの魅力がある人、申し込みがとても多かったのです。競争相手が多く、倍率も高かったのです。ですから、自分に魅力がないからとさほど悲観する必要はありません。恥ずかしいと感じることもありません、ごくごく普通のことですから。八正道に励んでいけば、また良いお相手が見つかるようになります。根気よく探してください。

今あなたの姿形がさほどの美男美女でなくとも一切心配には及びません。まず最初に、眼施、和顔施、言施から励んでください。そして体操やスポーツで体を動かしてください。それから八正道に励んでください。きっとあなたのお顔や姿は見違えるように美しくなります。それは内面の心の光が輝きだし、鍛えられた肉体を照らし出すからです。あなたにふさわしい相手が引き寄せられるようにやって来ます。

もし、あなたが結婚生活に自信が持てない、結婚生活に期待が持たなくても、特別責められることはありません。でも、早々に恋人に自分の考えを告げることが、相手に対する思いやりです。自分の未来の結婚生活にどういう印象を持とうとあなたの自由で、他人からとやかく言われる筋合いではありませんからね。でも、恋人には、思いやりのある言葉で正直に自分の考えを話す必要があります。

「人それぞれに進む道は違ってよい」のですから、他人の人生をあれこれ批判しないことです。結婚をしている人、結婚したい人、結婚しない人、結婚したくない人いろいろです。互いに批判をしないで相手の考えを良く聞き相手の立場を理解してください。

人々から祝福され強く確かな愛情で結ばれた二人から生まれてくる子供は生まれながらに幸福です。そして未来の自分の子供のことをよく案じてください。

仏陀の時代と異なり、現代は、子供を作るかどうか、子供を生むかどうかは、二人で自由に決めることができます。子供をどのように育てて行きたいのか、どんな家族にしたいのか、考えておきましょう。考えもなしに子供を作ってはいけません。

避妊は良いことでしょうか、はい、良いことですと断言できます。古い宗教の教えでは避妊を禁じていることがありますが、良い避妊方法が無かった大昔の知恵と規則に過ぎません。妊娠は新しい生命の始まりであり、親と成るあなたには、出産、育児、教育、遊び、つまり幸せな家庭を持ち子供を養育する義務と責任が負わされます。生まれてくる子供、あなたの伴侶そして家族を幸せにできると確信してからの妊娠をお勧めします。

日本国では、あなたが産み育てる子供の数に制限はありません、あなたの自由です。自由という意味は、あなた自身に自分の子供の人数を決める責任があるという意味です。普通の夫婦であれば、一人、二人ないし三人の子供を産み育てます。あまり多くの子供を産みません。その理由は、普通の夫婦が、子供の幸せを願い、子供が幸せを感じる家庭環境に相応しい人数を考えているからです。

愛する妻や夫を持つ身であれば、言い寄ってくる異性について、できるだけ早く正直に暖かい思いやりの言葉をかけてお断りしてください。

伴侶がまだいない人へのアドバイスです。性欲は食欲と同様の生理的欲求で定期的に訪れます。性の欲求と快感は、とても強いので貪り溺れてしまう人が後を絶ちません。性欲を満たせる相手がまだいない間は、自慰をすることも構いません。自慰は貪りさえなければ害はありません。30番地教会牧師さんの説明もとても参考になります。他の事に励み、しばらくの間ですが性欲を忘れることもできます。どうせなら八正道に適う事をしましょう。そうすればあなたの魅力が増しますから、良い伴侶が見つかりやすくなります。

伴侶を持つ人へのアドバイスです。性欲を愛する妻や夫とともに満たすことができれば充実した気持ちとなり、自然に幸福になります。でも、二人の気持ちと体調がそろわないと満足のいく愛を交わすことはできません。お互いにいたわりの気持ちを忘れないことが大切です。性欲は食欲と同様の生理的欲求ですから、相手の体調が優れないときに片方が自慰をすることもいたし方ありません。

十悪の邪淫は、妻、夫や家族を苦しめる悪の性行為で禁止事項です。

他人の愛する夫や妻がいくら魅力的でも奪ってはいけません。たとえ体を奪ったとしてもあなたの元に来たとき、その人の心は悪に染まり死んでいます。あなたがどんなに努力してもその人の死んだ心を生き返らせることはできません。そして心が死んだ人は、体の美しさもやがて失ってしまいます。あなたはたくさんの人を傷つけ、自分も苦しみ続けることになります。

一旦邪淫を犯してしまうと、それを秘密として隠し通しても、愛する夫や妻そして家族の信頼を裏切るため、一生苦しみから逃れられなくなります。家族は苦しんでいるあなたを見て戸惑いを感じ苦しむことになります。罪の事実を愛する夫や妻そして家族に知られてしまえば、家族は愛情という絆を失い苦しみます、それを見てあなたも苦しみます、最悪のときは夫や妻そして家族がばらばらに暮らすことになります。あなたと相手の苦しみも消えることがありませんが、それよりなにより、子供の苦痛は計り知れません。償いは一生続く重荷になります。

第三部 第十二章 富

現代で富と言えば、お金のことです。お金をどのように得たらよいかについて考えていきましょう。

お金を失う近道は、十悪の罪を犯すことです。その中でも盗みは、一時的にお金が手に入った気がしますが、その金額はわずかなものです。ニュースを見ていますと僅かな金額を泥棒したばかりに、一生を棒に振る人がいることがわかります。泥棒をすると罪がばれることを恐れるため隠れたり嘘を突き通そうとしますから、ますますお金と縁遠くなります。

お金そのものは、ものやサービスを得るときに支払うだけのものです。お金そのものがここにあっても食べられもしないし、服として着ることもできないし、雨風をしのぐこともできません。たんなるお金は、それを眺めてニンマリ笑うことしかできません。であれば、銀行へいって札束がたくさん流れている様子をみてニンマリ笑うことでも良さそうです。どこがちがうのでしょうか。

それは自分のお金か、人のお金の違いです。なぜあなたの元にそのお金があるのですか。それは誰かがあなたに渡したからあるのです。お金というものは、人気投票の投票用紙のようなものです。あなたがした努力の成果としてあなたに贈られた人気度のようなものです。人気のある人のところにお金は集まります。

あなたはどれだけのお金が欲しいのですか。それに相応しい人気がありますか。

人々の人気を得るためには、人々を喜ばせて幸せにすることが大切です。それには、人々の信用を得て役に立つことが求められます。こういうことをしていかないとお金は集まりません。

お金が欲しければ、まず、一人でも多くの人が幸福になる善を行う必要があります。善を行う良い方法が八正道ですから、やはりお金を得るよい方法は、八正道ということになります。

人々の人気を博し信用を得るには、それなりの立派な人にならなければなりません。だから、もう人気と信用がある人を見習ってください。姿形を美しくし、もうたたっぶりと人気と信用があり、体から喜びと楽しさが溢れてくるように振舞いましょう。

最初は、お金がなくともできる無財七施を行って人気と信用を獲得してください。あなたには、八正道がありますから、いずれ十分な富を得ることができます。

富を得ても、肉体は一つです、食べられる食物、着られる衣服の枚数、住める住居の広さにも限度があります。結局のところ、余った富は、一人でも多くの人が幸福になることに利用するしか他に道はありません。

余った富を自分で有効に使うために、会社を作り経営することになります。たくさんの人を雇い富を分配し働いてもらうのです。

個人にしても会社にしても、できるだけ多くの人を幸福にする品物やサービスを提供することが、人気を博し信用を得る秘訣です。

雇った人が良い人で会社の事業が人々を次々と幸福にするときは、会社はどんどん儲かります。会社は人間と違いいくらでも大きくなれますが、品物が人々すべてに行き渡るとそこが限度です。余った儲けは、別の会社を興すことに使います。

お金は大変に便利ですから、十悪の貪りの対象になり易いものです。自分と会社で楽しく生きていくために十分必要なお金の額というを、片時も忘れないようにして節度を守りましょう。

お金そのものは善でも悪でもありません。使い方と稼ぎ方で、あなたの善悪が決まります。人を幸福にしてお金を稼ぐことは善です。

また、お金で買えないものもたくさんあります。時間、寿命、知識を覚えること、能力を向上させること、他人の真心は、お金では買えません。

多すぎるお金は、まるで命があるかのように勝手に振舞い始めます。まずあなたの時間を奪い次に心を苦しめ始めます。どのぐらいのお金まで扱う能力があるか、自分で自分を見つめ直してください。

真の富はお金ではありません。真の富はあなたに寄せられた人気や信用です。人気や信用とは、つまり良い人かどうかということです。

宗教とお金について、考えます。

「第二部 第十二章 三帰依」で、「仏教教団の生活が成り立つために、信徒から僧に布施が必要」と書きました。

生身の人間が生きるためには、衣食住が必要です。衣食住を維持するために、お金がとても便利です。生身の人間が、専門職として宗教の布教をしたり、信者からの相談に応じたりするためには、生活費が必要となります。

生身の人間が宗教家になるということは、宗教で生活費を稼ぐ専門職となることか、あるいは、道楽で無償で働くことになります。

職業としての宗教家がしていることは、商売としての宗教であり、ビジネスであり、生活費となる利益を追求する事業です。

一部の宗教家には、他の宗教、宗派、教団、寺院・教会との競争心が出てきます。自分の宗教事業の発展を願って、信者を増やす仕組み、信者を逃さない仕組み、信者から布施=喜捨=献金を徴収する仕組みを考え出します。

宗教発展の仕組みとは、(1)人気を得やすいできるだけ簡単な道徳律を作ること、(2)救済と罰を含むファンタジーを創作し不安を煽ること、(3)莫大な支払いの義務を課し、支払わない者へ精神的な罰を与えることです。

イスラム教では、ザカートとして財産の2.5%を、神から求められます。サウジアラビア国では、ザカート税が決まっています。

キリスト教の教会の多くは、信者に財産の10%献金を要求してきます。

仏教教団の維持にどれだけのお金が必要なのか、お釈迦様がその金額を指定されたことはありません。ですから、どの教団も「おいくらでも構いません」と言ってきますが、「お金は欲しくありません」と断ることもありません。

宗教家が要求してくる金額が多いか少ないかは、あなた自身が判断するしかありません。もし支払うつもりが無いなら、宗教事業に関わってはいけません。

日本人であれば、すでに税という形で、国家が行う公共の福祉活動に寄与しているから、どこの神様にも仏様にも堂々していることができます。理由は、仏教、キリスト教、イスラム教が始まったどの時代から見ても、大きく前進した自由と民主主義による福祉国家が今の日本だからです。その日本にも改善することは多々有ります。皆さん自身で考え投票するなり立候補するなりして良くしていきましょう。

結局のところ、宗教の中で一番役にたつところは、道徳律です。道徳律は、ネットや本で無料情報として知らせればそれで十分です。合理的に整理され、補足説明の行き届いた道徳律であれば、皆さんの役に立ちます。

ときどき人間は迷うので、他人に相談して助言を得たくなります。そういう時に、親や家族に相談するだけでは不安なときに、先生や先輩を頼りましよう。それでも不安なら、それぞれの分野の専門家に頼りましよう。どの宗教の信者でもない人が宗教家に頼るのは、最後の最後で良いと思います。

第三部 第十三章 失敗と嘘

嘘をつく原因は多くの場合、悪事がばれることを恐れているときです。ですから、まず悪い事をせず、八正道に励んで善い事だけをしてください。それでも時に人は失敗をします。そして弱い心では失敗をすると隠したくなり嘘をつきます。

あなたが仕事で失敗したときは、それを上司に報告しなければいけません。報告は、優しい言葉で正直にしてください。できるだけ速やかに失敗を報告することが、善を成すことです。仮に報告しないと、失敗が次の失敗を招き、すぐ会社や組織の信用を失い、社会に大きな損害をもたらします。

あなたが失敗の報告を受ける立場のリーダーであれば、失敗について社会的に正しい方法で対策する必要が出てきます。担当者をいたずらに責めても失敗が成功に変わることはありません。それより報告した部下の勇気を褒めることが大切です。そしてあなたも勇気を奮って失敗を公表し回復してください。最も大切なことは、取り急ぎ失敗を世間に優しい言葉で正直に説明し、対策をこれから取りますと説明することです。それから、失敗を回復しなけれはいけません。

物事で失敗を避けるには、第一に、その物事そのものが、一人でも多くの人が幸福になる善であることが必要です。悪事は必ず失敗します。第二に、あらかじめ物事の結果を何通りも十分に予想しておくことです。それから、予想される失敗についてできるだけ正直に正確に検討して回復や補償が可能であることを確認しておく必要があります。第三に、物事を実施するときは、八正道に示されたやり方で楽しく行うことが大切です。

あなたのすることが、善い事だけであれば、隠さなければいけないことは、さほど多くありません、人々や会社のプライバシーぐらいです。プライバシーについては、法律で守られていますから、相手の追求を毅然と断れば良いだけです。そして、善い事はできるだけ公開した方が喜ばれます。優しい言葉で正直に善い事をお伝えください。

嘘をつくぐらいなら、そのことについては申せません、と優しい言葉で正直に気持ちと立場を言ってください。それでも追求して来る相手には、これ以上追求しないでください、と優しくお願いするしかありません。

仮に嘘をついてしまうと、嘘の重みに耐えていかなければならず、苦しみが待ち受けています。嘘が次の嘘を招き、嘘に嘘の上塗りをすることになります。ますます苦しみが増します。嘘を付いたことを白状すると、信用を失い、また苦しみます。嘘はつかないことが大切ですが、もし嘘をついたら速やかに過ちを訂正してください。早ければ早いほど苦しみが減ります。

時には相手から嘘をつかれることがあります。必ずしもあなたを陥れようとしているわけではなく、物事を詳しく知らないだけかもしれません。嘘をつかれたときは、相手の間違いをあからさまに指摘ないことが賢い対応です。相手が目上の人なら、その話は勉強中ですから参考にさせていただきます、と告げることもよろしいと思います。わたしは別の意見も聞いたことがあります、という話し方も便利です。

相手から約束を反故にされることもあります。相手の状況が約束したときから大きく変化していることが考えられます。もしかすると相手側のただの勘違いかもしれません。このときは相手の立場と状況を良く聞き、優しい言葉で正直にじっくりと交渉して妥協点を見つけることをお勧めします。

残念ですが、世の中には、平気で嘘をつく人がいます。悪いことをする人、泥棒、犯罪者は、罪を認めると罰を受けるため、嘘の言い逃れをします。また、金品を貢がせて奪うためにわざと嘘をついて騙して来る詐欺師がいます。詐欺師は最初は善人の振りをしてあなたに接近してきます。最初は、善人か詐欺師の区別がつきません。知らない他人をいきなり信用することは危険なことです。詐欺師は、付き合いが進むと徐々に悪人の本性が出てきます。少しでも被害が出てきたら、その悪人とはもう関わらないことが最良の行動です。もちろん、犯罪被害にあっていれば警察へ連絡してください。

第三部 第十四章 無駄口の止め方

頭回転の早い人ほど無駄口が多くなります。あなたの優れた頭脳をちょっと使って、話し始める前にその話が必要か考えてから話しましょう。もっと話したい、まだ話し足りないという欲望に取り付かれてはいけません。話している途中でも相手の様子から自分の話が必要かどうかチェックしましょう。

講演会やセミナーでは、事前に話す内容を作文して朗読の練習をすることが、時間内によいお話をするコツです。

あなたが相手の無駄口に付き合わされることもあり得ます。とくにあなたが優しい聴き上手であればあるほど、頼りにされ話かけられます。相手はもっと話したい、まだ話し足りないという欲望に取り付かれていますので、無下に断ると怒りや憎しみを買います。

手のひらを相手に立てて見せて、ストップの意思表示をしてから、他に用事があるとか、疲れたので休憩したいという理由を優しく丁寧に説明しましょう。

話に入る前にお互いに時間を切っておくことも有効です。たとえば、今は仕事の途中なので五分間だけにしましょう、と時間を決めてから話を聞き始めます。時間を切ることで、相手も要点や重要なことだけを話してくれるようになります。

家庭や職場であれば、おしゃべりの時間としての休憩時間をあらかじめ決めておくことも効果がありそうです。

第三部 第十五章 悪口の止め方

何はともあれ汚い言葉を口に出してはいけません。それには、考え・心を綺麗にしておくことです。心の辞書から汚い言葉を破り捨ててください。そして、暖かい思いやりの言葉や楽しく嬉しくなる言葉を書き加えます。

悪口を言うことを避けるには、まず人々の短所を細かく追及しないことです。反対に人々の長所を探して、相手を褒めることです。当人の前で直接褒めて元気づけましょう。どうしても、欠点を知ってもらいときは、できるだけ一対一で行いましょう。まず先に努力と長所を褒めます。それから、改善点について気が付かないか質問してみてください。質問の回答が的を得ていれば、良く気が付いたねと褒めてから、次からきっと良くなるよと励まして終わりにします。期待した回答が得られないときは、別のこういうやり方だともっと良くなるだろうと提案してください。決して汚い言葉や強い声で欠点を指摘たり失敗を非難してはいけません。

話題の当人がいないところで悪口を言うことは陰口です、これも慎みましょう。その替わりに第三者に話題の当人の長所を褒めて説明しましょう。他の人のよい話を聞くことは楽しいですね。第三者は、あなたと話題の当人がどちらも良い人であるに違いないと感じ、そのことを他の人に伝えます。巡り巡って話題の当人にあなたが褒めていたことが伝わります。話題の当人はきっとあなたに感謝しあなたのことを信用してくれます。さらに巡り巡ってあなたとところにも、話題の当人があなたに感謝していたと伝わります。さらに、第三者はあなたが人を褒める良い人だと知り、あなたに褒めてもらいたくなりますから、あなたに親切にしてくれるようになります。そうするとあなたはこの第三者を褒めることができます。そうして、お互いに褒め会うことで世の中に喜びが溢れていきます。

仮に汚い言葉を言ってしまったらすぐ謝りましょう。他人の悪口や陰口を言った場合は直接その相手に謝罪しましょう。

あなたの立場が社会的に上になればなるほど、社会に対して謝罪する必要が出てきます。償いは、早く丁寧に真心を込めていたしましょう。

もし汚い言葉や他人の悪口が聞こえてきたら、聞こえないフリをして構いません。興味が無い、聞きたくないという無関心のポーズをしてください。耳をふさぐポーズも良いでしょう。手のひらを立てて相手に見せるポーズも良いでしょう。嵐が通り過ぎるのを待ってから、にっこり微笑んで、楽しく嬉しくなることをお話ください。悪口を言った相手を追求してはいけません。そういう人でも時々は人を褒めたり自分の楽しかったことをお話しています。楽しい話の続きを聞いてみたりしては如何でしょうか。

第三部 第十六章 二枚舌の止め方

二人の人にそれぞれに反対のことを言ってしまう二枚舌を使うと、後でその二人の人が会って、あなたから聞いた話を互いにすると、話が異なることが判り、どちらもあなたのことを信用しなくなります。たとえ片方の一人に真実を説明していても、その人からの信頼も失ってしまいます。さらにその二人が、あなたは信用できない人である、と他の人に話すこともあります。そうすればあなたの評判はどんどん落ちていきます。

人が二枚舌をつい使ってしまうときは、立場の強い相手から事実と異なる嘘や悪口について同意を求められるときです。このようなときは、嘘をつかれたときの対応方法や悪口が聞こえてきたときの対応方法を思い出してください。

「そのことについては申せません」と優しい言葉で正直に自分の気持ちと立場を言ってください。それでも追求して来る相手には、「これ以上追求しないでください」と優しくお願いします。

他人の悪口が聞こえてきたら、聞こえないフリをして構いません。興味が無い、聞きたくないという無関心のポーズをしてください。耳をふさぐポーズも良いでしょう。手のひらを立てて相手に見せるポーズも良いでしょう。

意見の異なる二人のどちらにも取り入ろうとして、二枚舌を使いたくなる人がいます。このようなときは、少なくとも片方には嘘をつくことになります。嘘はついてはいけません。ですから両方の人に真実を告げる必要があります。

ところで、一人一人に別の話し方をしても、二枚舌とならないときがあります。

仮に、あなたが、自動車のセールスマンとしてたくさんのお客様一人一人にある自動車をお勧めるとします。このとき、どのお客様にも同じ話し方をされることはありませんね。お客様の性別、年齢、性格、趣味や生活スタイルを良く考えて、その自動車の用途について提案を作り、お一人お一人に自動車の良さと便利さを異なる内容で説明されると思います。このように、もともと一つの真理を、この例では自動車です、相手の求めに応じて異なる内容で説明することは良いことです。このような方法は二枚舌ではありません。

もし二枚舌を使った人に気が付いても、その人のことを非難したり、その人の陰口を言ってはいけません。その人が二度目にあなたに合いに来るときは、二枚舌がばれないか不安に感じています。もし素直に二枚舌を使ったことを謝って来られれば、優しく許してあげましょう。謝罪が無いときは、別の人からこういうことを聞いたことがあるよ、と聞いた事と反対の内容を振って見てから、最近は他の意見も出てきたのかなと、質問してみることも構いません。この質問の仕方であれば、相手に以前の意見を引っ込めるチャンスを与えることができます。それで様子を見てください。改心するようであれば今後も付き合えばよく、そうでなければ縁遠くすればよいだけです。

第三部 第十七章 節度の美意識

あなたは、美しいものをお好みですか、醜いものをお好みですか。

享楽のためだけに浪費をしてはなりません。また、蓄財のためだけにケチをしてもなりません。どちらも、十悪の貪欲に取り付かれた強欲者です。

着物も食物もその他のもろもろの物も、己の享楽、自慢、見栄またはケチだけためではないと知らなければなりません。その時その場相手に応じて物の使い方は変わると考えてください。

あなたの喜びや悲しみを他人が理解できるまでには、手順が必要で、時間もかかります。喜怒哀楽も度が過ぎると、十悪の貪欲に取り憑かれた状態となり、他人の気持ちを思いやれなくなり、相手が自分の気持ちを理解してくれない状況に苛立ち、相手へ十悪の怒りをぶつけるというお粗末な結果に陥ることがあります。喜怒哀楽にも節度が必要です。「第三部 第二十章 喜怒哀楽の表し方」も参考にして下さい。

十悪の貪欲に取り付かれた強欲者は、急き立てられた気持ちとなり、強欲の苦しみを快楽と誤解して我を忘れてしまいます。どんなに着飾ろうとも、どんなに喜んでいても、傍から見れば、強欲者は醜く映り軽蔑されます。

強欲者は強欲者を呼び寄せ、互いに互いを嫉妬し、策謀をめぐらしながら際限なく貪り続けます。

強欲者は、周りの人すべてを苦しめます。そして、我を忘れているので、自分を苦しめていることに気がついていません。

我を忘れた強欲者がいたら、関わりあってはいけません。強欲者は権力を持っていることが多いため、非難したり批評するとあなたを逆恨みして、他の人を使い攻撃してきます、とても危険な人です。関わりを避けて黙って疎遠にしましょう。

強欲者は、醜く危険な人なので、信頼できる友人も愛する家族も離れていきます。強欲者は、誰からも忠告を受けることができません。強欲者は、自分が貪欲に取り付かれていることを自分で気が付くしか救われる道がありません。

強欲者にならないためには、自分の取り分、会社や組織の取り分として本当に必要な量をいつも気にかけておくこと、節度を守ることです。必要以上のものは、寄付するなり、人々の幸福のためになる別の事業に使う必要があります。

組織のリーダーは、人々の長所・役割を見出し、相応しい場所に配置する必要があります。仕事を任せるときも、仕事の成果を受け取るときも、相手に感謝することが大切です。その人のためになるかどうかを気にかけて、組織の仕事がその人に向いていないときは、組織から外れてもらうこともまた愛情です。

組織のリーダー、尊敬される目上の人、つまり権力者になったとき、あなたは、自動的に孤独になります。それがリーダーの宿命です。権力者の唯一の友人は、仏陀のような、大宗教の教祖だけです。どの教祖も教えを残して旅たたれています。ですから本当の友人は残された教えだけです。あなたが権力者となったとき、心に大きな鏡を用意する必要があります。そこにあなたの姿を写して、自らをよく観察する必要があります。「私は、強欲者かどうか」と。

第三部 第十八章 怒らない

怒りはどんなときに感じやすいか羅列してみました。

多くの怒りは、予想しない悪事が起きたときに、心が乱れて感じます。怒りは時間とともに、怖れ、怨み、憎しみ、苛めなどに変化していきます。

そこで、怒らないためには、先回りして色々な事態を予想しておき、事態を防止する対策打っておいたり、事態を防げないと予想できるときは、怒らない練習、リハーサルをしておきます。

もともと自分が悪事をしている上に、その悪事を指摘されるとさらに怒り出す人もいます。このようなことにならないよう、普段から悪事に手を出してはいけません。また、間違いを指摘されたとか、悪口をたしなめられたとか、貪りを指摘されたとか、この程度で怒るくらいでは、小者過ぎます。すぐに感謝して訂正することが、大人物というものです。

あなたの正しい努力がなかなか実を結ばなくとも焦ってはいけません。大きな良い考えは理解してもらうのにとても時間がかかります。大きな良い事は実現するまで理解の十倍の時間がかかり、さらに、大きな良い事は世間の人に知ってもらうには、さらに十倍、つまり百倍の時間がかかります。正しい努力、八正道の正精進をしているのなら怒るはずがありません。

醜く強いもの、社会の矛盾や不正義、を見たときの反抗心から怒りを覚える人がいます。ここで怒っては、誰もあなたに賛成してくれません。社会の矛盾や不正義は、たくさんの利害関係が複雑に絡み合った断面の一つです。全体を良く見て、一人でも多くの人のためになるか冷静に判断してみてください。そして、改善するよい方法があれば、その手順も良く考えてから、世間に粘り強く訴えていくしかありません。社会の仕組みは、多くの人々を説得して理解してもらい変えるものです、長い年月を掛けて徐々にしか変わっていきません。

醜く弱いものを見たときのからかい心から、苛めを始めてしまう小者も時にはいます。徒党を組んで苛めるなど卑怯者のすることです。あなたがリーダーであれば、弱者を保護し悪者を懲らしめる必要があります。あなたが一般の人であれば、弱い人に親切にし、よい寄付をしてください。

自分では若い若いと思っているのに、老いを指摘されたとき、怒り出す人がいます。ここで怒ると余計に老いて見えます。たとえ肉体が老いても心が若々しく柔軟な人はそのようなことで怒るはずも無いのです。年上に見られるということは、立派で尊敬できるように見られるということ、堂々と受け止め、笑いと楽しみにつなげてあしらいましょう。

病気のとき、空腹や喉か渇いているなど生理的要求があるときは肉体に余裕がないため、怒りやすい状態です。病気のときは、お見舞いに来てくれた家族や友人は、あなたのことを案じています。気持ちはありがたいけど、苦痛と戦っているから、ごめんねと先に言い出すぐらいでちょうどよいです。一方で、空腹のときレストランでなかなか食事が出ないといって怒り出す人が時々いるそうです。この程度の空腹で死ぬこともなし、怒るぐらいなら、お手伝いを申し出るぐらいの親切をしましょう。空腹とレストランの込み具合は予想できる範囲のこと、飴玉のひとつも用意しておきましょう。

怒りを防止する方法を列挙しました。

怒りに溺れると苦しいのですが抜け出せなくなります。怒りが怒りを呼び互いに貪りあうためです。怒る者は、敵を招き互いに傷つけ合い苦しみの連鎖が続きます。

怒りを止めるには、次のようにします。

  1. まず対象から一歩離れる
  2. 八正道の正見の力を発動する
  3. 対象を多角的に把握する
  4. 対象の大きさを把握する
  5. 怒りがつまらぬことと見切る
  6. 一人でも多くの人が幸福になる方法を見出す
  7. 人に親切にし、よい寄付ができるか考える
  8. 喜び、楽しみ、感謝が蘇る

第三部 第十九章 間違いを正す

間違いは、誰にでもあります。間違いを正すことは善です。間違いに気がついたり、指摘されたら早く訂正することが大切です。そして、間違いを指摘していただいた人にに感謝することを忘れてはいけません。

ときどき、間違いを認めることを恥ずかしいと感じる人がいます。恥ずかしさとは、状況の変化を怖れる心です。怖れとは、敵わぬ相手への怒りに諦めが加わり変化したものです。ですから恥ずかしさを感じることは、少しばかり悪です。感じていただきたい事は、指摘していただいた相手への感謝、正解を見つける喜びです。

間違いを指摘した人が、自分より弱い人や目下の人であると、なぜか怒り出す人がたまにいます。怒り出すことで、これまで長い時間をかけて築いた尊敬を一瞬で失い、あなたは小物に格下げされ、軽蔑されてしまいます。自分より弱い人や目下の人が間違いを指摘したら、心から感謝し、成長を褒めて、勇気を讃えてあげましょう。

怒りや嫉妬に負けて、言い争いをしてはいけません、よく相手の立場を理解しましょう。

議論と言い争いは、まったく別です。議論は共同作業です。互いを尊重し労わり合いながら隠し事をせず、状況や理論をさまざまな方向がら分析して、真理を導く作業です。

人や物事には、善の要素と悪の要素が混ざっています、善の部分を見逃してはいけません。悪の部分にとらわれてはいけません。

判断に確信が持てないときは、安心して相談できる親、先生や友人をまず頼りましょう。

あなたが、リーダーであれば、偏りなく幅広い意見を聞くことがまず大切です。反対意見を聞かずに、決定を急いではいけません。リーダーの決定には、大義の理由、世の中の一人でも多くの人々の幸福のため、が必要です。

喜び・楽しみ・感謝を忘れて、あるいは同情・慰めを失って、後ろ向きになる感情、暗い気持ちは、間違いを見過ごす元になります。

快感や苦痛に溺れて貪ってしまうと、心が高ぶりすぎてしまいます。間違いをしやすくなくなります。心を落ち着かせて穏やかな心持ちになってから、判断しましょう。

善い事をしたら喜び楽しくなる、悪い事をしたら苦しく悲しくなります。この感覚を判断基準にしてください。

自分だけや会社だけの利益を追求すると間違いを犯しやすくなります。人それぞれの立場で、物事の善悪の見方が変わります。一人でも多くの人々の幸福のためになるという目標を思い出してください。

学校で学ぶことを疎かにしてはいけません。よい先生を見つけてください。自然科学の法則でさえ時代が進むとともに見直しされ、間違いが訂正されています。大抵の法則には、適用できる範囲があります。範囲外のことには使えません。人間社会の法律や規則は、状況でどんどん変わって行きます。

自然科学が発達し教育が行き届いている現代では、さすがに迷信を信じる人は少なくなっています。世の中が発展し情報が溢れるようになりました。どのような学者でも専門を外れると素人同然であることも事実です。あらゆることに精通した人はいないのです。また自己の利益を確保するため、隠し事をしたり嘘を言う人もいます。よく考えずに権威や専門家の話を鵜呑みにして信じてしまう人が多いことも事実です。色々な人の意見を幅広く聞き、一人でも多くの人が幸福になる意見かどうかで真偽を判断するぐらいしか、良い方法が無いことに気が付きます。

自分は何でも知っている、自分は誰よりも頭がいい、自分の意見こそ正しい、他の人の意見は聞く必要が無い、科学で解らないことはない、非科学的だから間違いだ、善悪は重要ではない理論が正しいかどうかだ、理屈じゃない気持ちだ、などいう一人よがりに陥らないことです。

我関せずの無関心は、それだけで間違いです。目の前の状況に関心を持ちましょう。

犯罪者によく見られる言い訳、罪を罰せられたことを運が悪かったとすることは、邪見です。

これからするのは、偽善と偽悪の話です。

人には、善と悪が混ざっています。

善と悪を直線に並べてみましょう。無限大の善、無限大の悪が考えられるから、有限の存在である人間が、完全な善あるいは完全な悪を為すことはまず不可能と考えられます。また、善でも悪でもないちょうどゼロ(0)のところを決めることもまた、とても困難であると判ります。

無限大の悪(-∞) 悪(-) ゼロ(0) 善(+) 無限大の善(+∞)

また、善悪の区別は、それぞれの人の立場で異なって解釈されます。万人に共通の善や悪というものを設定することも極めて難しい、つまりほぼ不可能ということも判ります。

偽善を岩波国語辞典で引くと、「本心からではなく上辺を取り繕ってする善行」という意味です。日本語には、正直を意味する言行一致という言葉もあります。偽悪を岩波国語辞典で引くと、「自分から実際以上に悪人であるように見せかけて振る舞うこと」とあります。

偽善と偽悪は自分の心と行動あるいは心と発言が一致しないため、自分に嘘をつくことになります。自分自身につく嘘で本人は余計な考え事をする手間と時間が増えてしまいます。要するに手間をかけて考えるということで、自分で自分を苦しめることになります。

人は、心で感じ考え、言葉を発し、行動をします。八正道十悪は心と言葉と行動の道徳です。心と言葉と行動すべてを善で満たして行動することが真の善であることがわかります。

心には、感情(=本能的好き嫌い)と理性(=道徳律からの判断)の二段階がありますから、感情と理性が一致しない場合は、自分で自分を苦しめることになります。時には感情が理性より先走り、理性に反して、悪い言葉を言う、悪い行いをしてしまうこともありえます。また理性で損得を計算する前に、感情的に良い言葉を使ったり、善い行いをしてしまい、自分は損失を被ることもありえます。

感情とは、「本能的好き嫌い」ですから、感情を変更することは、とても困難です。理性で感情を抑えるか、ものの見方を変えて、ありのままに事実を受け取るしかありません。

最新の科学的研究によれば、人間のその場の判断は、習慣の積み重ねである無意識下での判断であるとのことです。無意識下での判断で、発言や行動が先にされてしまいます。その後に発言や行動に対する意志が心で自覚されるそうです。参考:池谷裕二さんの著作「脳には妙なクセがある」。私達が感じ信じていた自由意志(=自分で意識して自由に行動を選択出来ること)は、そもそも心自体の錯覚であるということになります。科学が示すこの知見は、これまでの常識に反するという驚に満ちた事態を招いています。それでも救いがあります。無意識下での判断は、良い習慣の積み重ねと意識的な練習で改善できるということです。

一部の人は、当人としては冷静になって考えたつもりで、それがカッコイイということで、悪ぶってみせます。典型的な例は、わざと大声で騒ぐことや自動車運転でのスピード違反の自慢などです。また中高生のタバコ、飲酒、無免許運転、その他の不良行為もカッコイイという判断から来る偽悪です。

偽善や偽悪を毎回行う人は、自分が他人からどのように見られるかということを人一倍気にして、少しでも自分を良く見せようとして、発言し行動しています。

キリスト教のイエス様の言葉に「施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」があります。意味は、偽善はそれを人に見せるために行うから、人に見られた時点で効果(=報い)を得ていて、それ以上の効果はもう得られないということです。私の経験では、人間は偽善や偽悪の匂いを嗅ぎ分ける力がとても強いく速いです。あなたが為す偽善も偽悪も、他人はその匂いを瞬時に嗅ぎ分け、あなたが偽善者か偽悪者であるかを見破っているということです。だから、この幸せ研究室もあなたが感じるように、私の自己顕示欲が書かせていることに間違いありません。

偽善に対して偽悪で対抗しようとする若い人を、よく見かけました。私も中高生の頃はそんな傾向が強かったと懐かしく思い出します。

正直であることは、大切なことですが、悪口を言わないことも大切です。正直を優先して、悪口を言ってしまう人もいます。悪口をいいそうになったら、沈黙することです。悪口を言わされそうになったら、悪口を言いたくないと切り上げることです。正直で悪口も言わないが、ひねくれた事を言って相手を困らせる人もいます。正直で悪口も言わないだけではなく、思いやりの籠もった優しく易しい言葉で話す必要があります。

人が悪ぶってみせるのは、悪ぶる人の真似を自分も繰り返しして覚えたという、がっかりすような酷い習慣の積み重ねが原因です。ですから、大人になっても不良ごっこをしているようでは、身近にいい人がいなかった可哀想な人ということになり、逆に、本当にミットモナイ人でもあります。

「偽善と偽悪は、行動としては間違いだ」そう言って切って捨てては、善を為すことも難しくなります。偽善は、より良い善を為すため、あるいは、偽悪は、より酷い悪を為すための初歩的練習と考えてはどうでしようか。

人間に、完全な善はできないから、それなら、偽善でもいいからとにかくできるところから善を成しましょうという考えを表明される賢者も多数います。参考:小池龍之介さんの偽善入門。私もその意見に賛成です。

以下は、知的な遊びとして、善悪の程度を善、0(善でも悪でもない)、悪の三段階とし、心・言葉・行動で、詳しく場合分けして見ました。言葉と行動が一致しないものは、「矛盾」としました。「許可」とは社会的に許される発言や行動かどうかということです。

No.許可言葉行動
1真大善
2真中善
3偽大善
4真中善
5真小善
6偽中善
7×矛盾大善
8×矛盾中善
9×矛盾小善
10真中善
11真小善
12偽小善
13秘善
14
15秘悪
16×偽小悪
17×真小悪
18×真中悪
19×矛盾小悪
20×矛盾中悪
21×矛盾大悪
22×偽中悪
23×真小悪
24×真中悪
25×偽大悪
26×真中悪
27×真大悪

相手の、発言や行動が一見すると善に思えますが、最終的に嘘がバレて、騙していたことになる場合があります。例、悪徳商法のボロ儲け話。これは詐欺という犯罪です。「うまい話には裏がある」という言葉を忘れてはいけません。

第三部 第二十章 喜怒哀楽の表し方

喜怒哀楽とは、喜び、怒り、哀われみ、楽しみの感情で、その頭文字を並べて、人間の感情全体を現します。ここでの哀われみは、普通の悲しみとしてよいです。仏教用語の慈悲の悲は抜苦の意味であり、普通の悲しみとは意味が異なることを頭の片隅に覚えておいてください。

さて、ここまで仏陀の教えについて私の解釈を述べさせていただきましたが、ここでごく普通の日常生活で皆さんや私が自然に感じる気持ちである喜怒哀楽は、仏陀の教えではどこまで感じ表現してよいものかについて、これから考えて見ます。

私の解釈では、八正道の正思惟とは、喜び・楽しみ・感謝、同情・慰めであると書きましたように、喜びと楽しみは善行ですから遠慮する必要はありません。積極的に喜び、楽しむことが大切です。そのとき気に留めて欲しいことは、一人でも多くの人が幸福になるように喜び、楽しむことであり、分かち合う喜びは二倍になるので、喜び、楽しみを周りの人に分け与えてあげるることだと思います。

どのようにすればあなたの喜びが周りの人に素直に受け取ってもらえるか、その方法は重要です。例えば、スポーツ選手が勝利のインタビューでどのように喜びを表現しているか、その姿が、とても参考になります。まず家族やファンそしてチームメンバーに感謝を捧げていますね。これが喜び、楽しみを周りの人に分け与える行為です。あと相手チームが強く立派な戦いをしてくれたことつまり相手選手の健闘にも感謝しています。相手がいてこそのゲームですからこの感謝も大切です。これを聞くことで周りの人はあなたの喜びを受け入れる準備ができる訳です。それから勝者は、上手にできたところは練習してきた成果です本当にうれしいです、といいますね。最後に勝者は、再び皆さんに感謝してガッツポーズをとります。

スポーツの勝利インタビューが感動の集大成とすれば、そこへ至るまでのプレー中の感情・態度においても、喜び、楽しみの表現がとても大切であることがわかります。試合を戦う両者とも、勝利を目指して最後までひるまず勇気を奮って正々堂々と全力を尽くすします。それだけでなく、ゲームをすることが喜びであり、楽しいという気持ちを表現することで、ファンの皆さんと選手が一体になり楽しさを感じます。たとえ負け試合でもプレーする喜びと楽しみを最後まで表現できればファンは次の試合も見に来ててくれますね。

素晴らしい選手とは、プレーもインタビューもすべてが楽しさにあふれています。私たちのごくごく普通の生活や仕事でもスター選手と同じように喜びと楽しみを表現できるように工夫していきたいものですね。そうすればごくごく普通の生活や仕事にも喜びと楽しみが満ち溢れてきます。

勝利インタビューが終わり、やがて、選手は次の勝利に向けてまた練習に楽しく励みます。いつまでも勝利の美酒に浸り続けることは致しません。敗者もまた勝利に向けてまた練習に楽しく励みますね。私たちもいつまでも浮かれ続けることは止めて喜びを胸に秘めて普通の生活や仕事に励む必要があります。

自分の喜び、楽しみの感情を、他人に伝えるには、手順と時間がかかります。映画「男はつらいよ」を見ていると、寅さんは自分の喜び、楽しみ、哀愁の感情をうまく伝えられなくなり、逆に怒ってしまって家族と喧嘩してしまうシーンが毎回描かれています。観客として最初の数回は笑えるシーンですが、何度も見せつけられると辛く切なくなってきますよね。口八丁で商売上手のテキ屋さんなのに、家族に対しては何故か口下手、家族に対して喜びと楽しみを伝えるには、自分の心を表現するテクニックと練習が必要なんですね

ところで、時にはあまり大げさに喜んではいけない場所と時間もあるという事実をしっかりと理解しておきましょう。このような場所では慎み深くしていることが大切です。

怒りについては、十悪に記されているように禁止です。怒らないための方法は別の章に記入してあります。

哀われみ、悲しみについてどこまで感じ表現してよいか、ここが大切なポイントです。仏陀の教えに沿って考えると次のようになると私は解釈しています。

まず、哀われみ、悲しみを感じて構いません。ただし、哀われみ、悲しみを貪ってはいけません。つまりいつまでも哀われみ続けたり、悲しみ続けることはいけないことです。哀われみ、悲しみからいつか離れることが必要です。

哀われみ、悲しみから動揺して無駄口、悪口などを発してはいけません。人前であまりに大声で泣いたりすることは大抵の場合は相応しくないということです。まして感情に流されて十悪にある悪行為をしてはいけません。心の中で哀われみ、悲しみの原因を冷静に正しく認識してください。

スポーツ・ゲームの敗者の場合、自らの敗北に打ちのめされていますが、それでも第一に相手の勝利を讃えることが大切です。そしてここまで来ることができたのは、周囲の皆さんの協力があったからと感謝することです。こうすることであなたは敗北を冷静に受け止める準備ができます。敗戦の弁を述べるときも感謝を表明することで、周囲の人もまた敗北を受け止める準備ができます。その後負けたにもかかわらず良かったことを探してみます。プレーに喜びと楽しみを表現できていたら、たとえ負けてもあなたとあなたのファンには十分な感動があります。そして再起を誓いましょう。

愛する人を亡くす事ほど悲しいことはありません。愛する人を亡くした悲しみが消えるには、長い時間が必要ですが、その時間はあなたの気づきのための時間です。あなたが生活や仕事を喜び楽しみながらこれまで通り行うことが亡くなった人の希望です。そのことを忘れてはいけません。亡くなった人は死により、自らの席を次の人に譲ったのです。亡くなった人が生き返ることはありません、生き返らせるという間違った考えに囚われるとあなただけでなく周りの人をさらに悲しませてしまいます。愛する人に感謝を捧げ、良い思い出を語り継ぎ、他の人も同じような良い経験できるよう手助けすることはきっと良いことです。悲しみを乗り越えてやるべき善行は他にも多々あります。

第三部 第二十一章 怪我と病気に向き合う

人間の苦しみの代表として怪我と病気があります。怪我も病気も肉体の苦痛を伴います。怪我と病気に向き合うとは、怪我と病気の苦痛とどう向き合い対処するかということです。

まず最初に、怪我をしたり病気にかからないように、危ないことを避けたり、体を元気に健康に保つことが大切です。そうは言っても時々怪我をしたり病気になることはあります。

自分の経験に照らし合わせてみますと、肉体の苦痛は、その場所で感じ方、リズム、強さ、範囲、種類が異なります。軽い苦痛であれば気にせず忘れてしまい、本来の仕事に集中できますが、大きな苦痛であればあるほど困難になります。そのような場合仕方なく仕事を休み、じっと体を横たえて、怪我や病気の回復を待ちます。

じっと体を横たえて回復を待つときにもちろん苦痛を感じているのですが、感覚器官からの苦痛の信号に意識を集中したり傷口をじっと見つめたりすると痛みがどんどん増して来ることがあります。なんとか苦痛を忘れてしまいたいものですが、なかなかよい方法がありません。最近の頭痛で少しよかった方法は、いちいち肉体の苦痛に心を動かさず、とくに頭の中でぐるぐると痛い痛いと叫ばないで、「大丈夫」と大きく一度考えてしばらく置くぐらいでしょうか。

仕方なく、体への手助けとして、医者にかかり、傷口を治療してもらい、薬を飲み苦痛を緩和することになります。とくに苦痛を緩和することで、心が乱れ怒りを貪り嘘、無駄口、悪口を言うことを避けることができます。

怪我も病気は心と関係なく体が自分で勝手に治してくれます。ただし、ある程度の時間がかかります。たいていの場合、時間とともに苦痛が薄まりやがて消えます。ですから、心がすることは、苦痛に苛々したりすることではなく苦痛を感じる直接の感覚器官の信号をそのまま誇張も矮小もせず受け取り、そのまま捨て去り、体が自動的に直していると信じることです。ベッドにいるときは、きっと良くなると強く一度思い、さあゆっくり眠ろうと思うことでしょうか。

私の経験では、早く回復するることを願い続けても、やはり回復には時間がかかるので、回復し切るまでひたすら何度も願い続けるだけということはできませんでした。痛みを忘れ寝てしまうことが良いのですが、眠れないときは何かで気を紛らわす必要があります。

気を紛らわすなら、良いことで気を紛らわすとよろしいかと思います。楽しい娯楽番組や映画を見るとか、偉人の話を読むとか、ご自分の信仰について再勉強してみるとか、治癒してから人々の幸福のために今度は何をするか計画を考えるとかです。

第三部 第二十二章 老いと死に向き合う

人間はやがて老いて死にます。大抵の老いは、病気を伴い、最後は死に至ります。私が自分の親の死や親族の死を看取ったり、親や年長者から聞くところでは死を受け入れがたくしているものは、病に伴う苦痛と人生で遣り残した事のようです。安らかに死ぬとは、苦痛を感じずに死ぬということと理解しています。

死を迎えるに肉体の苦痛を避けるため、医者に鎮痛薬を処方してもらうことは良いことかと思います。

老境に入り自分の寿命を察知できる分別のある人は、自分の生活を綺麗にされます。残される人たちへメッセージや財産の整理を始めます。それだけでなく生活している住まいの隅々が綺麗になります。また言葉つき振る舞いも綺麗になります。自ずと八正道に励む形になります。そうすることで、いずれ来る死の病にも、心を落ち着かせて穏やかな心持ちで対処できるからです。

老いの病はさまざまです、痴呆となり言葉と判断力を失うこともあります。ですから、そうなる前に自分の生活を綺麗にしておきたいものです。

死は、自分のこの世の座席を後進の若者に譲る時です。最後の善行として無財七施の牀座施を行うときです。死を定めと受け取り、年老いた最後のときに落ち着いた静かな死を迎えられるよう、八正道に励み、人生の遣り残し事を無くすことが良さそうです。合掌。

第三部 第二十三章 戦争と殺人

現実の世界では戦争と殺人がまだあります。殺人は十悪の殺生戒に反します。戦争と殺人は、怒り、貪りを原因としています。攻撃を受け人が死に、哀われみ、悲しみを感じたことへの報復を正当化することで、さらに戦争と殺人の連鎖が続いてしまいます。悲しみの虜であり続ける限りこの報復の連鎖を断ち切ることはできないという考え方も知っていただきたいと存じます。

戦争と殺人を防止するには、第一に殺戮の原因を作らないことです。その方法が八正道になります。

私たちは、起きてしまう悪事に対応するために、国内では法律を作り運用しています。例えば、殺人犯を捕縛して刑法で裁き刑に服させています。

また、国家間の交渉を行いルールを取り決めています。最近の戦争は、国家間の共同の警察機能の体裁をとり、国家間で協議して世界全体として正義を行うという形式をとりつつあります。

まだ戦争と殺人の無い世界は実現できていませんが、国家も法も、仏陀の教えの理想に向かってゆっくりですが着実に進歩しているように思えます。

究極の問いとして、もしあなたが軍人、警官、死刑執行人の公職にあり、職務として殺人をしなければならない状況のときこの殺人は仏陀の教えとして許されるかどうか、があります。

私の解釈は、司令長官の場合は、法律が認めた場合でさらに自分の市民を守るための道徳的に正当な自衛権の発動だけが許され、それ以外の場合(侵略戦争、テロ行為など)は、如何なる時も許されない。また、命令を受ける下級職の場合は、法律が認める命令による殺人は許されるというものです。ただし、殺される相手を憎まないこと、悲無量心の気持ちで殺される相手の苦しみに同情し、それを取り去る気持ちが大切です。正念と正定を守り一人でも多くの人の幸福につながると信じて公務を遂行してください。あなたの心の健康を守る上で、日常生活では十悪を犯さないよう八正道に精進することが大切です。

第三部 第二十四章 人口増大と環境

仏陀の時代から、おおよそ二千四百年を経過して、人類は自然科学を発展させ、機械文明を作り、法治国家による民主主義社会を実現し、世界に行き渡る貨幣経済を普及させました。

もっとも貢献したのは、自然科学の発展とその応用としての、機械・情報・医学・農業です。これにより人類は、暑さ、寒さ、飢え、渇き、病気をずいぶんと克服できました。非常に多くの人の幸せが達成されたのです。だから、過去から変わらない生活方法を続けてしまうと、人口が急激に増えてきます。

国連の2011年版「世界人口白書」によると、2011年10月31日に世界人口が70億人に到達したと推計されてました。いったいどこまで増えるのでしょうか。

人類は、仏陀の時代にはなかった、新しい問題、人口増大問題と環境問題に直面しています。問題に直面するということは、そのことに気が付いていなかった。愚かだったということです。人類は、二十世紀に始めて地球の限界に気が付き、この二十一世紀から真面目に未来を、十年先、百年先、千年先、一万年先以上を考える必要が出てきました。今生きている人は全員、過去の考え方、つまりは無知ですが、これを一度捨てて、冷静に未来を考える必要があります。

人類は、地球の大きさを知っていますが、現代の機械文明と農地面積でいったい何人まで養えるのかその限界について研究は未完成です。

非常におおざっぱな考えですが、人口数は、今養える科学力にほぼ等しいと仮定すると、今の機械文明と農地面積では、70億人前後誤差20%と見ることになります。

そして、産業革命前の世界人口が、おおよそ10億人前後誤差20%です。これは、産業革命前の農耕文明と農地面積では10億人前後誤差20%まで養えることを意味します。もしこれから機械文明を止めて昔の生活に戻るとしても六十年以上かけて戻らないと、養えるだけの人口まで平和を保って人数を減らせません。しかも昔の生活は物質的に豊かでないため幸せかどうかもわかりません。

現在の70億人すべてが、日本人と同じ質と量の物質消費をしているわけではありません。多くの人類は、物質的には、日本人よりずっと質素な暮らしをしています。仮に、全人類が、日本人と同じ質と量の物質を消費をすると、資源不足がすぐにでも起きると考えられています。そもそも、今の今、それなりに生活している各国の人々が、日本人と同じだけの物質消費を必要としているかどうかも解りません。ですから、この生活格差が、正義なのか不正なのかも私にはまだよく解りません。

第一の環境の問題とは、エネルギー資源、鉱物資源、肥料資源が、これからも十分足りるかどうかの資源問題です。

第二の環境の問題は、気候変動や巨大自然災害の問題です。温暖化や寒冷化といった気候変動予想では、どちらが本当で、いつごろ何が来るのかも、よく議論されるようになりました。気候変動については、確定的なことはまだ分からないということが正確な判断でしょう。

第三の環境の問題は、人類による環境汚染です。通常の化学物質による汚染は、日本ではほとんどなくなりました。でも伝え聞くところによりますと、中国を始めとするアジアでは汚染対策がまだ不足しているそうです。かつて日本の環境汚染の原因は、無知と隠蔽でした。環境問題を解決したい、美しい環境を保ちたいという願いは、自分たちのためというより、子供や孫のためなのです。

ところが、今年、重要な環境の問題が皆さんに知られるようになりました。今年2011年の東日本大地震をきっかけとする福島第一原子力発電所の大爆発事故で、広範囲の放射能汚染が始まりました。この放射能汚染だけでも、つらい悲しい大災害てす。でも、隠されていた事実、原子力発電所の核廃棄物を捨てる場所が世界のどこにも無い、この環境の問題も、同じかそれ以上に、つらい悲しい事実です。原子力発電所の核廃棄物は放射能が無くなるまで安全な場所で電気を使い水をかけて冷やし続ける必要があります。保管には十万年を遥かに超える時間が必要であることも皆さんに知られました。捨てる場所が無いということは、そのままそこに十万年以上在るということです。十万年とは、人類の文字で書かれたせいぜい二千年の歴史の五十倍の長さです。そのような遠い未来には、氷河期のひとつや二つはあたりまえにあるそうです。十万年間、安全に保管できるか実験して確かめることなどできません。原子力発電所一箇所の核廃棄物の保管管理には、維持費だけでどんなに安く見積もっても一年間に一億円(*1)はかかりそうです。単純計算で十万年倍すれば一箇所の原子力発電所で十兆円かかります。原子力発電所の寿命は今回の事故で五十年であることも知れ渡りました。そして原子力発電所の核燃料はあと全世界に四十年分しか無いことも知れ渡りました。普通に考えれば、核燃料がもうないから、これ以上新しい原子力発電所を作る必要が無いことに誰でも気が付きます。でも、世界のあちこち、中国、ベトナム、トルコその他でどんどん原子力発電所を作ってもらうそうです。原子力発電所しか売るものが無い人は、自分のことだけ考えるのではなく、考え方を変えてもっと儲かること、つまり世界の人々をもっと幸福にすることを考えて欲しいものです。このまま原子力発電所を作れば、当然、核燃料は品不足で値段が上がり続けます。核燃料を売る人には、核燃料が高く売れるので都合はいいのですが、高い核燃料を使う側は大損です。いずれ核燃料が足りなくなり、原子力発電所で作った電気代はもっと上がります。そして、わずか五十年しかない原子力発電所の寿命、十万年間に比べれば、比率でたったの0.0005の、原子力発電所のために、残る残骸、廃墟の原子力発電所と汚い核廃棄物についての十万年間の保管責任と十兆円(*1)の費用を、子供や孫、子孫は負担しなければいけません。実は、すでに日本には三十箇所の原子力発電所、実際の原子炉は一箇所に複数基あるのでもっと数多いのです、がありますので、一年間で三十倍の三十億円(*1)かかります。私たち日本人は、未来の子供や孫、子孫に大きな負担を押し付けてしまいました。単純計算で十万年間分を計算しますと、三百兆円(*1)という気の遠くなる金額です。今後のことを深く深く深く考え、状況を改善しなければなりません。

(*1)金額は根拠がありませんので、ずっと低く予想するため、警察官わずか十人の専属警備費用を見込みました。最近(2011年12月2日)の根拠のある数字として、 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111202-00000043-mai-int には、 「英国が保有する民生用余剰プルトニウムの総量は、日本の電力会社などが英国に再処理を依頼して抽出した28トンも含めて114.8トン(10年末)で、管理費は年約20億ポンド(約2400億円)。」とあります。これは、英国の記事を翻訳したものです。英語の記事、例えば、 http://www.world-nuclear-news.org/WR-Prism_proposed_for_UK_plutonium_disposal-0112114.htmlには、「The country is currently storing about 112 tonnes of civil separated plutonium at Sellafield, including some 28 tonnes of material belonging to overseas customers.」とあり、「114.8トン」が確かな数字です。 http://www.guardian.co.uk/environment/2011/nov/30/ge-hitachi-nuclear-reactor-plutonium?newsfeed=trueには、「Ministers have been increasingly talking about the future of the stockpile, which costs about £2bn a year to maintain, and some in government want the plutonium to be classed as an asset rather than a liability.」とあり、「年約20億ポンド=約2400億円」が確かな数字です。 英国の約2400億円から考えると、日本が一年間、三十億円が安すぎる見積もりであることがよく判ります。英国の約五分の一とすると年間約五百億円、十万年で五千兆円です。

資源の分配が多国家間で、非常に下手糞に争われた例が、第二次世界大戦です。二度と大戦争をしなくて済むように、人類共通の問題として、人口増大と環境の問題を平和的に解決しないと、いけません。

こういう世界の状況を知ると、日本の人口が減少しており、50年後に半減する可能性があるという予想は、日本の平和を確保できるという前提が必要ですが、世界の人口問題と資源不足の問題に上手に対処できる非常に都合がよい変化とも考えられます。人口が減れば生活の質を維持して、いやむしろ向上して、つまり一人一人が豊かになって、環境の問題を解決できるからです。

ある程度以上の水準で、個人個人が満ち足りた生活ができるようになると、やたらと子供を産む必要が無くなるということです。子供が少ないということで、子供は大切にされますし、行列不要となり空いていて気持ちいいですし、待つという無駄な時間が減るので有効時間が増えますし、家の面積は広くできますし、一人当たりの物も豊かになりますし、やたらと能率とか効率優先にする必要もありません。

昔の日本、第二次世界大戦の前までは、子供をたくさん産むことが推薦され、子供も働かせることで強い国を作ろうとがんばっていました。とても厳しい見方をすれば、子供を使って大人が楽をしようとしてあせっていたのですね。その分、子供は大変だったようです。医学が進んでいないため小さい弱い子供はすぐ亡くなりました。子供がたくさんいるので一人一人に満足いく教育はできません。お母さんは一人で子供が五人六人が普通ですから子供に眼が行き届くはずもありません。成人式を迎えるだけでも大変に苦労した時代だったそうです。

子供や若い人を安く大量に使い、生き残った僅かの老人が権力を握るという構造は、年齢構成が、ピラミッド型の社会、つまり医学の未発達の社会では通用します。こういう社会では、とにかく生き残り老人になることが権力を握ることです。ですから生き残りこそが大切な目標でした。生き残りの目標を達成し権力を握ったい老人が、尊敬されるのはアタリマエの古い世界した。ところが、だれでもが健康で長生きし老人になってしまう現代では、老人が尊敬を集めることは難しいのです。まして権力を持っている老人は尊敬というより敬遠されてしまいす。もしその人が本当の尊敬を受けたいのであれば、最低でも十万年分の明るい確かな未来を提案することが、これからは必要なのです。

今は、子供を働かせる代わりに、機械やコンピューターが働いてくれます。インターネットの技術が発達したので、世界中のテレビを見たり、誰でも世界中の人とテレビ電話で直接お話したり、日記をプログで公開したりできます。それもお金がほとんどかかりません。

未来はこんな具合に楽しく明るくなるでしょう。教育の知識を得る部分は、インターネットを活用して勝手にマイペースで自習できるようにもうすぐなります。学校で知識を勉強する必要は無く、学校はスポーツや芸術をしたり科学の実験をしたり、つまり皆で遊びに行くところになります。情報通信の発達のおかげでわざわざ出かけて行く必要がどんどん減って行きます。仕事で通勤することが減っていき、旅行とかパーティで出かけるようになります。そのうちロボットが発達して、介護や家事をしてくれるようになるでしょう。移動するにも一人一人専用の安全な自動運転の車を利用するようになるでしょう。農業は、工場のように管理された場所でロボットが種まきから収穫までするようになるでしょう。太陽光発電やさらに新しい技術(*2)が主力になり自分の家の電気は自分で作るようになるでしょう。大工場は、南太平洋上の大きな大きな船の上につくられ、海に浮かべた太陽光発電パネルや新型の発電設備(*2)でエネルギーをまかうようになるでしょう。そのうち町ごと南太平洋上の大きな大きな船に引越します。なにせ今すぐでもこの大きな大きな船は坪単価十万円以下で作ることができます。つまり日本のどの町より土地代が安いのです。昔と同じことを日本でする必要はもう無いと考えたほうが良いでしょう。みなさんもどんどん良いものを発明して発売して明るい未来を作ってください。

(*2)2012年の情報では、かつてインチキ扱いされた常温核融合技術の商用化が、 米国やヨーロッパのベンチャー企業で開発準備されているそうです。 残念ながら英語情報ばかりで日本にはまったく伝えられていません。 興味のある方は、 LENR, E-CAT, Brillouinなどのキーワードで検索してみてください。 日本の技術者や企業の奮起を期待したいところです。

子供を産む人がいないので、外国から移民を日本に呼びよせて日本人より安い賃金で働かせたらいいという人もいます。でも、十年後、二十年後に、今度は移民の人たちは賃金が上がり老人になります。また移民が欲しくなります。移民して来る人の将来を考えない意見は、単なるその場凌ぎで身勝手な欲望です。世界の歴史を振り返って見ると、移民してきた人々に自活できる財産として農地を贈与できるぐらいでないと移民は成功しません。

おそらく、世界には、この他にもまだまだ問題たくさんあります。人類は自然科学を発展させ、社会制度をもっと洗練して、問題を解決していかなければなりません。

欠乏する資源の争奪が国家間の戦争を招く危険、欠乏する資源を利用して自分だけの利益を追求してしまう困った考え、遠い未来の子孫のことを考える必要があることを学ぼうとしない無知と無関心、こういうことが諸問題の原因と考えられます。心に原因を求めれば、貪りの煩悩、飽きることなく欲しがる強欲や嫉妬が原因でしょうか。

仏陀の教えは、個人の心の救済には、うまく使える手段ですが、人口増大と環境に起因する問題の解決方針に使えるでしょうか。私は、未来の子供への思いやりを入れたいと思います。こんな具合です。
仏陀の教え(これまで)仏陀の教え(これから)
一人でも多くの人が幸福になることが善 一人でも多くの人と未来の子供が幸福になることが善
人々の幸福のためになる職業に就く 人々と未来の子供の幸福のためになる職業に就く
自分、家族、人々の命を大切にし親切にする 自分、家族、人々、未来の子供の命を大切にし親切にする
困った人を見たら助けてあげる 困った人を見たら助けてあげる。未来の子供に幸せを送る
人々へ喜びと楽しみを与える 人々と未来の子供へ喜びと楽しみを与える
人々の苦しみを取り去る 人々と未来の子供の苦しみを取り去る
人々の喜びをともに喜ぶ 人々と未来の子供の喜びをともに喜ぶ
人々に惜しみなく施す 人々と未来の子供に惜しみなく施す
殺人、むやみに生き物を殺すことは禁止 殺人、未来の子供を苦しめる、むやみに生き物を殺すことは禁止
泥棒、盗み、ズル、悪事隠蔽は禁止 泥棒、盗み、ズル、悪事隠蔽、未来の子供にツケを回すことは禁止
嘘をつくことは禁止 嘘をつくこと、未来の問題を隠蔽することは禁止
このぐらいのことは知っているよ、と感じた皆さんは、とても幸福な人です。きっともう既に周りの人と共に、どんどん、どんどん世の中を良くされておられるはずです。あなたはきっと世界の指導者になれます。私は、世界が平和で、楽しく明るい未来になって行くと信じています。 合掌。

第三部 第二十五章 命より大切なもの

ここまで、みなさんと一緒に調べて来た、お釈迦様の教えの特徴は、 理路整然と整理された簡単なものでした。

ところで、 「大切な命もやがて死を迎えることになるという事実」 があります。 この死は、四苦八苦の一つであり 苦しみとされています。 死の苦しみ、つまり死の恐怖を、 乗り越え克服する方法があるのか、 それにはどうしたらよいのか、

お釈迦様の教えの示すところは、

その通りなのですが、 理路整然と整理された簡単な教えからは、 今ひとつ感情に響かない感覚が私にはありました。

今は特に大きな病気も無く、死の恐怖はほぼ感じ無い。 でも、毎日毎日命は流れて行く。いずれ死を迎える。 だから恐怖は次第に大きくなる気がする。

今の今、生活はできるているが、 いつまでこの生活を安全に続けられるか保証が無い。 なんとなく不安だという気がする。 どうすれば、いいのだろうか、と思います。

私も毎日、自分なりに精一杯生きているつもりですが、 命を賭ける程は、生きていない気がします。 お釈迦様の教えを理解したつもりで、 命を大切にしていますが、 どちらかといえば、逃げ回っているようなやり方です。

「死は定めとして、冷静に受け止め、 八正道を行うことに専念しなければならない。」 このことを理解しているつもりでも、 心の喜びが減る感じがする。 つまり八正道の正思惟、喜び・楽しみ・感謝するあるいは同情・慰めができなくなる。 どうしたらいいのだろうか。

事業で思い切ったことをすれば、 お金をたくさん使い、 破産寸前の状態を経験します。 つまり、身近に死の恐怖を感じます。 この恐怖をどうすれば乗り越えることができるのでしょうか。

昔の日本人は命を賭けて戦争を戦いました。 今でも世界のあちこちで命を賭けて戦う人がいます。 私が知らない、命より大切なものが、きっとあるはずです。 それはいったい何かを知りたいと思います。

私は、命より大切なものが何かを知る必要があります。 命より大切なもの、それは、名誉、信用なんだろうか、、、 いったい何だろう。

クレオパトラ、シーザー、アントニウスの物語の映画を 録画で見る機会が有り、 当時の国王、英雄が神として崇められることを、 そして、国王や英雄は、勇敢であることも、再認識しました。

古い歴史物語のお陰で、旧約聖書に出てくるモーゼの十戒を思い出しました。 あらためてモーゼの十戒を調べなおすと、 お釈迦様の教えとよく似ているではありませんか。 お釈迦様の教えの一部は、お釈迦様が初めてではないと気がつきました。

そこで、モーゼとお釈迦様の時代関係、地理関係を調べました。 アレキサンダー大王の史実から、 モーゼ、お釈迦様、イエス様の間で、 間接的な情報の伝達、知識の共有があっても問題はなさそうです。

それから、キリスト教の有名な教え、 イエス様の「山上の垂訓」を読み直しました。

最初は意味がつかめなくで混乱していましたが、 数回読み直しているうちに、 イエス様の真意が少しずつ私なりの解釈として理解できました。

そして、命より大切なものが何かを知ることができたのです。

では、山上の垂訓から学んだことを記します。

山上の垂訓とは、 新約聖書の中のマタイの福音書5章~7章に 書かれているイエス様が人々にされた説教です。

最近は、Wikipediaなどにも聖書が記入されているから、 誰でも簡単に調べることができます。

キリスト教の信者ではない私ですら知っているぐらい 有名な部分であり、イエス様の教えの核心と思われます。

しかし、予備知識を持たずに読み進めば、 その言葉が、 現代の常識とかけ離れていること、 表面的な字づら内容が矛盾していることから、 読む人に混乱を巻き起こします。

しかし、多くの聖者や伝道者そして学者から、 山上の垂訓こそが「神の国の律法」と支持されていることも事実です。

そこで、私のとりたい態度は、

です。

まず次のことを検討しておこうと思いました。

歴史的前後関係

宗教的戒律、律法などの歴史的前後関係を おおざっぱですが確認しておきます。

ウル・ナンム法典とは、 メソポタミア文明のウル第三王朝の 初代王ウル・ナンム(紀元前2115年頃 - 紀元前2095年頃)によって発布された 現存する世界最古の法典。 古代文の全57条中の残存する32条が解読済みとのこと。

殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されているとのこと。 特に殺人・強盗・強姦・姦通は極刑。 損害賠償も記述されているとのこと。

すでにこの時代に、 人間がしてはいけないことがはっきり明文化されており、 人類の普遍の道徳として、広まっている 遅くともイエス様の時代までには、広まったと考えてよいはずです。

リピト・イシュタル法典は、 古代メソポタミア文明のイシン第一王朝の 第五代王リピト・イシュタル(紀元前1934年 - 紀元前1924年頃) によって制定されたシュメール語の法典とのこと。 断片が発見されており、その断片を集めて復元されたとのこと。

奴隷、租税、婚姻、相続、牛の賃借について、 金銭上のことが規定されている。 さらに、逃亡奴隷の扱いや土地の管理、 処女性の保護などが書かれているとのこと。

この法典は、金銭についての実生活の細かい規定であり、 宗教的な意味合いの内容ではないようです。

しかしながら、金銭つまり財産は、命の次に重要であることが、 法律の歴史的な成立順序からも、うかがい知れます。

ハンムラビ法典とは、 バビロニア王ハンムラビ(紀元前約1810-1750年頃)が制定したもの。 完全な形で残る世界で二番、あるいは三番目に古い法典。

ハンムラビ法典の記述内容は、

だそうです。 また、 財産の保障、女性の権利、奴隷の権利の記述や 「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」 との記述から 公平性、権利の保護、弱者保護も規定されているそうです。

聖書にある「目には目を、歯には歯を」という言葉は、 ハンムラビ法典まで遡れるそうです。

モーゼは、旧約聖書の出エジプト記に出てくる 紀元前13世紀の預言者です。

十戒は、モーゼが神から与えられたとされる10の戒律です。

十戒の内容は、キリスト教の会派により、 欠落した項目があったり、表現が異なったり、翻訳が異なるため ストレートな紹介が難しいです。

以下は、正教会・プロテスタント・カトリック教会・ルーテル教会のものを ミックスしたたため11項目あります。

十戒(ミックス版)

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
  4. 安息日を主の聖なる日として、その日は主を思い、体と心をいたわり休息せよ
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
  10. 隣人の妻を欲してはならない。(他人の妻と交わりたいと願うスケベ心を禁ずる)
  11. 隣人の家をむさぼってはいけないこと(他人の財産を欲しいと願う強欲な気持ちを禁ずる)
解釈は後の別章で行います。

参考までに、お釈迦様つまり仏陀は、紀元前463年 - 紀元前383年 頃のインドの人です。

アレキサンダー大王(ギリシャ語読みでアレクサンドロス大王、英語読みでアレクサンダー大王も可)は、 紀元前336年 - 紀元前323年 頃の人です。 マケドニアから出て、ギリシャ、小アジア、エジプト、 ペルシア、ソグディアナ方面を征服、インドも遠征し征服した大王です。

アレキサンダー大王の帝国が立証しているように、 インドとエジプトの間(イスラエルやシリアはその間にある)には 少ないながらも人的交流があったと思われます。 少なくとも商人を何人か間に挟むつながりでの交流は あったと考えていいでしょう。

ですから、仏教の知識がエジプトの アレクサンドリアに持ち帰られて、 アレクサンドリア図書館(紀元前300年頃-4世紀)に蓄えられ 知られていても、不思議ではありません。

また、仏教的考えも秘密めいたものではなく、 ごくごく常識的なものですから、 イエス様ならすぐに思いつかれたことでしょう。

実際の山上の垂訓では、 十戒に代表される律法の解釈の仕方や 十戒では不足している心の持ち方と使い方について 説明されており、 仏教的考えと似ているところも多数あります。

イエス様は、紀元前4年頃 - 紀元後28年頃の人です。

当時のその場所は、パリサイ人の偽善行為が蔓延し、 異常に細分化された律法、 規則のための規則に縛られ、 心つまり愛が失われた風潮がありましたと聞いています。

当時の政治・宗教・神・文化・風俗・科学の状況

メソポタミア文明からイエス様の時代は、王がいて政治を行う社会です。 王は、神の子孫とされています。 だから王は神であるとされた時代です。

古代の神は、太陽や月や大地や海だけではありません。 現人神がたくさんいた訳です。 現人神をかたどる偶像崇拝はアタリマエと想像できます。

私は、民に恵を与えてくれるものがすべて神だったと推定します。 自然の恵みを与えてくれる太陽、月、大地、海が神であり、 政治を行い世の中に秩序を与えてくれる王が神であることになります。

古代の法も現代の法と比べても案外しっかりしていたようです。 してはいけないこと(禁止事項、罪)、 しなければいけないこと(義務、納税や兵役など)を細かく規定しています。 また、罪を犯したときの刑罰も規定しています。

社会経済を動かす金銭は、 通貨の存在しない物々交換の時代だったので、 高価な金品、銀で計られていたようです。

医学が未発達ですから、 細菌で病気がおきることを知る人はいません。 病気は悪魔に取り付かれたためとなります。 多少の薬(麻薬、痛み止め、下痢止め)はあったでしょうが、 庶民は病気が直るまでじっと耐えるだけです。

当時は、迷信がはびこっていたのです。 妖怪、幽霊があたりまえに信じられています。

交通が不便です。 外国には、徒歩で行くしかありません。 乗り物は整備された街中の王宮の周辺でしか利用できません。 せいぜい馬に乗るぐらいです。

印刷、手紙、通信が未発達です。 テレビも新聞も電話もありません。 なかなか情報が伝わりません。 安い紙とペンが無かったので、 大量の文章の記録も残りません。

清潔な水道もガスも電気もありません。

当時は、警察が発達していません。 自分の身は自分で守るしかありません。 泥棒されても立証は困難です。 泥棒されても殺されないだけましと考える社会です。

奴隷制度がありました。 しかし、奴隷でいることは、主人から保護されていることでもあります。 有力な主人の奴隷になることは、生きる上で幸運なことかもしれません。

庶民のための学校はありません。 子供をあずかってくれるところはありません。

避妊をする道具はありませんから、女性は子供を次々と生まざるを得ません。 赤子にやる便利な粉ミルクはありません。 便利な紙おむつもありません。

女性が、身を守るためには、有力な夫を見つけるしかありません。

弱い子供はすぐ死にます。 大人でも40歳50歳で死んでアタリマエでした。

そういう社会だったのです。 そして、それが当時の科学技術でできる精一杯だったのです。

モーゼの十戒を再検証

当時の状況を前提にして、モーゼの十戒を再検証します。

十戒(ミックス版)

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと

ここまでは、神についての戒めです。 つまり、当時の習慣「王を神とすること」を禁止しているわけです。 真の神とは、人間でない、太陽、月、星、大地、海などの物でもないとなります。 唯一神、言い換えれば、この世の創造神だけが神であるということです。

では唯一神とは何か、それについて詳しい説明はありません。 でも唯一神は人間や物ではありませんから、 見たり、聞いたり、触ったりできるものではないということは確かと考えます。 それ以上の解釈はここでは止めておきましょう。

  1. 安息日を主の聖なる日として、その日は主を思い、体と心をいたわり休息せよ
  2. 父母を敬うこと

これは、するべき行為です。

  1. 殺人をしてはいけないこと
  2. 姦淫をしてはいけないこと
  3. 盗んではいけないこと

これはしてはいけない行為です。

  1. 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)

これは、言ってはいけないことです。

  1. 隣人の妻を欲してはならない。(他人の妻と交わりたいと願うスケベ心を禁ずる)
  2. 隣人の家をむさぼってはいけないこと(他人の財産を欲しいと願う強欲な気持ちを禁ずる)

これは、心で思ってはいけないことです。

モーゼの十戒から神に関する部分を除くと7項目前後です。 仏陀の八正道や十悪(の私の解釈)より項目が少ないため 見劣りすることは仕方ありません。

モーゼの十戒は、本当に最小限の守るべきことなのです。

イエス様が直接執筆されていない聖書の性質

聖書は、イエス様が、直接執筆されていないため、 仮に間違いがあっても、 イエス様が正しく直すことはできません。

聖書は、イエス様から聞いたものを、 後日、記憶を頼りに、別人が書き起こしたものです。

聞いた人の記憶がどこまで正確なのか、 思い出すときに、 説明しやすいよう、 変形して説明してしまうことが、 あっても不思議ではありません。 書き取る人の主観で書き込むこともよくあります。 表現に文芸的技法をこらしてしまうこともあります。 事実を書いているはずですが、 強調したい事があったり、 誰の視点から物語りたいという意図があり、 脚色してしまうことは、 仕方の無いことです。

嘘を書こうとはまったく意図しなくとも、 文字にするだけで、 イエス様の真意と 微妙にずれが生じていきます。

文字や言葉というものは、 そういうものなのです。

しかし、それでも、書かれた文字、書物という物は、優れたものです。 記憶や口伝だけに頼るよりずっと優れています。

ところで、後世の人々の解釈に間違いがあっても、 イエス様が正しく直すことはできません。

書かれた文章は、読む人の理解力の範囲でしか理解できません。 ですから、いろいろな人がいろいろな解釈を述べることになります。 私も、これから、私流の勝手な解釈を述べることになります。

最終的には、受け手である皆さん自身でどのように感じ受け取るか、 これこそが課題ということになります。

訳本の訳本である日本語聖書の性質

日本語聖書は、翻訳の翻訳の、、、翻訳と考えて良いでしょう。 ですから、原語の意味するところと、ずれてきていても仕方がありません。

できるだけ原典をみるべきでしょうが、私にはまだそれだけの能力がありません。 ですから、翻訳である日本語聖書を利用します。

実は、聖書の日本語訳はたくさん種類があります。 そして、それぞれの訳の表現が微妙に異なります。 文が、欠けたり多かったり、違ったりもします。 2000年前から伝わることですから、仕方のないことです。

それでも、山上の垂訓は、イエス様の直接の言葉に極めて近いと推測できます。 仏教のお経の多くが、お釈迦様が本当に話された言葉ではなく、 何百年も後の僧によるファンタジー小説のような創作物語であることに比べれば、 はるかに判りやすいと思います。

だからこそ、皆さんには、たくさんの種類の訳を、 何度も読まれることをお勧めします。 (以下にリンクで、紹介します。インターネットの力はありがたいですね。) そうすることで、訳した人の意図、書いた人の目的が判ります。 そうすることで、その先にあるイエス様の真意が見えてきます。

次の節には、山上の垂訓の日本語訳を載せますが、これは、 wikisource に掲載されているもの(『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)です。 これを載せた理由は、文に番号がついており、後から解釈をつけるとき説明しやすいからです。 この他には、 新改訳聖書より抜粋(by インマヌエル別府キリスト教会)マタイ5:1-2(ジョセフ・スミス訳),ルカ6:17-19 (by 末日聖徒なんでも帳) ニーファイ第3書12章から14章 (by 末日聖徒なんでも帳) 英文での比較 (by 末日聖徒なんでも帳) などが、見つかります。

山上の垂訓(http://ja.wikisource.orgから転記)

第5章
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
5:29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
5:31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
5:33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
第6章
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。
6:11 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。
6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13 わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。
6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
6:16 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
6:22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
6:23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
第7章
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
7:9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
7:12 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
7:17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
7:24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

以下は、私の山上の垂訓の解釈です。

聖書の表現は、間接的で比喩的な表現が多用されいます。 また、イエス様の表情動作があまり読み取れません。 説教の時間や、記録としての客観性の説明、 肉声を一字一句写し取ったものかどうか、 そういうことが明記されていません。

言葉の表面的な内容が矛盾している項目もありますので、 説教が進むにつれて、前提となる対象者や対象となる設問状況が、 異なるのではないかと推測できます。

ですから、おそらく時間をかけて説教は行われたと思います。 説教は、数回に分けて行われた可能性も十分あります。 質問があり、それに対して回答された可能性も十分あります。

そのため、イエス様の真意を読み取ることは、 直ぐには難しいと感じました。

説教の前部と中部と後部では、状況が異なるような感じです。 何度も読み直して真意を知る必要があります。 私も何回も読み返しています。

緑色の部分は、「山上の垂訓」から拾い出したもの、 あるいは、私が整理・要約したものです。 また、心ですること、言葉ですること、行為ですることを区別してあります。

意味が取りにくいところは、あれこれと私の余計な解釈を加えてあります。

5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。

イエス様から、 心の貧しい人、 つまり、心が満足していない人、悩み苦しんでいる人、不幸を感じている人に向けて、 説教がされました。

「心の貧しい人」とは「この心の卑しい悪人どもめ」という意味ではありません。 「心に悩みを持ち、私のことを頼ってくれた皆さん、 私から精一杯の心を込めてお話をさせていただきます」 と言う意味です。

では、前部(5:1 - 5:16)に出てきた、「なすべきこと」です。 前部では、集まった多くの信者に一般的なお話をされたようです。

義とは、規則・法律のことです。 当然、モーゼの十戒は義に含まれます。 イエス様が、その他の規則・法律を、どこまで含まれるか、私はまだ未調査で判りません。 でも、パリサイ人による律法のための律法、偽善的な規則が含まれることはありません。 偽善については後半で詳しく説かれています。

では、中部(5:17 - 5:26)に出てきた、「なすべきこと」です。 中部では、信者からの質問に答えて具体的なお話をされたようです。

では、後部(5:27 - 7:29)に出てきた、「なすべきこと」です。 後部では、直弟子のような立場の上の者から、 あるいは、命の危険を感じるほど困った者から、 彼らが本当に困ってしまう事について質問され、 それについて、イエス様が熱意を持って詳しく回答されたと推測します。

そしてイエス様は、 命より大切なものがあり、「それは、良い心でいることである」と説かれます。 イエス様の教えから、「本当に困ってしまう事」とは、良い心を失うこと気がつきます

それを伝えたいために、イエス様は言葉を強くして、説教されたと思います。 だから、極端なたとえ話が多く、 凡人には近寄りがたい感じがしてしまいます。 私たちも、直弟子になった積もりで聞かなければなりません。 真意を汲みとれば、 決して実行が難しいことを説かれていないことが理解されます。

まずは、「姦淫」について。

姦淫してはならない。(5:27)(行為) 情欲(あの女を性欲の捌け口として犯したい)をいだいて女を見ることは心の中で姦淫を犯した。(5:28) 目や手が罪を犯しそうになるなら、切り取りなさい。(5:29)

心の中の姦淫は罪であると、イエス様は明言されました。 では、愛する妻と交わりたいとどんな夫も思うが、これは罪なのか、 それについてイエス様は明言されていない、 つまり罪ではないと私は考えます。 また、美しい女性を見ると、美しさにうっとりとしてしまいます、これは罪なのか、 それについてイエス様は明言されていない、 つまり罪ではないと私は考えます。 時には、美しい女性を見ると、相思相愛となり交わりたいと考えてしまいます、これは罪なのか、 それについてイエス様は明言されていないが、 あなたがすでに結婚して妻があるなら罪であり、 そのような空想はすぐ捨て、妻との生活に置き換える必要があります、 あなたに恋人がいるのなら、恋人と先に別れてから新しい相手を求めるべきであり、 あなたに恋人もいないなら罪ではないと私は考えます。 私は、女性がたとえ妻でも単なる性欲の捌け口として犯したいと考えてはいけないということ、 前提として相手の女性との合意が必要であるということ、この二つを考えます。 空想でも姦淫をするなとまとめておきます。

男は、不貞以外の理由で妻を離別させてはいけない。 男は、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯す。(5:32)

他の女が綺麗だから犯したいという理由だけで妻と別れる行為は、 法を守っているふりをしているだけ、ズルであり、してはいけないという意味です。 ズルをするなとまとめておきます。

いっさい誓ってはならない。(5:34)(心)

神に頼れば何でも実現できるはずという甘い考え方を止めなさいという意味と思います。 できもしないことを誓うな、 合理的に考えてできないことを誓うな、 悪事を誓うな、 という意味と思います。 邪心を神に誓うなとまとめておきます。

あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。(5:37)(言葉)

前後関係の説明がないため、解釈がとても難しいところです。 誓いをしない代りに、言葉数を極端に減らせという意味かもしれません。 神からの言葉、つまりイエス様の垂訓を聞き、 良いたとえ話には、「しかり、しかり」と理解を示し、 悪いたとえ話には、「否、否」と理解したことを示せ、 という意味かもしれません。 あるいは、質問者が多弁であり、質問内容が聞き取れず理解されず 聖書に書き残らなかったのかもしれません。 イエス様の回答から推測すれば、 多弁、能弁を戒めているかもしれません。 聞かれたことにまず正確に答えなさいという意味かもしれません。 結果だけをまず正確に述べよという意味かもしれません。 言い訳をすることを戒めているのかもしれません。 多弁の禁止とまとめておきます。

  1. 悪い者に手向かってはいけません。(5:39)(行為)
  2. 悪い者を許してあげる、(5:44)(心)
  3. 暴力を振るうものには、されるままにする。(5:39)(行為)
  4. 告訴して奪う者には、それ以上にたくさんあげる。(5:40)(行為)
  5. 強制してくる者には、それ以上にたくさんしてみせる。(5:41)(行為)
  6. 求める者には与える(行為)(5:41)
  7. 借りようとする者には貸す。(5:41)(行為)

回答内容から、 これは、権力もない、お金もない、体力も無い何も無い非力な庶民が どのように悪人と対峙すればよいかについて、詳しく具体的に説明されたものです。

つまり、力の弱い者は、 悪人が来て物をとれば、くれてやりなさい。 体に対する暴力もさせてやりなさい。 暴力もさせてやりなさいということは、 命もくれてやりなさいということです。

ただし、心はくれてやるなということです。

このくれてやってはいけない心とは具体的に何か、 もう少し先にイエス様の説明があります。

この悪人への対処方法は、 一見できそうもないことのように見えますが、 非力な庶民が無理なくできることは 実は、悪者つまり嵐が去るまで、されるがままにして、 待つだけのこの方法だけです。 こちらが暴れたり抵抗すれば、もっと酷い目に合わされるからです。

反対に、権力があったり、お金があったり、力がある者は、 すでに前部で説明があったように、 「義(規則・法律)を守り」弱い人を悪人から守る必要があります。

ということで、非力な庶民と正義の権力の執行者では、するべきことが違うのです。 そう捉えると、イエス様の説明に矛盾が無いことが良く判ります。 弱者の強悪への具体的対処法悪者も赦す とまとめておきます。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(5:44) (心)

自分を愛してくれる者を愛することはアタリマエ。だから他の人も愛しなさい。(5:46)(心) 自分の兄弟にだけあいさつすることもアタリマエ。だから他の人にもあいさつしなさい。(5:47)(行為) (悪人・異教徒にも平等にしてあげることで)完全でありなさい。(5:48)(行為)

悪人にくれてやっていけない心は、 悪に従う心、悪に対して悪で返事する心です。

つまりあなたが悪に染まることはいけないと イエス様は教えられているのです。

イエス様は、良心(人を愛する心、悪人も愛する心)は決してっして失わないようにしなさい、 悪の手先となってはいけないと説かれました。

イエス様は、敵を愛し、迫害する者のために祈ることを私達に求められているのですから、 前部や中部で説かれたことを悪人にもしなければなりませんから、

と説かれたことにもなります。

あなたは、悪人のためにも良い行ないをする必要がある。 だから、敵を愛せよ、とイエス様は教えられているのです。 だから、迫害する者のために祈りなさい、とイエス様は教えられているのです。

そして、決して心を悪で汚さないこと、 これこそが、悪人の暴力で殺されることよりも大切、 命より大切なことなのです。 決して心を悪で汚さない敵を愛し、迫害する者のために祈れ とまとめておきます。

どのように、祈るとよいのか、考えてみました。 多分、「あなたが天にいますわが父の御旨を行われますように。」 が一番と思います。 次が、「あなたがわたしを赦しててくださいますように。」でしょうか。 悪人の心が落ち着いてから、相手の事情をよく聞いてみたり、 最後にイエス様の事を知っているか尋ねてみることもよいかと思います。

人に見せるために人前で善行をしても、人に見られることで偽善を見抜かれます。 だから、偽善をしてはいけない。(6:1)(行為)

イエス様は、パリサイ人の偽善行為を知り、 悩まされていました。 ですから、ここからは、偽善とは何か、偽善の報いとは何かを説かれています。 イエス様によれば、 偽善は、その場ですぐ報いられるということです。 その報いは、プラスではなくむしろマイナスであると説かれています。 つまり、偽善は、人々に見抜かれるということです。 あなたは偽善者を哀れんでください。彼を、軽蔑してはいけません。

陰で善行をすれば、よい報いが後から来ます。(6:4)(行為)

善行は隠れているときこそ、するものということです。

施しをするときには、ラッパを吹いて他人を集めては、いけません。(6:2)(行為)

これは、儀式としての施しを ド派手に宣伝して、 人を集めてから実施してはいけないという戒めです。 今まで私は、商売をするときある程度の宣伝(ラッパ)は黒字経営のため必要と考えていました。 現代の宣伝広報活動のあり方から偽善を取り去るにはどうしたらいいのでしょうか。 自分の売名行為は結構しているわけです。 例えば、あなたか見ているこのページが一種の売名行為です。 私が偽善をしないようにするには、 自分の売名行為にからめて寄付の宣伝をするな、 このぐらいしか思いつきません。 私自身もっと善行と偽善の境目の研究が必要です。 善行は見せびらかすな とまとめておきます。

人前で祈ると、偽善を見抜かれます。 祈るときには、陰でひっそりと祈りなさい。(6:5)(行為) ことば数多く祈ることは、意味がありません。(6:7)(言葉)

祈りも偽善とならないようにしなさいということです。

私たちに負いめのある人たちを赦しなさい。(6:12)(心) 人々のあやまちを赦しなさい。(6:14)(心)

借金を返さない人、借りを返さない人を赦しなさいということです。 人々のあやまちを許しなさいということです。 インターネットの掲示板に人のあやまちを書き捨てることは止めなさいということです。 人々のあやまちを赦す とまとめておきます。

わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。(6:13)

祈りの文言ですが、日本語として試みの意味がとれません。 他の訳をみたりすると、試みとは、悪魔からの誘惑、つまり悪事のたくらみを思いつくことや、 悪人に出会って凶事に巻き込まれることであることが判ります。

断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな(6:16)(行為)

努力や修行で、陰気な顔つきをするなということです。 努力や修行を陽気に楽しげに喜んでしなさいということです。 努力や修行を我慢できない苦痛を感じるほどする必要はないという意味かもしれません。 努力や修行を楽しく行う とまとめておきます。

宝・富を地上にたくわえるのはやめなさい。(6:19)(行為)

ここからは、宝・富・お金とは何かを説かれています。 現世のお金を追い求めることは止めなさいと説かれています。 金銭・宝物を追い求めるな とまとめておきます。

自分の宝は、天(神の国)にたくわえなさい。(6:20)(心) 神と富とに兼ね仕えることはできない。 (6:24)(心)

つまり心に愛と許しと喜びを蓄えるようにしないさいということです。 私は、神の国は私の心にあるものと思います。 心に愛と許しと喜びを蓄える とまとめておきます。

物質の宝・富・お金は、本当の宝ではないということです。 私見ですが、付け加えて、姦淫で得られる性的快楽も本当の宝ではないということです。 私見ですが、付け加えて、 「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。」から 単なる知識や興味本位の情報も本当の宝ではないと推測します。

自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配するな。(6:25)(心) 体のことで、何を着ようかと心配するな。(6:25)(心) まず神の国と神の義とを求めなさい。(6:33)(心)(行為) そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

神の国と神の義とを求めるとは、何かというと、 神の国が、心に愛と許しと喜びを蓄えるということ、 神の義が、正義が守られることです。

命をつなぐ、食料や、飲み物、衣服より、大切なものがある、 つまり、命より大切なものは、 愛と許しと喜びと正義であると説かれていることになります。 そして、愛と許しと喜びと正義を保てば、 食料や、飲み物、衣服は必要なだけ与えられると説かれています。

厳しく言えば、 食料や、飲み物、衣服は今日与えられた物で満足せよということです。 不足を感じるなら、愛と許しと喜びと正義が足りないということです。 つまり、命より大切なものは、愛と許しと喜びと正義であり、 それは、誰でも心の中でいくらでも増やすことができる。 増やし方が足りないから、 今日与えられた食料や、飲み物、衣服が不足と 感じるのだということです。

あすのための心配は無用です。 今日をしっかり働く必要があります。(6:34)(行為)

物質の宝・富・お金やを求めていない、 姦淫となる性的快楽も求めない、 単なる知識や興味本位の情報も求めない人は、 今日をしっかり働きさえすれば、 必要な食物や衣服は、 神の導きで手に入りますから それで満足しなさいという意味です。 今日をしっかり働く とまとめておきます。

人を裁いてはいけない。裁かれないために。(7:1)(言葉)

どのようにすればよいかを「兄弟の目にあるちり」に喩えて説明されています。 人の欠点を指摘するより、まず自分の欠点を直しなさいという意味です。 もっと積極的に考えると、人の欠点を指摘するなという意味です。 さらに積極的に考えると、人の長所を褒めなさいという意味です。 まず自分の欠点を直す とまとめておきます。

言葉のわからない動物に聖なるものや価値あるものを与えてはいけない。(7:6) (行為)

意味の無い無駄なことをするな、かえって損をするという意味です。 意味の無い無駄なことをするな とまとめておきます。

求めなさい、さすれば与えられる。(7:7)(行為)

良い物を求めなさい、さすれば良い物が与えられる。 悪い物を求めると、悪い物が与えられるということです。 良い物を求め良い物を得なさい とまとめておきます。

人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。(7:12)(行為)

これは、そのままの解釈でよいです。 人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ とまとめておきます。

狭い門からはいれ。 滅びにいたる門は大きく、その道は広い。 そして、そこからはいって行く者が多い。(7:13) 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(7:14) (行為)

努力を惜しまず高い理想を目指しなさいという意味です。 努力を惜しまず高い理想を目指しなさい とまとめておきます。

実(結果)によって彼ら(偽善者・悪人・にせ預言者)を見分けることができるのです。(7:16)(行為)

善人と悪人の見分け方です。 悪人は、強欲な狼なので、 あなたに良い結果(実)をもたらさないのです。 だから、悪人と付き合うときは、警戒しなければいけません。 悪人を見つけたからといって、 悪人に対して「あなたは悪人だ」と言う事は、 危険ですからしてはいけません。 悪人と付き合うときは、警戒 とまとめておきます。

でも、悪人にも愛を注ぐことを忘れてはいけません。

天にいますわが父の御旨を行う者だけが、天国にはいるのである(7:21)(行為)

わが父の御旨とは、この山上の訓戒でイエス様が説明された、 心の持ち方、言葉の使い方、行動の仕方です。

天国とは、当時の人々にとっての常識、 「人は体が死んでも心は生きていつか生まれ変わる」に、 対応した言い方ですが、 イエス様は、死んでも心が生きているとか、 天国というものがどこか遠い場所にあるとか、 地獄がどこの場所にあるとか、 そういうことは、山上の訓戒では、 一言も話されていません。

今の現代でも、「体が死んだら霊魂が残り、 いずれ天国に召されるか地獄に投げ込まれるか」、 という話をする人が後を立ちませんが、 実は、天国と地獄は今ここの現実の世界のことです。 イエス様が説明された正しい心で正しいことことをすれば、 心の中の気持ちが天国にいるように感じられ、 邪悪な心で邪悪なことをすれば、 心の中の気持ちが地獄にいるように感じられる、 ということが、生きている私たちが今の今感じる本当の事です。 ですから、ときどき良い事をして普段は悪いことをしていれば、 どきどきは天国にいますが、普段は地獄で生活しているということなのです。 できるだけ良い事をして、天国にいる時間を長くしましょうということです。

その日には、(7:22)

「その日」という言葉は、当時の人にとっては、 そのとき信じられていた「最後の審判」のことを指すと考えるべきですが、 なぜ、最後の審判と言われなかったと、皆さんは思いますか。

ひとつに、イエス様は宗教的な脅迫、脅しをしたくなかったのだと思います。 叱られるのは嫌だ、命・霊魂を奪われるのは怖い、祟られるのは怖い、 という恐怖心につけこんで、道徳を押しつけることを、避けておられます。 「喜びなさい(5:12)」と言われたように、 良い事を楽しくできるようにしてもらうために、 「その日」とだけ、言われたのです。

また、その日がいつかも、言われていません。 「彼らはその報いを受けてしまっている。 (6:2)」からも、判りますように 実は、その日は、私たちが生きているこの毎日なのです。

お金や物や性的快楽は、天国と関係ないのです。 私が思うに、天国とは心の中にあり、 それは、愛と許しと喜びを蓄える場所です。 だから、心に愛と許しと喜びを蓄え、 愛と許しと喜びは、またいくらでも考えることで 作り出すことができるので、 あなたの言葉と行為に乗せて、 人々に配ることができます。 こうして正義を実行することで、 心の中の天国は広がり続けるということです。

天国の門は、狭いかも知れないが、いつも開いているのです。 入るも自由、出るも自由です。 入るも簡単、出るも簡単。 天国の門は心にあり、心で思えば入れますし、心で思えば出れます。 通行手形は、愛と許しと喜びです。 いつも愛と許しと喜びを考え天国にいよう とまとめておきます。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、 岩の上に自分の家を建てた賢い人に例えることができます。(7:24)(行為)

悪い考えや悪いことはしないで、 良い心で良いことをしたという結果を残しなさいという意味です。 山上の垂訓の最後の励ましです。

命より大切なものとは何か

2012年の現代日本では、 命より大切なものは何かなんて 問う人は少ないでしょう。

イエス様の教えでは、 命や日常の稼ぎより大切なものは、 正義が守られること、 心を愛で満たすことです。

つまり、 心に愛と許しと喜びを蓄える ことです。

命を脅かされる目にあっても、 日銭を稼ぐことに苦労しても、 心は愛で満たすことが 大切だと説かれています。

心は愛で満たすことは、 仏教では、悟りの心理状態 「四無量心」であり続ける ことに相当します。

でも、仏陀の教えでは、 命より大切なものが 何であるか具体的に 出てきません。

テクニックとしての 八正道・十悪・無財七施があり、 悟りの状態を示す四無量心の 説明がありますが、、、。

お釈迦様が命を狙われる危険に 晒されたことが 無い(少なくとも私は知らない)からとも言えます。 そして、お釈迦様の説法を解説してきたこの私も、 そこまでの命の危険を知らないということです。

この点でイエス様の方が 厳しい状況・立場に置かれておりました。

実際、イエス様は無実の罪で処刑されてしまいました。 処刑のときにも、 心は愛で満たされており、 身をもって「命より大切なもの」があることを証明された訳です。

つまり、私のように死の恐怖におびえる者に、 その克服の方法を示された訳です。

イエス様の教えでは、 お金に拘ることは 止めなさいといわれています。

お釈迦様の教えでは、 人々に惜しみなく施しなさい とされています。

つまり、大切さの順序は、 慈愛 > 命 > 金 ということです。

おまけ

お釈迦様とイエス様の教えの対比表

お釈迦様とイエス様の教え、十戒と山上の垂訓だけですが、これの対比をしてみます。 優劣をつけるためではありません。 尊い教えの特徴をよく理解することで、 小人である自分の状態、環境に合わせて、 より早く幸せになる方法を見つけるためです。

項目お釈迦様イエス様寸評
神を語らず 唯一神 根拠の無い水掛け論が不要
法則 諸行無常、すべてのものは変転する、生まれやがて滅び死ぬ。
諸法無我、この世の成り立ちを決めているもろもろの法則に、我つまり個人の欲望が入り込む余地は無い
神の決め事、万物が従う法則が、善人にも悪人にも平等に適用される 絶対法則を認めている
人間の目標 涅槃寂静 悟りの状態(四無量心と八正道の実践)になる 心に愛と許しと喜びを蓄え、正義を行う 四無量心と愛と許しと喜びは同義、八正道の行いも正義と同義

唯一神による効果を考えます。 まず、人を神としなくて済むということです。 人を神とすると、間違いや争いごとばかりが起きてしまいます。 唯一神なので他の神はありません。 ですから、どの神が強いとかより正しいとか、 根拠の無い水掛け論を延々とする必要が無くなります。

唯一神は、物や人では無いから、 五感で見たり聞いたり触ったりすることができない、 となります。 唯一神は、物や人では無いから、 実は偶像崇拝することは不可能です。 十戒の偶像を作ってはならないという意味は、 人や物の(よく黄金・宝石で作られるので無駄となる)偶像を神としなくて済むということです。

唯一神は、人智を超えているため、 言葉でなんであるかを言い尽くすことは、 難しいことになります。 少なくとも私にはうまく説明できません。

イエス様の山上の垂訓でも、唯一神について説明はありません。 イエス様には判っているから説明の必要がないというより、 言葉で説明できないことであり、説明すると嘘になるから、 説明されなかった、と私は理解しています。

イエス様の山上の垂訓で出てきますが、神の力により、 善人にも悪人にも平等に太陽が照らされているとされています。 つまり、この世では、神の決め事、つまり万物が従う法則が、 正義として、善人にも悪人にも平等に、 絶対的に行われているという事です。

十戒の神の名を徒らに取り上げてはならないこととは、 真意がわかりにくいことですが、 山上の垂訓で出てきた祈りの方法、誓いの方法からすれば、 人前で神に祈り善人を装うな、 異邦人のように、くどくどと祈るな という意味と思います。

また、哲学的問答になりますが、 唯一神に名前をつけてしまうということは、 他のものと区別するということであり、 唯一で無くなる恐れがあるということで、 怖れ多いから、それはしたくありません、ということです。

道徳律として、するべきこととを比較します。

お釈迦様イエス様
四無量心(慈悲喜捨) 心施 人々へ喜びと楽しみを与え、人々の苦しみを取り去る 心を清くしなさい。(5:8)
他の人も愛しなさい。(5:46)
自分の宝は、天(神の国、実は心の中)にたくわえなさい。(6:20)
慈無量心 人々に楽しみと喜びを与える 人と仲良くしなさい。(5:23)
人と仲良くすることは、神への祈りより優先しなさい。 (5:24)
悪いことをして訴えられる前に、(謝罪して)、相手と仲良くしなさい。 (5:25)
悲無量心 人々の苦しみに同情し、それを取り去る 悲しい人たちを、慰めてあげなさい。 (5:4)
哀れみ深くしなさい。(5:7)
悪い者を許してあげる、(5:44)
私たちに負いめのある人たちを赦しなさい。(6:12)
人々のあやまちを赦しなさい。(6:14)
敵を愛せよ、迫害する者のために祈りなさい。(5:44)
喜無量心 人々の喜びをともに喜ぶ 喜びなさい。(5:12)
捨無量心 人々に惜しみなく施す
房舎施 宿の無い人を我が家に泊めてあげる
神と富とに兼ね仕えることはできない。 (6:24)
弱者の強悪への具体的対処法
悪い者に手向かってはいけません。(5:39)
暴力を振るうものには、されるままにする。(5:39)
告訴して奪う者には、それ以上にたくさんあげる。(5:40)
強制してくる者には、それ以上にたくさんしてみせる。(5:41)
正見 人々と物事の原因と結果を正しく見る 義(規則・法律)を守りなさい。 (5:6)(5:10)
人を裁いてはいけない。裁かれないために。(7:1)
まず自分の欠点を直しなさい
実(結果)によって彼ら(偽善者・悪人・にせ預言者)を
見分けることができるのです。(7:16)
悪人と付き合うときは、警戒しなさい。
正思惟 喜び・楽しみ・感謝、同情・慰め 喜びなさい。(5:12)
断食をする時には、偽善者がするように、
陰気な顔つきをしてはいけません(6:16)
正語 優しい言葉で正直に話す
眼施 いつも優しい目つきをする
和顔施 おだやかな笑顔を絶やさない
言施 暖かい思いやりの言葉をかける
柔和でありなさい。 (5:5)
他の人にもあいさつしなさい。(5:47)
正業 人々の幸福のためになる職業に就く 平和を作りなさい。(5:9)
求めなさい、さすれば与えられる。(7:7)
良い物を求め良い物を得なさい
人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい
正命 自分、家族、人々の命を大切にし親切にする
身施 困った人を見たら助けてあげる
牀座施 弱い人、尊敬するべき人に席を譲る
父母を敬うこと(十戒)
求める者には与えなさい(5:41)
借りようとする者には貸しなさい。(5:41)
人々(悪人・異教徒を含む)のためにも良い行ないをしなさい。(5:16)
正精進 高い目標を定め、清い方法で前進する 狭い門からはいりなさい。(7:13)
正念 いまするべき仕事に集中する あすのための心配は無用です。
今日をしっかり働く必要があります。(6:34)
正定 常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいる 自分の命のことで、何を食べようか、
何を飲もうかと心配するな。(6:25)
体のことで、何を着ようかと心配するな。(6:25)
まず神の国と神の義とを求めなさい。(6:33)
安息日を主の聖なる日として、
その日は主を思い、
体と心をいたわり休息せよ(十戒)

道徳律としてしてはいけないことを比較します。

お釈迦様イエス様
殺生 殺人、むやみに生き物を殺すこと 殺人をしてはいけないこと(十戒)
人を殺してはならない。(5:21)
偸盗 泥棒、盗み、ズル 盗んではいけないこと(十戒)
ズルをするな(5:32)
邪淫 妻や夫そして家族を苦しめる性行為 姦淫をしてはいけないこと(十戒)
隣人の妻を欲してはならない。
(他人の妻と交わりたいと願うスケベ心を禁ずる)(十戒)
空想でも姦淫をするな(5:28)
男は、不貞以外の理由で妻を離別させてはいけない。
男は、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯す。(5:32)
嘘 嘘をつくこと、悪事の隠蔽 偽証してはいけないこと
(嘘を言ってはならない)(十戒)
邪心(できもしないことや悪事)を
神に誓ってはいけません(5:34)
二枚舌 二人それぞれに反対のことをいうこと
悪口 汚い言葉、人の悪口、陰口 人を直接、面前で罵倒したり貶してはいけない。(5:22)
悪人に対して悪口を言ってはいけない
無駄口 必要の無い余計な話、心にもないお世辞 多弁の禁止(5:37)
貪る 飽きることなく欲しがる強欲や嫉妬 隣人の家をむさぼってはいけないこと
(他人の財産を欲しいと願う強欲な気持ちを禁ずる)(十戒)
宝・富を地上にたくわえるのはやめなさい。(6:19)
神と富とに兼ね仕えることはできない。 (6:24)
怒る 怒り、怖れ、怨み、憎しみ、苛め 腹を立てては、いけない、怒りは、いけない。(5:22)
悪人に対して怒ってはいけない
邪見 真実を認めず
愚かな間違い・迷信を信じること
偽善
人に見せるために人前で善行をしても、
人に見られることで偽善を見抜かれます。
だから、偽善をしてはいけない。(6:1)
陰で善行をすれば、よい報いが後から来ます。(6:4)
人前で祈ると、偽善を見抜かれます。
祈るときには、陰でひっそりと祈りなさい。(6:5)

如何ですか、お釈迦様とイエス様、ほぼ同じ内容の道徳を私たちに説明されています。

お釈迦様は、時代が古く、数百年も教えが口伝されたらしいこと、 今あるお経の多くが後世の創作で、 お釈迦様の教えから飛躍した ファンタジー小説のような内容が多数であり、 その大掛かりな舞台設定の陰に隠れて、 もともとの教え、八正道や十悪、については、 項目名だけが伝わり、 詳しい内容が現代に伝わっていません。 私の八正道や十悪の解釈が、みなさんの参考になれば、と願います。

イエス様の山上の垂訓の方は、 イエス様から大勢の方に直接話され、 推測ですが実生活からの素朴ですが深刻な質問に、 具体的に答えられていること、 お釈迦様より時代も新しいため、 新約聖書として文章で残り、 しかも世界中の言葉に翻訳されていることが、 特徴と思います。

第三部 第二十六章 忍耐と頑張りを楽しくする

日本語には、「忍耐」 「我慢」、「辛抱」、そして、「頑張る」と言う言葉があります。 そして、挨拶代わりに「頑張って」と声をかける人が多いです。 私は、「頑張って」と声をかけずに「楽しんで」あるいは「気をつけて」と声をかけるようにしています。

辞書を引けば、

と出ています。

つらいこと、苦しいことは、四苦八苦で説明しましたが、現代風に再度整理してみます。

と分かれます。

人生では、毎日が忍耐・我慢・辛抱です。 苦しみを拡大する方向、つまり、恨み・憎しみを残す形で忍耐してはいけません。 忍耐では、十悪を犯さないよう十分に注意してください。 苦痛を心静かに受け止め、受け流すようにしましょう。

また、欲しい欲しいと強欲に囚われる形で、頑張りをしてはいけません。 皆さんは、スポーツ観戦のとき、 金が欲しいとか人気が欲しいとか口外しながらのプレーと、 好きだから楽しいからのプレーでは、 どちらに好意を抱きますか。 頑張りを、辛さの代償を求める気持ちで行うと、卑しさが出てしまいます。 代償を求める頑張りは、どこか卑しいので、他人から見ても美しくは見えません。 したがって人気が出ず愛されることはありせん。 つまり成功から遠のく訳です。 第一の気持ちは、好きだから楽しいからであるべきです。 金が欲しいとか人気が欲しいは、弱めて、 金があれば嬉しいとか人気があれば嬉しいぐらいにしてください。

どんな忍耐・頑張りにも、喜び、楽しみを見出し、感謝しながら、あるいは同情・慰めを伴ってできると最高です。 それが苦しみを感じないで、成果を得る近道です。
これまで、説明して来た八正道に適うようにしましょう。

第三部 第二十七章 人から認められたい

心理学では、人間が感じる「人から認められたい」という欲求を承認欲求と呼びます。 これから話すことは、私が普段から感じ考えていることですから、 心理学の用語としての承認欲求の意味合いとは異なる説明になると思います。

まず承認欲求を相手で分類すると、

となります。

目上の人とは、母親や父親であり、学校の先生であり、 職場の上司であり、偉いお坊さんや、牧師さんなど神仏の代理人です。

人間は、自分が絶対に追いつけない人、自分が尊敬する人から褒められたいのです。 人間は、自分が尊敬する人から褒められるととても嬉しく幸せな気分になります。 つまり、人間には、ボス・親分に支配されたいという願望、従属欲があるのです。

褒めて欲しいという願望が強すぎると、あなた自身も周囲も困ります。 まずは、成果・良い結果を出すために、心を落ち着かせ集中して取り組むことです。 良い結果が出ても手柄をいきなり自慢せず、良かった良かったと喜ぶだけにしておきましょう。 自慢されてしまうと、目上の人は褒めたくなくなります。 褒められた時は、「あなた(目上の人)の助言のお陰です」と感謝を表しましょう。

私も含めてですが、 同僚や目下の者から褒められても嬉しくないという人が大多数です。 でも、同僚や目下の者から褒められたときこそ、 自分の度量の大きさを示せる大切なときです。 「褒めていただいてありがとうございます。」 と最初に言えれば、十分かと思います。 「そんなことございません。」と ヘタな謙遜は、現代では不要かと思います。

同僚とは、兄姉だったり、学校の級友だったり、職場の同僚だったり、 遊び友達だったり、趣味仲間だったり、自分と対等に口が聞ける人たちです。 日本国憲法にもあるので、普通は自分の妻や夫を対等の関係と考えている人が多いと思います。 人間は、そういう友人から無視されたり疎外されることなく、 仲間として認めて貰いたいということです。

私もそうですが、夫婦、兄弟姉妹、友人とは、 周りくどい挨拶は控えめにして、 率直に思ったことを言い合いたいのではありませんか。 その方が、隠し事もなく、大切にされている感じがしますから。 それでも、「親しき仲にも礼儀あり」とよく聞かされたように、 一線を超えないように自分の言葉に注意しましょう。 私は、自分の弱点や肉体的欠点に当たる言葉を相手に無頓着に使われると、 ピリピリ感じてしまいます。 そのピリピリ感は、あなたの心の中に、綺麗な花が咲いていれば、 余裕で流して捨て去ることができます、でも、あなたの心の中が砂漠だったら、 反感を感じて言い返すか、態度が悪くなってしまいます。 いつも心の中に、綺麗な花を沢山咲かせておき、 それを思いやりの言葉として相手に送りましょう。 相手もあなたと同様の人間ですから、あなたが思いやりのある綺麗な言葉で話すことで、 相手を大切にしていることが伝わるのです。

詳しく観察すると、この同僚にも、人間は序列を付けています。 人間の心理は、微妙ですから、周囲の状況で、この序列が変化します。 夫婦で買い物に行くと、デパートでは、妻が優勢となり、電器店では夫が優勢となります。

目下の者とは、自分の子供だったり、弟や妹や、学校の後輩、 職場の後輩や部下などです。 よくある例として、妻や夫を目下の者と考えている人がいます。 人間は、目下の者の全員から、尊敬され、ちやほやされたいのです。

人間は、目下の者が言う事を聞かないと、不機嫌になります。 人間は、目下の者が逆らうと、「自分より弱い奴が何を言う」ということで、怒り攻撃しだします。 これが、人間にある人を支配したいという支配欲です。

支配欲をむき出しにして、目下の者をぞんざいに扱う、 つまり乱暴な言葉で命令すると、後で痛い目に会います。 目下の者は、あなたから褒めてもらいたいのですから、 まず褒めてから、指示をすることです。 また、まず褒めてから、弱点を改善するともっと良くなると指摘することです。

よくある例ですが、日本の学校の部活動では、 試合で優勝するぐらいの実力が合っても練習にあまり来ない者より、 試合には全く勝てませんが毎日来た者ほど、先生や先輩から褒められます。 同様に、日本の会社では、仕事はまったく成果がでないのですが、 残業する者ほど上司から高い評価を得る場合が多いと聞きます。 これは、先生や先輩、上司に実力がなく業績も無いときに、よく起きる現象です。 ちっさい人物が、先生や先輩、上司であれば、ほぼ確実にそうなります。 ちっさい人物ほど、形式的な上下関係を重視し、 目下の者であるあなたを支配下に置きたいのです。

日本には「能ある鷹は爪を隠す」という諺があります。 この意味は、 「本当に能力のある人は、実力のない上司先輩から睨まれないように立ち回り、しかも成果を上げる」 ということです。 今一度、八正道十悪を確認して、あなたの行動を見直ししてください。

目上の方に丁寧な言葉で話すだけでは、うまくいかないこともあります。 許可や承認を得るには、相談を持ちかけ指導を仰ぐ方法が好ましいと思います。

目上の人、同僚、目下の者の区別は、あなたが勝手にしていることです。 相手のランク付けとあなたのランク付けが違うことは常にあります。 相手が小さな人物であればあるほど、 あなたからどのように思われているかを気にしています。 だから、あなたは、できるだけ目上の方のように尊敬してあげる、 あるいは少なくとも大切な友人のように丁寧に扱いましょう。

犬を飼うと、犬は人間の家族と自分の間で序列を作るといいます。 これは、犬の本能と言われています。 犬をしっかり躾けるとは、この序列、人間より犬のオマエは下、を憶えさせることです。

承認欲求も突き詰めると序列を作ることであり、序列の確認行為なのです。 承認欲求が人間の本能なのか、家族、社会の影響であるのか、 断定的結論は出ませんが、承認欲求の性質を理解すると人生がうまくいくことは確かです。

第三部 第二十八章 若い人へ

今(2014年)の日本の若い人、若者は、昔の若者(1945-1990)よりずっと大人。

そんな日本の若い人に、敢えて言ってみようかと思うこと。 要するにお節介。

努力と忍耐を楽しむように

昔から、人生の成功者、幸せを掴んだ人は、努力と忍耐を楽しんだ人でした。 偉人伝を読んで尊敬できる人を探そう。

今ここにある幸せを目一杯楽しもう

幸せは探し求めるものではなく、今、心に幸せの花が咲いていることを感じること。 幸せ上手になれば小さな幸せも大きく感じられます。

手に職をつける

あなたの生活の糧、収入を得られるように、手に職をつけましょう。 何か一つの分野は、専門家レベルを極めることが幸せとなります。

今の日本では、仕事内容によって賃金が決まります。 いい仕事に就くには、高い能力を求められます。 努力と忍耐を楽しむことです。

給料だけで暮らす

自分の収入だけで暮らしましょう。経済的に幸せになる最初の一歩はこれだけです。 財産があり、利子や配当があるならソレをどう使おうとあなたの自由です。 ただし、自分のお金を稼ぐ実力=給料がどれだけか客観視しておきましょう。

お金は借りない

今の日本で、銀行や他人からお金を借りては絶対にいけません。 お金が必要なら、爺婆両親の脛を思っきり噛じりましょう。 爺婆は年金生活で潤ってます、 その年金を払っているのはあなた方若い人ですから、 噛じられる爺婆も嬉しいですから、 爺婆を噛じってOKです。 爺婆両親にお金を恵んで貰えないないなら、贅沢は諦めましょう。 爺婆両親兄弟もなく、財産もないなら、市役所に相談して生活保護を受けましょう。

家は買わない

爺婆両親の家に住みましょう。 もし収入が沢山あるなら、借家にしましょう。 現金で家を買える程あなたがお金持ちならなら買いましょう。 人口減少している日本では家は余ってきます。 つまり家の値段はどんどん安くなります。 買う必要はありません。

お金は自力で増やそう

お金の増やし方は、まず第一に勤労です。 若い元気な内にしっかりと働きましょう。

お金の増やし方の第二は、貯金です。 まず、年収分を貯金してください。

でも銀行に預けても利子がつきません。 だから手に職がある人で、年収分の預金がある人は、 当面の生活に余裕があるから半分だけ投資をしましょう。

投資で一番は株式です。ただし、日本の株式とはかぎりません。 投資の仕方は学校では教わりません。 投資の仕方は、証券会社のセミナーで聞いて納得しているようでは、はっきり言って勉強不足です。 投資でゼロから大金持ちになった大富豪、ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツの真似をしてください。 ビル・ゲイツは最初はマイクロソフトを起業して富豪になりましたが、 ここ10年は投資で世界一の大富豪をキープしています。

ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツの投資の仕方は、 「不況になって株価が下がりきったら、優良企業の株式を買う」というだけです。 買った株式は、値段が上がるだけなのでそのまま保持します。 もし、その企業の先行きが怪しくなりそうだったら、株式を売却します。

食べ過ぎず運動する

健康を維持するには、食べることと運動に少しだけ気を使います。

第一に食べ過ぎないこと。 特に、揚げ物の量は減らしましょう。 新鮮な物を食べましょう。 肉や牛乳を少なくして、米、豆類、野菜を増やします。 肉は、脂身や霜降りを避けて赤身にしましょう。

食べたら適度に運動しましょう。 簡単なことは、歩くこと、なるべく多く速く歩くことです。 また、ダンスや歌を唄う、楽器を演奏するも集中すると運動になります。 仕事で頭を一杯使うことも、カロリーを消費します。

友達を選ぶ

自分が幸せになれる友達だけと付き合いましょう。 幸せにしてもらえたら、感謝を忘れずに言って伝えましょう。 また、あなたにも友達を幸せにしてあげるという気持ちがないと、相手に見すかされますよ。

好きでもない友達は、実は友達ではありません。 友達が多いことは褒められたことではありません。 少ない友達を大切にしてください。 また、孤独に耐える精神力も大切です。 困ったときは、爺婆両親兄弟を活用して下さい。

危険な人には、近づかないこと、逃げることが肝心です。 万一危険な人に絡まれたら、嵐が過ぎ去るまでじっと耐えるしかありません。

金を使わない趣味を楽しむ

あなたと家族の最低限の生活を壊さない程度に、趣味を楽しんでください。 安く上げる趣味は沢山あります。 自分の財力に合ったことをすればそれでいいのです。

歌や楽器の嗜み、ダンスなど身体一つでできるものはたくさんあります。 友達と楽しむ、家族と楽しむ、楽しみ方はいろいろあります。

借金でなく自分で稼いだ財産があれば、どしどし贅沢三昧してください。 世の中のためになりますから。

避妊は必ずする

避妊はしっかりしましょう。 無責任に子供を作ってはいけません。 親としての責任は、あなたが死んでも永久につきまといます。

子供は褒めて育てる

子供を産もうと決心するには、育て切るだけの覚悟が必要です。 たとえ、どんなに財産があっても、時間がないなら子供を産んではいけません。

夫婦で子供を育てるなら、片方に子育てをお任せして、 片方がお金を稼ぐという役割分担が、庶民にとって効率的です。 ただし、一人の収入で三人、四人が生活するので、質素倹約の生活となります。 それが我慢できないなら、子供を産む前に少し考えて協力者を探してください。

父親が食べ物を集めてきて、 母親が自分で自分の子供を育てるということは、 たとえ質素倹約でも、 人間という生き物として最高に贅沢な生き方です。 この生活をするためには、夫婦がともに納得できていないといけません。

夫婦二人で仕事を持ちながら、子育てを手抜きする方法を考えるなら、 できるだけ、爺婆両親を活用して下さい。 昔ながらの大家族の生き方です。 これも幸せな生き方の例です。

子供を褒めて育てる、これが最上の方法です。 でも難しい、小言をいったり、叱ったりばかりになりがちです。 だから、まず努力した気持ちを褒める、努力の行為を認める、そして成果・結果を褒める。 もし叱ったら、必ず抱きしめて、スキンシップが言葉以上に効くこともあります。

小中学校の再復習

あなたの子供を賢くして、しかも塾と予備校の学費を削りたいなら、 あなた自身が、子供の成長に合わせて小中学校の再復習をしてください。 勉強だけでなく、スポーツや音楽も同じです。

あなたは、子供の前で教科書を上手に朗読して子供に聞かせてあげなさい。 あなたは、子供の前で教科書を暗記して見せてあげなさい。 実際に親ができることを見て、子供は自分もできると確信します。 あなたができれば、子供もできるのです。

もし、小中学校の問題でわからないところがあったら、 夫婦や職場、爺婆両親を活用して教わって下さい。 あなたは、昔できなかったところが、できるようになって、 頭が良くなります、だから仕事での成果も上がります。

若者党に投票せよ

選挙に行って投票することは、あなたの支払う税金の使い道を指定することです。 税金を取られるだけでいいなら、選挙に行く必要はありません。 とられた税金を取り返したいなら、あるいは助けたい人に配りたいなら、 選挙に行くことです。 若者党と名乗る党はまだありませんが、 なるべく自分と「心の年齢」が近い人を選びましょう。

道徳を比べて知る

世の中には、色々な考え方があります。 とれが正解でどが間違いと言い切れないことがよくあります。 ここに書いてある話も、受け取る人それぞれで感じ方も違うし、 これは間違いと指摘されることも当然あります。

だから道徳を比べて知る学問をお勧めします。 それぞれの意見に長所と短所があることが、 比べることではっきりとしてきます。

私が、仏陀の教えの真髄を簡単に表にまとめたものは、これです。

第三部 第二十九章 嫉妬から身を守る

自分は男なので、男の立場からだが、、、

嫉妬とは

嫉妬とは、男女の恋愛感情での嫉妬をまず考える人が多いが、 男同士の嫉妬なら、出世競争の嫉妬がある、 (対等の仲間内からの一人出世が原因であり、周囲から抜け駆けに見えてしまう)、 女同士の嫉妬なら、どちらが綺麗で男の気を引けるかという嫉妬がある。

羨ましいという感情は、嫉妬の始まりであり、 この感情が強くなり、妬み・嫉みとなりイジメにつながる。

男が男に嫉妬するとは、同僚や「アイツ」と呼ぶライバルに対する嫉妬である。 つまり、男の敵は、敵軍の将やお金持ちであり、また味方の同僚である。

自分の妻の言、「女の敵は女」。 想像するに、女は男よりずっと本能的に個人主義であり、 自分を養う男の意識対象が、 彼女自身からより美しい別の女あるいはより若い別の女に移ることを恐れ怒り嫉妬する。

今は男女平等の時代、男から見れば、女が男の仕事場に進出してくる時代。 男社会の嫉妬のルールに女も晒され、仕事ができる女は男から疎まれる。

また、私は、女の集団に男が入ることはまだまだ難しいはずと想像しているのだが、 保母が保育士、看護婦が看護師、スチュワーデスがキャビンアテンダントと呼ばれて久しいが 、実態はどうなっているのだろうか。 私には、女の集団に男が入るときは男とし振る舞わずオネエとして振る舞うことが周囲にうまく溶けこむ方法と思う。

生物としての本能

現代生物学のテーゼ「生命の目的は、自身の遺伝子を子孫として残すこと」 このテーぜから導かれる本能で生きる野性的な人間の男の繁殖戦略は、 できるだけ多くの女に子を産ませること、つまりは、 女の優秀性は二の次で交渉する女の人数が第一優先となるはずだが、実際は違う。

生物学的には、どうか知らないが、 オスである自分の実感から、人間の男は季節を問わず一年中発情期である。 (哺乳類の多くは春に発情すると言われている、例えば猫がそう) 人間の女はいつ発情期であるのか女自身も明確には判らないそうだが、 これは男の生物学者の話なので女の真実は不明である。

現代日本で一夫多妻を敢行するためには、 男にとって感情的・道徳的・法律的・経済的な困難さが伴う、 ごくごく普通の日本人男性にとっては、 「好みの顔立ち体つきで健康で優しく賢く貧乏に耐えられて 姑と折り合いをつけられる一人だけの妻」を 望むことが現実的な戦略となる。

本能で生きる野性的な人間の女にとっての繁殖戦略は、 できるだけ優秀な男一人を確保し、生活の保障をさせて優秀な子を適度に生むこと。 やはり女にとって妊娠・出産・育児は必ず起きる現象であり重い。

女の野生本能は優秀な男一人を確保することであるから、 理想の男と巡りあうチャンスは必然的に少くなり、 たとえ巡りあってもその理想の男をつなぎとめておくことは困難であるから、 (つまり理想の男ほど他の女にモテるから浮気されやすいのである)、 結果として女の嫉妬心が強くなり、その攻撃は相手の女へ向けられる(女の敵は女)。

女は自分と子供の一切の生活の保障があれば、 (具体的には巨額の手切れ金を男から貰えれば)、 男と別れても経済的に問題はないが、 平均的な現実がそうでないから生死の問題となり、 男と簡単に別れるわけには行かない。

子を産みすぎると妊娠中・育児中に男に逃げられる確率が高くなるので悩ましい。 その男が他の女にちょっかいを出させない有効な手段が必要となる。

現代日本の一夫一妻制は、妊娠・出産・育児を生物の本能として役割分担する妻にとって 女を守る大切なものであり、ごくごく普通の男にとっても納得・妥協できるものである。

現代では避妊技術が完成しているので、ただ子供を産まないという決断をすれば、 女にとっても性交渉で男と対等に振る舞えるのだが、 女が本能で生きる男のようなフシダラな振る舞いをしたとしても、 避妊技術が完成してからわずか半世紀未満であるため、 女の中に眠る野生の本能、嫉妬心は無くなっていないはずと推測する。

脳の構造から

脳は、三層構造である。

最下層の第一層は、食欲、自己の縄張り意識、原始の性欲という原始的生命の欲望を司る。 その上の第二層は低級な哺乳類までの層で喜びと快楽、怒り、嫉妬の感情の層であり、 発展した性欲、家族の縄張り意識もここで発揮される。 感情は顔の筋肉と直結しているから感情はすぐ表情に出てしまう。 感情は言語にも直結しているので、喜怒哀楽は簡単に声になって出てしまう。 最上位の第三層は、高度な哺乳類の層で、視覚神経と聴覚神経と運動神経が高度に発達している。 さらに人間だけには文字と理性があり、理屈を考え言葉を話すのだ。

感覚の情報は、第一層、第二層、第三層にほぼ同時に並行して伝達される。 相手の表情と声が目と耳から入り、第一層と第二層と第三層で、 それぞれの本能が反応してしまい、 同時に並行して表情筋と声帯にも伝えられてしまう。 だから、理性の制止が効かずに表情と声として出てしまうのだ。

外部からの情報に対して、表情と声を出すことを抑える、沈黙の練習が必要なのだ。 「沈黙は金なり」である。

兄弟姉妹の間で嫉妬が生まれる

親の愛情を巡る争いで兄弟姉妹は互いに敵であるから、嫉妬を招く。

職場で嫉妬が生まれる

職場では、男の敵(敵という意味は嫉妬の対象になりうるということ)は同僚であり、 女の敵は常に女だから、 つねに全員が互いに敵であり牽制しあっている。

このため職場で上司が誰かを褒めることは、嫉妬を招くことになる。 この嫉妬を正常な競争心に変換できればいいのだが、、、、。

妻や彼女の嫉妬から身を守る方法

他の女の話は妻の前で一切しない。

妻の前では、女なら、母でも、妹でも、テレビの芸能人でも一切話をしないこと。 もし、しなければいけない状況なら、対象の女をいっさい褒めないこと。

仲間からの嫉妬から身を守る方法

谷沢永一さんの 『人間通の喧嘩教育論』からヒントを得て

仲間の嫉妬、、ちょっと面白くない、ちょっと腹が立つ程度の感情は、次々と伝染してやがて仲間全員に感染してピークを迎える。

仲間からの嫉妬は、このピークのタイミングで、その嵐を堂々と「さあ来い」と毅然と受け止める、具体的には、公開の場で、仲間だけがいて上役がいない場で、全員に一発殴らせる、文句を云わせる、そして決してこちらから仕返しをしない。仕返しをしないことが、仲間達に負い目を負わせ、借りがある状態にさせてしまうのだ、だからもう表立って嫉妬されない。

逆に逃げたり弱々しい意気地なしの態度でいると、強く殴られたり攻撃される、いつまでもイジメ(虐め)られるので逆効果なのだ。

世間から注目を集めれば必ず嫉妬される

日本のニュースでは、常時誰かが悪口を言われで個人攻撃されイジメられている。 逮捕されるような罪を犯してもいなのに、、、ナゼ、、、。

嫉妬されないように予防線を張ること、事前の服装・表情・受け答え練習が大切なのである。

嫉妬してくる輩は必ずいるので、マスコミ対策として、嬉しさを自分の自慢で表現しないこと、嬉しさを感謝の気持ちで表現するだけにして、客観的事実を淡々と言うに留める、記者会見でのファッションは極力地味にする。

悪口は悪徳であるにもかかわらず、マスコミの現状は、嘆かわしい限りである。

ニュース作成元と配信・放送会社は、注目を浴びることで利益を得る仕組みのためどうしても嫉妬心(心の中の地獄の火炎)を煽る報道になる。商業マスコミとは全部そういうものだ。

ニュース文面は直接的な悪口でなくとも、それを誘導する形になってしまうのが商業マスコミの本能である。

だから、私の夢の改善案は、ニュース放送は、すべてスポンサー無しとしなければならない、 匿名での誹謗中傷は、直ちに削除可能と法律で定めることである。

自分が嫉妬しないために

嫉妬の格言

感情は絶対的である。そのうちでも嫉妬はこの世で最も絶対的な感情である。 (ドストエフスキー)

幸せの入り口に、嫉妬が待ち伏せしてこれを襲う。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

子供は、嫉妬の中で育つと、人を妬むようになる。(ドロシー・ロー・ノルト)

人は自分に自信のないとき嫉妬する。(J・マーフィー)

嫉妬は損失、欠乏、悲惨をあなたに引きつける心の毒素である。(J・マーフィー)

富を手に入れようとするとき、多くの人々を大きくつまずかせる障害物は、ほかの人の富に嫉妬したり敵意を持ったりすることです。(J・マーフィー)

才能と意志の欠けているところに、いちばん嫉妬が生ずる。(ヒルティ)

嫉妬は男においては弱さであるが、女にあっては一つの強さである。(アナトール・フランス)

嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。(三木清)

嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向かって働くのが一般であるから。(三木清)

自負、嫉妬、貪婪(どんらん)は人の心に火を放てる三の火花なり。(ダンテ)

妬み、僻み、劣等感。あいつらのおかげで、こんな性格になった。あいつらには負けねえ。(野村克也)

敵に害を与えたいなら、自分が功徳を積むことだ。敵は嫉妬で心を焦がし、自分は福徳が増える。(サキャ・パンディタ)

嫉妬の目で見られるということは、著名な人たちはすべて支払わなければならない税金みたいなものである。(エマソン)

民衆の正義とは、富豪や、資産家や、貴族や、その他の幸福なものに対して、利己的な嫉妬を感ずることである。(萩原朔太郎)

偉大な人間に対して悪口を言う人は、普通道徳的見地からではなくて、まぎれもない嫉妬心からである。(ウォルター・サヴィジ・ランドー)

素人による批評で辛らつなものが多いのは、自分にはできないという嫉妬が半分混じっているからだ。(ながれおとや)

道徳的憤りとは、大義名分を持った嫉妬である。(H・G・ウェルズ)

近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である。(梅崎春生)

我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに。(ラ・ブリュイエール)

あらゆる罪のうちで、最も悪いものは、人を分断する罪である。嫉妬であり、恐怖であり、非難であり、敵対心であり、怒りである。要するに、人への悪意である。人の魂が、神や他者と愛で結ばれるのを阻む罪とは、こうしたことを言うのである。(トルストイ)

お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というものに。 それは緑色の目をした怪物で、ひとの心をなぶりものにして、餌食にするのです。(シェイクスピア『オセロー』より、イアーゴーの台詞)

「大食」「肉欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「高慢」 (エジプトのキリスト教修道士、ポントスのエウアグリオスにより「八つの枢要罪」)

大食・強欲・怠惰・色欲・高慢・嫉妬・憤怒 (七つの大罪 6世紀後半、神学者 ローマ教皇 グレゴリウス1世)

遺伝子を改造すること・人体実験を行うこと・環境を汚染すること・社会的な不公正を行うこと・他人を貧困にすること・悪辣に金を得ること・薬物を濫用すること (新・七つの大罪 2008年、バチカンのローマ教皇庁)

原則なき政治、道徳なき商業、労働なき富、人格なき教育、人間性なき科学、良心なき快楽、犠牲なき信仰 (ガンディーの「七つの大罪」)

第三部 第三十章 人が活きる集団

人は、だれでも、家庭や学校・会社・地域社会の集団に属して生活しています。人が、たった一人でどの集団ともかかわらず生活していくことはできません。人が生活していると、必ず他人とかかわり合いがあります。

人類の歴史が示す真実は、一人で自給自足の生活をするより、集団を作り、役割分担して、助け合いをすることで、全体として強くなり、豊かで余裕ある生活ができるということです。

集団の幸せとは、構成員一人一人の幸せから成り立ちます。構成員全員が不幸で、集団が幸せということはありえません。リーダーだけが幸福で、他の社員は全員不幸という会社はすぐ行き詰ります。集団の幸せ度は、構成員のできるだけ多くが幸せであることが条件となります。

集団の幸福度を、絶対的に計測する方法はありません。世の中にはいろいろな集団があります。集団ごとに幸福を追求するための規則は異なります。例えば、日本国の政治では、一人一票の多数決(=民主主義)で国民の幸福を最大化しようとしています。お金で利益(=幸福)を追求する株式会社では、出資金の多寡(=株式の保有率)で議決権(=投票権=経営権)の量が決まります。出資金の多い物が事業方針を決め、利益(=幸福)を出資金の比率で配当します。

たとえ、犯罪者の集団でさえも、集団の掟を守り、自分の集団全体の利益(=幸福度)が高まるように協力し合います。つまり、どんな悪人でも協力しあうという善人の一面があります。

家庭や学校・会社という人間の集団が、より幸せになるためには、構成員が互いに協力することが必要です。協力とは、意思疎通と作業で成り立ちます。作業の中身は、集団により異なりますから、この章では、意思疎通に焦点を絞り、その具体的方法を、人の活かし方、人からの活かされ方という視点で書いてみたいと思います。

人間は、第一に、自分自身の幸福のために活動しますが、それだけで、十分な幸福感に満たされるわけではありません。人間は、第二に、自分が所属している集団、つまり、家族、親族、会社、地域社会、国家、世界の幸福ために活動しないと、幸福感を満たすことができない存在です。自分自身の幸福と集団の幸福の両方を自分好みの配分で実現することが必要です。

構成員が協力していない集団では、必ず、孤立した仲間がいます。孤立した者は、何をしているかわかりません。そして、孤立した者は、集団が不幸になるような勝手なことをしている場合がほとんどです。集団の幸福を高めるためには、仲間を孤立させないことが重要です。

人の活かし方

(1)調子どうと聞く

人に出会ったら必ず挨拶をしましょう。挨拶から人付き合いは始まります。そして、気持ち良い挨拶をしましょう。顔は、にっこりと笑顔で、背の高い人は背の低い話し相手と目の高さを合わせて、軽く目を合わせて、相手を優しく見て、穏やかな心で、挨拶しましょう。

丁寧な挨拶なら、三言まで交わします。最初の一言目の挨拶の言葉には、「こんにちは」、「おはようございます」や「こんばんわ」があります。これは、そのまま「こんにちは」、「おはようございます」や「こんばんわ」をお返しします。表情、声調、態度から、威圧感や恐怖感を無くしましょう。相手をじろじろと上から下まで見すぎないことです。二言目には、「ご機嫌いかが」、「調子はどうですか」となり、「元気です」、「まずまずですよ」、「楽しいですよ」となります。大阪なら「儲かりまっか」、「ぼちぼちでんな」もあります。三言目には、「今日はいい天気ですね」、「今日は雨ですね」、「暑い日ですね」、「寒い日ですね」となり、「気持ちがいいですね」、「雨も時々必要ですよね」、「暑くで敵いません」、「寒くて着込んでます」とかでお返しします。

手短に挨拶するなら、「こんにちは、最近、調子どう。」と聞きましょう。もっと短く「ハイ」、「ヨウ」、「ヤァ」にもなります。黙って微笑み会釈するだけかもしれません。手を振るだけかもしれません。一日に何度も会う人でも、短くてよいですから会う度に毎回挨拶をしてください。お店の店員さんには、「こんにちは」を言うことがお勧めです。ご近所、道端、公共の場、お店や会社では、挨拶をしなければなりません。ちょうどよい挨拶ができる人は、誰からも好かれます。

返事から、相手の様子、特に気持ちを推測しましょう。返事を返す側にすれば、親しみを感じる相手に正直になれるものです。相手に親しみを感じてもらうには、こちら側から先に、相手の良い点を見つけて好きになることから始めましょう。

挨拶の声掛けをしても、返事をしてくれない人がいます。たまたま、聞こえなかったのか、こちらを見ていなかったかと思いましょう。返事をしてくれないなら、一言目で終わりましょう。がっかりもせず、怒りもせず、平常心を保ちましょう。そして、次に会った時も、自分から、声掛けをしましょう。そうすることが、あなたを優位な立場、優しい人格者に位置付けてくれます。

ときどき、何度挨拶をしても返事をしてくれない人がいます。何を聞き出そうとしても、全く話しをしてくれない相手がいます。親しいはずの家族の間でも話しができないときがあります。親子の断絶といって、父親と娘、父親と息子、母親と息子の間などで時々あります。夫婦の間で、話しが成り立たないこともあります。会社のような利益や規律を求める組織なら、話ができない人は、配置転換あるいは解雇せざるを得ません。しかし、家族のような血縁関係は切っても切れません。最初から話をしなかった訳ではなく、次第次第に話をしなくなったのです。互いの話したい内容と聞きたい内容がずれていたことや、忙しくで余裕がなく話し合いの時間を確保できなかったことがほんの数回つもり重なるだけで、たいていの人は挨拶や話をできなくなります。ずれたまま話を無理やり続けると、言った言わないの、喧嘩になることもあります。最悪の場合、相手の悪口を言って罵り合い、相手が怖くなり、嫌いになり、信じられなくなり、さらには自分で自分が怖くなり、まったく話しかけることができなくなります。

話をできなくなってしまった相手であってもなんとか話をしなければならない状況はあります。どうすればいいのでしょうか。私には二つぐらいしか思いつきません。大きな声で泣き叫ぶ、あるいは手紙にして渡すです。でも、大きな声で泣き叫ぶことは、場所を選ぶし、相手を威圧しますから、大人にはあまり薦めません。どちらでも、内容には、自分の正直な気持ちだけを込めます。今あなたと話をしたいこと、話ができなくて苦しんでいること、あなたの気持ちがわかっていなかったことに気がついたこと、あなたの気持ちに共感できなかったことを悔やんでいることを、隠さず説明することです。その他の言い訳、自分の都合などは、含めてはいけません。

(2)場を設ける

家庭なら、家族が、集まれる居間を用意します。一人一人が、くつろげる場所を用意しましょう。家族の間では、食事の後などに、小一時間ほど、いろいろな話題を話してみましょう。親だけが話してもいけないし、子供だけが話してもいけません。何がなんでも、意見を取りまとめて、結論を出す必要もありません。でも、時々は、結論を出してもいいでょう。それぞれの気持ちや考え方を説明して、互いに違いがあることを認め合うことが大切です。

家庭では、誰か一人が、リーダーシップを取る必要があります。そして、リーダーが求めるその家庭の幸福な理想の姿を説明し、家族に理解させる必要があります。夫婦は対等の関係ですから、実現可能な幸福な理想の姿については、夫婦でよく話し合って決めておく必要があります。決めてさえおけば、父親からも母親からも子供に自信をもって説明できます。

人と人が気持ちを通わせるには、時間がかかることを、知ってください。頭の回転の速い人には、この時間は待ち時間に過ぎませんが、その時間を楽しく過ごすか、イライラしながら過ごすかで人間の大きさが量られるのです。

会社なら、朝礼、終礼、定期報告会議を開催しましょう。会社でこそ、「時は金なり」です。利益を得るために、人が集まる会議時間は、短くし中身を濃くしないといけません。チーム・スポーツでは、チームメイトとの連携プレーが大切です。連携の意思疎通がグズグズダラダラしていては、勝利できないため、連携を猛練習します。会社は利益を得るためのスポーツですから、連携プレーが上手で普段の会議時間が短い方が、儲かる強い会社なのです。

会社では連絡用に報告書が用いられています。報告書は、結論、感想、詳細欄に分けて書きましょう。でも、文書の提出だけでは、報告者は孤独感に陥ります。部門で全員参加の定期報告会議では、個人の報告は、結論を先に、感想(=気持ち)を一言添えるようにして、時間を節約し、詳細は言いません。上司は、部下の詳細報告を、別の機会に個別に聞きましょう。

会社は、生産や販売といった利益追求の活動だけをする場で、睡眠、休息、余暇がまずありません。家庭には、睡眠、休息、余暇、育児、教育、など会社にはないものがあり、家庭こそが生きていくためのすべてが詰まっている場所です。一人暮らしで親と離れて暮らしていれば、家庭は主となる一人暮らしと親の家の二つあります。天涯孤独の一人暮らしでも、睡眠、休息、余暇、修行の家庭生活はあるわけです。

(3)気持ちに共感

相手の話からそこに含まれる気持ちに共感することが大切です。人間の心は感情(=気持ち)と理性でできています。感情が伝わることを共感といいます。理屈が伝わることを理解といいます。頭脳と精神の構造からも共感が先に発生しないと、理解の段階へ進みません。「大変だなー」、「そりゃ困るね」、「悲しいね」、「寂しいね」、「苦労したね」、「頑張ったね」、「嬉しそうだね」、「張り切ってるね」、「面白そうだね」、「興味あるよ」、「もっと聞きたいな」という言葉を返し、「ワカル」、「そうそう」と同情していることも言ってあげましょう。こういう相槌を打つことが、共に喜び共に悲しむということです。相手の気持ちを言葉・表情・身振り・手振りにして返してあげ、「自分もそう思う」と話すことで、相手と連帯し始めます。

共通の体験をもった人同士は、近親感が湧いて話がはずみます。自分がよく似た体験をしたことがあれば、「自分も昔そういうことが有った、そうだった、そうだった」と話しましょう。自分が経験豊富な年上のとき、若い相手の経験は小さく見えますが、そういうときこそ、自分の経験をあまり詳しく話さないようにします。なぜなら、年長者の話は、自慢話しであり、それも長い話になってしまい、相手が辟易とするからです。目上の人ほど、聞き上手を目指しましょう。もし、自分に似た経験がないなら、相手の状況を空想してみましょう、そして、「こういうことかな」と質問を切り出して、聞いた話から空想した内容を、再現ドラマ風によりリアルに話してみましょう。

(4)活躍を見たいと期待

今、相手が失敗しているなら、「次回はもっと工夫する様子を見たい」と言いましょう。また、相手が成功しているなら、「次回も成功へ向けて努力を続けていく様子が見たい」と言いましょう。でも、「次回も必ず成功して欲しい」と強制するようなことは言わないようにしましょう。強制は多少なりとも反抗心を目覚めさせて連帯感を削いでしまいます。つまり厳しい強制ではなく楽しい期待です。

(5)善意を確認

相手の行為が、善意から出てくるものであり、社会的に肯定されているものであることを確認するようにします。「やっぱり世のため人のためダヨネ」と一言添えることで、人は、やる気が出てくるものです。始まりは、利己的な行為であっても、家族が喜んだり、会社の利益になることは、結局誰かの役にたっていることを再確認するという意味です。高い志があればある程、より多くの人々の役に立つことができるようになります。

(6)自主性を促進

「あなたは何ができるのかな、何をしてもらえるのかな」と相手に問いかけるようにしましょう。「こうしなさい」とか「言われたことだけをすれはいいのだ」という言い方は好ましくありません。何をしてもらえるかについて、自主的に考えてもらうことが、自主性を促進し、良い成果につながります。

(7)実現可能な目標を設定

相手から、こういうことをすると提案がされれば、その到達水準について、目標値を聞いてみましょう。会社であれば、品質、納期、価格です。子供の勉強であれば、テストの点数に相当します。家族の稼ぎ手であれば、昇給額でしょうか。相手と相談して、実現可能と思われるちょうどよい程度に目標を設定します。目標達成のための、やり方・方法は、不正をしない限りは、自由に任せましょう。ただし、こまめな経過報告を要求しておきましょう。

目標を集団の構成員に公開することが大切です。こうすることで、相手は、目標達成の意欲がわきます。

目標達成時の褒美について決めておいてもいいでしょう。失敗時の罰則も決めておくとさらに良いでしょう。ただし、褒美も罰則も、実現可能なものにしておき公開してください。

(8)公平、公開

公平に公開して信賞必罰を実施します。計画した期日になったら、努力の結果を評価しましょう。評価は公平に行い、評価結果は、構成員に公開しましょう。計画を上回れば、賞を与えます、計画を下回れば、評価を下げます。

不正があったり、損害を被るときは、罰を与える必要があります。不正や損害は、良くないことつまり悪事ですが、その程度が軽い場合は、個別に呼び出して、詳しく理由を述べて叱ることになります。悪事の程度が重い場合は、処分も重くなります。でも、苛めになってしまってはいけません。

(9)悪事を公開する

上司や親は、自分の悪事や、全体状況の悪化を部下や家族に隠してはいけません。隠していても悪い噂となり広まってしまいます。悪い噂が広まってしまうと、集団の内部での信用を失うことになり、集団の一体感が無くなります。遵法精神が徹底された近年の社会では、法律違反行為の隠ぺいがあれば、組織の存続ができなくなります。したがって、事業状況の悪化については、直ちに対策を練り、できるだけ早く処置を実施する必要があるわけです。

(10)自分の都合を公開する

日本では封建社会の江戸時代からの習慣で、集団の中では、下っ端の個人的な都合の公開は、悪いこととされがちです。時代劇に出てくる最悪の例では、殿様の我儘な要求(家来の妻を側女に召し上げる)は許されて、下級武士のあたりまえの要求(妻の召し上げを断る)が切腹の罪とされるがあります。江戸時代では、身分・役職は生まれながらに決まっており、出世はありません。現代でも、個人的な出世希望を公言することが、はしたないとか言われたりします。

戦国時代は、下剋上という言葉があり、裏切り、兄弟殺し、親子殺しなど当たり前の時代でした。今でも、戦国時代に倣った、身内同士の騙し合いや足の引っ張り合いの派閥争いがあったりします。

日本には、以上のような集団の活力を削ぐ方向での古い価値観がまだまだ見受けられることに、気を付けなければいけません。

家庭生活で、大人が体面を保つだけの小遣いを要求したり、子供が欲しいおもちゃを要求することは、家族が互いを詳しく理解し、深い愛情を持つためのきっかけとして大切なことです。要求を述べ、必要性と正当性を説明することは、自己表現の練習であり、交渉事の訓練であり、人間関係そのものであり、自己実現の第一歩でもあります。

会社生活では、自分がどの程度の給料が欲しいのか、将来どの程度の役職に就きたいのか、こういうことを上手に公開し、組織で共有することは、活力ある人材がどこにいるかを見極める上で大切なことです。

どんな集団でも、その構成員が幸福にならないと、集団は幸福になりません。そのためには、構成員一人ひとりが希望する分け前、それぞれの都合、を公開し共有することが集団全体の幸福の前提になります。集団が派閥に分かれ足の引っ張り合いという負の内部抗争に明け暮れるようでは、外部からの攻撃に耐えることはできません。内部抗争もまた集団の正当な事業活動に転化してこそ、強い集団と言えます。

強い集団には強いリーダーがいます。リーダーの大きな役割は、集団を大きくする夢を語ることです。夢とは、リーダーが高く上り、構成員をさらに引き上げていくことになる話のことです。会社なら、努力した全員が昇給、昇格が見込めるという夢です。家庭なら、一緒に楽しく過ごす時間の拡大、健康的で美味しい食事、美しい衣服、快適な住宅、豪華な家財道具、おもちゃ、レジャーに出かけるなどでしょう。

(11)約束を守る

一度した約束は必ず守るようにしなければいけません。約束を守ることが信用を築くことです。約束を破るとそれまで築き上げた信頼が、崩れてしまいます。どの程度の信用が崩れるかは、それまでに築いた信用の大きさに依存します。

約束を守るためには、実現可能なことだけを約束するしかありません。安全第一で確実なことだけを約束するか、不確実なことがあっても努力でなんとかするのか、それともまったくの偶然に頼るのか。誰でも無意識の内に、確率、確度、精度といった数学の考え方を入れて計算しています。

私は、「信用は命より大切だ」と考えています。人間は、恐らく、自分の社会的信用を完全に無くしてしまうと、自分の人生を生きる意味をまったく感じられなくなるはずです。信用がない人、悪人や裏切者は、命が尽きても、後世に不名誉を語り継がれ、子孫を苦しめます。このように、信用は死んだ後も評価され続けるため、命より大切と言えます。

もし、約束が守れそうにないときは、すぐ相手に連絡し、相談をしなければいけません。実際に約束を破って、それを隠しておいて、相手に知られてしまうより、早め早めの対策が、信用を守ることにつながります。

約束を守らず信用を失っていく人の周りからは、徐々に人が離れていきます。

(12)嘘をつかず秘密も守る

嘘をつかないで正直でいることが、信用を守る基本です。また、秘密を守ることも、同様に、信用を守る基本です。

ずるがしこい悪人が、嘘をつけないあなたに、秘密を聞いてくることがあります。その場合は、秘密を打ち明けてはいけません。「そういう質問に、回答することはできない。回答できない理由も言えない。」とだけ説明してください。

(13)褒める

人を褒めてあげましょう。人の長所を見つけてあげましょう。その人の好きなところを、指摘してあげましょう。

成功した人を妬まないことです。人の手柄、部下や同僚の手柄を横取り、泥棒してはいけません。人の成功を一緒に祝いましょう。その人の努力を聞き出し、感心しましょう。

失敗した人を憎まないことです。公的に、罪状判決を下す者は、裁判官という役職の機能です。裁判官となっている人間そのものでは、ありません。罪を償わせるのは、刑務所という機関です。失敗した人が、赤の他人であれば、あなたは気にする必要はありません。失敗して弱っている人を攻撃することは、卑怯者のすることです。

身近な仲間が失敗したら、その人の立場と状況をよく調査してみましょう。そして、失敗の原因を知り、その人の落胆に同情し、失敗をリカバリーしてあげましょう。その後冷静になってから、あなたの受けた被害で、許せることは許し、許せないことは償ってもらいましょう。

人の悪口を言わないようにしましょう。「私の短所を教えてくれ」と言われても、その人の短所を指摘してはいけません。そんなとき、「短所は自分で気が付かなければならないものだ」と教えてあげてください。長所でないところは、短所、あるいは普通なのだから、長所だけを褒めればそれで充分です。

特に、陰口をしてはいけません。むしろ、陰褒めをしてください。また、陰で、あの人に期待すると言っておきましょう。「あの人はここがダメな所よね」と聞かされても「そうそう」と同意してはいけません。「知らない、興味ない」と話を逸らしましょう。

(14)己の力不足を知る

人は、一人では、大したことはできません。私はつくづくそう思います。だから人は、集団を作り、力を合わせて、色々なことを成し遂げるようにしています。過去の人や遠く離れた人の知識を生かすために言葉や文字があります。ここに、私が書いたことは、一度は誰かが言ったことです。私は、そんな優れた人の言葉の真似をして言っているだけです。人は、自分の知識が不完全であり、腕力や財力、信用、知名度も所詮僅かであることを自覚しないといけません。

一人一人は小さな存在にすぎないという問題への対策は、「分担と協力」です。あなたも私も、人の助けがないと、実は何もできないのです。分担と協力を上手にするためには、意思疎通が第一歩です。

人を活かす14の方法
(1)調子どうと聞く
(2)場を設ける
(3)気持ちに共感
(4)活躍を見たいと期待
(5)善意を確認
(6)自主性を促進
(7)実現可能な目標を設定
(8)公平、公開
(9)悪事を公開する
(10)自分の都合を公開する
(11)約束を守る
(12)嘘をつかず秘密も守る
(13)褒める
(14)己の力不足を知る
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人からの活かされ方

(1)愛想よく応える

挨拶には、愛想よく元気に応えましょう。

初対面の挨拶で、相手を上から下までジロジロと撫でまわすように見たり、相手の外見の欠点をいきなり指摘したりする失礼な人もたまにいます。相手をよく知ろうと思えば思うほど、無意識の内に、ジロジロと観察したり、思わず欠点を言ったりすることがあるからです。そういう失礼な場面に遭遇したら、「初対面でジロジロ見られると気になります」、「初対面でそういうことを言われるのは失礼かと存じます」と切り返しましょう。何かいやなものに例えられたら、「それ(○○)ではありませんから」と切り返しましょう。切り返すだけの精神力がないと、この世を渡ることはできません。もしあなたに、吉本新喜劇のお笑いの心得があれば、乗り突っ込みをしてから、最後に「それ(○○)ではありませんから」と切り返しましょう。

(2)マナーを守る

親しき仲にも礼儀あり、家庭でも、家族でも、気持ちよく過ごせるようマナーを守りましょう。

親は、子供に、家庭だから許されること、会社で許されること、公共の場で許されることの範囲を教え、実際に演じて見せる必要があります。マナーの基準は人により異なりますから、よく知らない人との付き合いで失敗はつきものです。失敗した場合の、謝り方も練習で演じておくことが必要です。

(3)共感に感謝

自分の気持ちに共感してもらったら、相手に感謝しましょう。喜びも苦しみも分かち合うことです。分かち合う喜びは、倍に増え、分かち合う苦しみは半分に減ります。

だれでも、自分の話を聞いてもらうことは好きですが、興味のない話を聞かされるのは苦痛です。話を聞いてくれる人が、その話に必ずしも興味があるわけではありません。話を聞いてくれる人が、金品の見返りを期待していることは、ごく普通のことです。相手によって、その場その場で、ふさわしいお礼をする必要があります。たいしたお礼もできないのであれば、相手の時間を奪ってしまう話し過ぎには、くれぐれも注意しましょう。

(4)期待されて喜ぶ

相手から期待されることは、喜びです。素直に喜びましょう。しかし、出来そうもないことや、成功の確率が低いことを、期待されるときもあります。そういう時は、はっきりと状況を説明し、不安を述べましょう。

(5)小さな親切から

相手との関わりのなかで、微笑みかけて話しかけ易くしましょう。この小さな心がけ自体が、善意であり、善行です。無理をせず、誰にでもできるはずの小さな親切からしてみましょう。

些細な行動にも、人のためを思ってすることで、あなたの行動、言動すべてが美しく光り輝くことになります。お化粧やファッションに気を遣うように、目つき、表情、振る舞いと言葉に気を遣う練習をしましょう。

(6)自分にできることから

あなたには、趣味のクラブ活動、仕事、ボランティア、勉強といろいろ役割を果たす責任があります。役割分担の範囲は、無理な背伸びをせず、自分一人でできることから、始めましょう。自分が楽しいと感じ積極的に取り組めることが、役割分担に向いていることです。

自分の能力を拡大していくように、新しい分野へ挑戦していきましょう。挑戦は、知識の吸収、練習、本番と段階を追うものです。役割分担するなら、知識の吸収、練習を済ませておくべきですね。

楽しいこと、好きなことは、自主的に始められますし、成功の確率が高いのです。新しいこと、難しいことを行うときは、苦しい、嫌いだと考えずに、楽しい所、好きな所を見つけて、楽しい、好きだと考えてから取り掛かりましょう。楽しい、好きだと考えながらする十分な練習が自信に繋がります。

(7)工夫して実現

いつまでに、どの程度の成果を上げられるのか、自信がある範囲で、目標を設定しましょう。目標達成時の褒美も教えてもらいましょう。失敗時の罰則も一度だけ見ておきましょう。

やり方は自由に工夫させてもらいましょう。でも、やり方が良く判らないときは、素直に質問・相談をして教えてもらいましょう。

目標達成の意欲をずっと維持しましょう。

日数を要する計画であれば、途中途中で進行状況を報告しなければいけません。最後の日に、できたかできなかったかの結果報告だけでは、不十分です。大きな事業も、小さな仕事に分解して一段ずつ成し遂げていくだけです。

(8)いずれ公開される

目標・計画と進行状況は、集団の構成員に公開されるという心構えでいてください。集団の構成員には、隠し事はできません。まして、公共事業や会社事業は、国民や株主に中身を公開する義務があります。

ばれない不正はありません。一緒に生活している家庭では、隠し事は不審な行動からばれてしまいます。どんなに頑張って不正を隠しても隠すという行動が、あなたの品格を落としてしまいます。反対に、成功は敢えて自慢する必要がありません。どんなに頑張って成功を隠しても成功したという自信あふれる行動が、あなたの品格を高めてしまいます。あなたが公正か不正かで、他人が感じるあなたの品格が自動的に上下してしまうのです。これが、天罰とか神の裁きと呼ばれるものの正体ではないかと私は考えています。

計画した期日になったら、結果は評価されます。評価が公平にされるように、結果を上手に報告してください。 成功したら成功した理由を、失敗したら失敗した理由を考えてください。反省と改善点を見出すことで、次回の成長につながります。

不正をしたり、損害を出したときは、罰を受けることになります。落ち着いて罰を受け入れるしかありません。

(9)悪事を責任者に連絡

自分がした悪事や、状況の悪化などは、上司や親に隠さずすぐに報告しないといけません。悪いことを隠しても、必ずばれてしまいます。悪いことを隠すためには、嘘をつくことになりますから、二重の罪を犯します。ばれる時が後になればなるほど、損害は大きく取り返しがつきません。

(10)自分の都合も

日本には、戦国時代の下剋上に象徴される、騙し合いと暴力の価値観や、身分制度が固定された江戸時代の価値観がまだ残っていて、なかなか個人の希望を公表することは、難しいものです。それでも、自分の都合を公開し、なんとか希望を叶えてもらわないと、集団の中で、自分がどんどん不幸になってしまいます。

家庭でも、会社でも、どんな集団でも、自分の都合は公表しないと相手に伝わりません。伝える、時期と相手をよく考えて行動してください。国家への意思表示は、選挙の投票しかありません。あなたの棄権は、あなた自身を活かさないという意味です。

自分の都合は、他人から見れば所詮ただの我儘にしか見えないものです。でも、権利の行使であれば、その権利があることに感謝して、正々堂々と使えばいいと思います。それでも、有給休暇の場合なら、休暇中に他の構成員に負担を掛けるため、事前の調整や配慮が必要となります。自分の都合を優先して叶えてもらうということは、誰かが負担をしているということです。だから所属する集団への、代償が必要となります。状況によっては、収入減少や降格が代償となることも覚悟しなければなりません。自分の都合が叶うときには、集団への感謝が必要です。

将来の昇給が目的なら、あなたがもっと成果を出せるという集団への貢献を明確にしないといけません。昇進願望において、下剋上を連想させるような発言や行動は慎むべきです。あなたが優秀なほど、上司は警戒し怯えてしまいます。本来なら上司が部門を大きくしていく展望を語り、部下を昇進させていく夢を語るはずです。もしそういう夢のある上司に恵まれなかったら、昇進は諦めるか、部門や会社を飛び出す覚悟が必要となります。

(11)約束の守り方

約束を守るためには、できること、善行だけを約束することです。できないこと、悪事を約束してはいけません。また、約束が守れそうもない状況になってきたら、速やかに約束した相手に連絡して相談しなければいけません。

社会のルール、マナー、法律は、社会とあなたの約束です。知らなかったという言い訳は、通用しません。

約束を守らなかった人に対して、家族の一員であれば、叱り、罰を与えなければいけません。罰の内容は、約束をするときに両者で決めておくことが望ましいでしょう。罰があるということは、約束を果たしたときの褒美もあるということです。でも、本当の褒美と罰は、信用の増減であることを教えないといけません。家庭教育で、信用は命と同等がそれ以上の重要度があることを徹底しておかなければなりません。信用の減少の具体例は、約束を守らない人は、次は相手にしてもらえなくなるということです。信用を失い、人から相手にしてもらえないことで、自由に生きていくことが段々とできなくなるということです。

会社で、約束を守らなかった人は、懲戒、減給、降格、解雇等の処罰を受けなければいけません。悪の組織であれば、裏切者は殺されます。罰を与えないと、約束を守った者に示しがつきません。

(12)嘘と秘密

質問されたことに、嘘をつかず正直でいることは、比較的容易なことです。事実をありのままに言うだけのことです。 ただし、話す内容は丁寧で優しい言葉で話す必要があります。攻撃的な単語を使うと悪口になりがちです。

「人の口に戸は立てられぬ」といいます。漏らされて困る秘密は、誰にもに話してはいけないはずですが、実は秘密を守り切ることはとてもできない相談です。どんな意思の固い人でも、自白剤という薬を飲まされると秘密をペラペラ話します。ですから、できるだけ、秘密の話には加わらず、秘密も作らない生活を心がけると良いでしょう。

余計な秘密を作らないためには、不正をしないことです。不正をすると、秘密として隠したい悪魔の誘惑に駆られます。不正という悪事を為したいう一回目の罪に、悪事の隠ぺいという二回目の罪を重ねてしまうことを考えれば、「悪事を公開することが合理的である」と結論つけられます。

秘密にしても良いことは、正しいことだけです。不正や悪事を秘密にしてはいけません。

正しく秘密と決め公開しないと約束したことは、話してはいけません。秘密については「そういう質問に、回答することはできない。回答できない理由も言えない。」とだけ説明して、秘密を暴こうとする人からすぐ逃げ出してください。ずるがしこい相手の質問に嘘の回答をしても秘密がばれてしまいますよ。

嘘をつく人は、案外多いものです。正直な人でも優しい言葉で事実をぼかされる場合もあります。日本語が通じない外国人との交渉では、嘘か本当かなかなか区別がつきません。

もし人から嘘をつかれたら、その人とのお付き合いをしばらく避けるとよいでしょう。嘘をついた人が謝ってきても、また嘘かも知れませんので、嘘でも害のない範囲で付き合いを再開しましょう。いずれにしろ、嘘つきの話は、慎重の上にも慎重に見極める必要があります。

(13)褒められたら感謝

褒めてもらえたら、素直に喜びましょう。褒めてくれた人に感謝しお礼を言いましょう。

褒めてもらえる一方で、人から妬まれ、悪口を言われることもあります。そういうことがあっても、聞き流し相手にしないことです。悪人は、あなたが、怒り返したり、悪口の応酬となることを望んでいるから、攻撃してくるのです。嫉妬や悪口に対しては、「そういう考えの人がまだいるかもしれないけど、いつか認めてもらえるよう努力を続けたい」と言っておくことです。

人の手柄、部下や同僚の手柄を横取りする泥棒も時にはいます。信用できないと分かった人をもう相手にしない、距離を置くことが最も良いことです。やはり。怒りや悪口で返してはいけません。

あなたが仮に失敗をしてしまって、反省し弱っているときに、あなたを過剰に攻撃してくる関係のない人がいれば、嵐が過ぎ去るのを待つか、逃げ出すことです。あなたは、冷静になってから、失敗の原因を思い出し、今後の進め方を考え直しましょう。また、あなたの失敗で発生した被害を修復し、償う必要があります。

(14)己の実力を知る

驕り高ぶらず自分の実力を客観視してみましょう。身近で目標となる人を探すことが、客観視の第一歩です。とんでもない大人物だけを目標にすると客観視が難しいです。また、資格試験に合格していれば、実力の証明になります。

人に活かしてもらうには、人に使ってもらうことになります。それには、入学試験、入社試験、面接、オーディションで、実力を披露しないといけません。知識を暗記するだけでなく、使ってみる実演練習をすることが、実力を養う近道です。

人は協力して目標を達成するために集団、家族・学校・会社・地域社会・国家を作っています。あなたも人と集団への協力をすることによって報酬を得て、自分の都合である私的な夢を実現し、幸福を感じてください。

人から活かされる14の方法
(1)愛想よく応える
(2)マナーを守る
(3)共感に感謝
(4)期待されて喜ぶ
(5)小さな親切から
(6)自分にできることから
(7)工夫して実現
(8)いずれ公開される
(9)悪事を責任者に連絡
(10)自分の都合も
(11)約束の守り方
(12)嘘と秘密
(13)褒められたら感謝
(14)己の実力を知る

第四部 付録 あとがき

私が仏教についてこの文章を書いている理由は、最近、年老いた母が病気になり手術をすることになり、それをきっかけに人生について考え直す機会を得たからです。 自分の心の安定を得たいとか、母に自分の考えを知ってもらいたいという気持ちもあります。

下世話な話ですが、仏教の教えに従って会社の運営をすれば迷いを振り払い、いずれ業績も良くなるとも期待しています。

私の生家は、とあるお寺の檀家です。その上、父の生家がお寺であることから、伯父や従兄弟が僧侶です。子供のころから仏教との距離は普通の家庭より近かったのです。

現在の日本に伝えられている仏教は、私には意味不明のお経、難しい用語と「してはいけない」という禁止事項が目に付きました。本来の仏陀の教えはこんなに難しく近寄りがたいものでしょうか。私は実は単純で判り易い教えである、と思いたいのです。

そういうことで、難しい用語に、現代風の言葉で簡単に説明を付けて、禁止事項の「してはいけない」より「こうするといいよ」という推奨事項を盛り込んでみました。

私の父は数年前に亡くなっていますが、生前の父から渡された「仏教読本」という小冊子があります。これを人生で困ったときは何度も読んでいました。ただ、この本の内容で理解ができないところがいくつもありました。仏教の知識を整理したいなとずっと感じていたのです。結果的に、この幸せ研究室の内容は、仏教読本の解釈と異なる説明になっているところが多数あります。でもそれでいいと思います。

仏教教団ではなく、生長の家の本ですが、谷口雅春先生の「生活読本」はお気に入りの愛読書です。もう十年以上愛読しています。生活読本は内容が楽しく易しく書かれています。仏教の本でもこういう書き方のもがあればいいなと思っています。そこで仏教の知識を整理するにあたり、先生の良いアイデアをこの文章には多数取り入れてあります。谷口雅春先生は万教帰一を唱えておられたので、きっとお許しいただけると存じます。それにしても、先生のように楽しい文章が書けるようになりたいですね。

私は世間で言われる生粋の理科系人間で、自然科学大好き少年が、そのまま大人になった者です。そのような人間が極楽地獄、あの世を信じるはずがありません。どうすれば、私のような現代人が仏陀の教えの真髄を理解し受け入れることができるかについてもできるだけ配慮したつもりです。まだ解りにいところがあれば、会社の問い合わせURL で質問してください。

ここからは、解釈裏話です。

仏陀の教えは最初の数百年は文字がなくて、口伝されていたといいます。これでは、当然信頼性に欠けます。文字があったかどうかも怪しい時代ということです。人類で最古の優れて美しくできた大切な教えだから、人々にありがたい尊い教えと認められて、宗教になった訳です。

仏教自体が発生元のインドで廃れててしまい、信者と教えが散らばり、流れ流れて中国語に翻訳されるときに、いろいろな人の解釈が紛れ込んでいるいることは事実です。意味をとって訳したり、音をそのまま音写したりと、技巧をこらすわけです。現代では、チベット仏教が知られて、そちらのチベット語への翻訳がしっかりしているとか、まあいろいろな意見があります。それがさらに日本に流れ込み、皆が皆、勝手な解釈をしだすわけです。だれもが善意で真剣に解釈しているから、よけいに混乱を招くわけです。私もその一人で混乱を招いているだけなのかもしれませんね。

そこで、私の解釈方針です。 仏陀の考え方には、神がありません、だから、超能力のような神秘性は一切無しとします。精神力とか気合とか根性とか我慢でなんとかなるという甘い考えもすべて排除します。常に見えて感じる現実の世界をありのままとらえ、現実に反応する感情の動きを論理だけで冷静に分析していく、これが仏陀の考え方の根幹であるとします。

漢字の意味を、漢字字典でよく確認します。熟語の意味は、長い年月で変化していますから、古代中国語として、もう一度、漢字の意味を推測しなおしします。一字一字そのものの意味をとらえるようにします。

もし疑問がわき、経典原語のサンスクリット語やパーリー語とその意味が見つかれば、参考にします。チベット仏教の資料もみつかれば参考にします。

八正道の正見には、「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。」という説があります。しかし、「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」という教えや「喜無量心」と食い違いが出てきます。ですから「厭を生じ」とか「喜を離れ、貪を離る」を修行の主目的としてはいけないと私は解釈しています。それだけを目的とすると、いずれ現実世界を見ないごまかしや無関心を生み出すことになりそうです。

八正道の正思惟で「出離を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟すること」という深遠すぎて私には意味がよく判らないな説があります。これはおそらく後世の修行僧たちによる後付の理屈と私は推測しています。

正業と正語に十悪の禁止事項を書き記す解釈方法がありますが、私の解釈は逆で「こうするといいよ」を取り上げました。禁止事項だけを記しては、行うべき善が見えなくなるからです。八正道の目的は、善を行うことですからね。

正思惟 、正念、 正定は心つまり感情の持ち方や考え方で頭の中のことです。私はこれら三つを難しく考えすぎないことが大切と感じて、現代風に簡単に記入してみました。

このように八正道を平易に現代風に解釈することで、誰でも八正道を理解し実行に移せるようになります。これでこそ万人のための教えとなります。

仏教の一部では、「悟りを得た直後の仏陀が人々に悟りを説くかどうか迷った。その理由は悟りが難解だから。」という説がありますが、私は「難解である」の立場ではありません。悟りの理論的核心は、四諦と三法印です。わたしの解釈はとても簡単ですね。八正道、無財七施、四無量心も僅かな項目しかなく難解とは言えません。残る本当に難しいこととは、八正道をできるだけ完全に実行することです。理解はできても、凡人には、部分的にしか実行できないのです。

たとえ、この四諦と三法印を理解できなくとも、八正道、無財七施を実行すればそれで悟りの四無量心に到達できます。ちょっとでも実行すれば、その瞬間は仏陀です。実行をやり続けれは、まさに仏陀そのものです。私は、ここにこそ、魂の救いがあると考えています。だれでも、一瞬は仏陀になれるのですからね。

またもっといいことに、人それぞれに進む道は違ってよいので、皆が教祖や修行僧になる必要は無く、社会生活を営みながら八正道を実施すれば良い訳です。そして八正道の中にあるように「根気よく努力する」ことを続ければ、次第に八正道をうまく実施できるようにきっとなります。

もちろん私はまだ八正道を完全に実行できませんので、苦しみを完全に取り去ることがまだできていません。それでも、八正道にあるような良い事を一つすると気持ちがいいものですね。この良いことをすると気持ちがいいという感覚をこれからも大切にしたいものです。

仏陀の生まれた二千四百年前、当時の交通力、通信力、科学力を空想してください。とても遅れていた時代です。私には、当時の国に文章で書かれた法律があったかどうかも解りません。きっと今より迷信が蔓延っていたことは間違いなさそうです。

仏陀が大変に偉大な人物であったことはもちろんですが、そのような昔の時代に一人の人間として生まれ、二十九歳で出家してわずか六年の修行で得られる知識の量はたかが知れているはずです。まず仏陀は迷信を見極める必要があったはずです。その点を忘れないようにしないといけません。

仏陀は六年の修行中、いろいろな師につき知識を得たそうですが、知識をそのまま鵜呑みにせず、自らこの世をじっくり観察し確実と思える知識だけを取り出し、三法印でこの世の成り立ちと生きる目的を整理されたのだ、と私は想像しています。

仏陀の生きた頃には、我という変化しない主体、いわゆる死後も不滅の霊魂でしょうか、これを想定する有我論がありました。そこで、「諸法無我は有我論の否定、無我論、すべての存在には、主体とも呼べる我がない、それはすべてのものが変化していくから我も変化してやがて消えるからだ。」と解釈する説が巷ではほとんどです。さらには、「諸法無我とは諸行無常を別の角度からいい直ししたものです。」という説まであります。諸法無我を無我論と解釈すると確かにそうなります。それは、「行」と「法」が同じ意味、ものとか存在と、捉えるから、そうなるのです。たった三つしかない三法印の項目で仏陀がそのような言い直しをわざわざすることは、誠に不思議な感じがします。もし無我論であれば、諸行無我となることがより好ましいはずです。

ネットのサイト http://ccbs.ntu.edu.tw/BDLM/lesson/pali/reading/gatha279.htm からの引用ですが、


> 諸法無我の部分に注目してみましょう。
> sabbe(全ての) dhamma(法は) anatta(魂、自己がない)
> 
> dhamma とは宗教・教え・法則の意味で、事物という意味ではありません。
> anatta とは attan(魂、自己)の否定語で、それ自体単独で存在しないという意味です。

> 

> 諸法無我は間違い?

>  http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-entry-50.html

> 
とありました。原語のサンスクリットまたはパーリー語を評価したものです。 やはり、「行」と「法」は違うもので、「法」は法則を意味しています。物や存在ではありません。これを見て私は、自分の諸法無我の解釈に確信を持ちました。

つまり私は諸法無我について字句どおりに素直に受け取り、解釈することにしました。この解釈により、諸法無我が非常に明快に理解できます。現在の自然科学との相性も、とても良好です。なにしろ、私の諸法無我の解釈は、誰でも知っている常識そのものですからね。

伝えられる物語から仏陀は、「死後も不滅の霊魂」については何も語っていないようです。むしろ正しいと説明がつかない議論に立ち入ることを戒めているお話もあると聞きます。有我論と無我論があると、双方の立場からの議論が果てしなく続きます。仏陀の真意は、水掛け論になってしまう議論を止めてしまい、誰にでもはっきり真実と判ることだけに立脚することだったと私は推測します。

私たちが事実として理解していることは、自分という我は、自分が生きている間はあると感じるということ、自分が死んだらどうなるか自分には判らないということ、他人の我は、生まれてから死ぬまでその体にあるように見えること、そして人が死んだら我としての心は体から消えるということです。

実は、「人それぞれに進む道は違ってよい」、「一人でも多くの人が幸福になることが善」、「分かち合う喜びは二倍になり、分かち合う悲しみは半分になる」、四諦、八正道、無財七施、四無量心、十悪こそが悟りです。三法印は悟りのエッセンスを別の表現で言い直したものに過ぎません。文字数からいっても明らかに三法印だけでは内容不足です。ですから、諸法無我の解釈などどちらでも大勢に影響はありません。諸法無我の解釈を他の方と議論することは意味が無いということになります。

十二縁起を取り上げなかった理由について長めですが説明します。

十二縁起は、十二因縁とも呼ばれ順に並べると、一、無明、二、行、三、識、四、名色、五、六入(六処ともいいます)、六、触、七、受、八、愛、九、取、十、有、十一、生、十二、老死とされています。いろいろな説を読んだり比較した他限りでは、正直どの説明も納得できませんでした。最もよくまとめられた説明は、悟りへの道「十二因縁」です。この説明には、外縁起と内縁起の解釈を並べてありとても良心的と言えます。が、その説明内容は何度読み返してもよく判りません。

私の立場は、「もともとお釈迦様の教えは簡単明瞭であるにちがいない、判らないとか悟りは難しいといっているのは何百年も後の人々が創作した経典の中の話にすぎない。お釈迦様は僅か三十五歳で悟られた、修行期間も六年と短いし、当時の科学、哲学の知識も僅かなものでしかない、だから誰でも体感でき実感できる常識に基づいて悟りを開かれたに違いない。」です。この立場から十二縁起を見直すと、私流の異説が出てきます。

まずこれまでの説明で出てきた用語で解釈してみます。一の無明は、真っ暗で自覚できない心の奥底、現代の用語で言う生存本能のようなものだろう。二の行は、五蘊の一つの行、つまり、行動への意志・感情。三の識は、五蘊の一つの識、つまり、心の認識作用。四の名色の色は、五蘊の色つまり、肉体であり、名が謎として残るが、名は自分以外の相手の名前を指すのだろう、だから自分以外の者や物であろう。五の六入(六処ともいいます)の六は、六根つまり六つの感覚器官である。入が謎として残るが、おそらく、感覚器官に入ってくる情報という意味だろう。六の触は、六境の触境のことで、手触り、温度、体内の動き、痛みと考えるとよい。七の受は、五蘊の受であり、これは感覚器官であり、おそらく感覚や情報を受け取ることを意味するのたろう。八の愛は、そのまま相手を好きになること、愛することだろう。九の取は、夫婦で互いに愛を交わすこと、つまり受精。十の有は、妊娠期間のこと。十一の生は、子が生まれること。十二の老死は、子が成長し大人になりやがて老いて死ぬこと。生老病死の病が無いが、単に省略しただけだろう。八の愛から十一の生、十二の老死があるので、前半の一から七までを再検討すると、男女二人が出会い互いに好きになるまでの心の動きを追ったものではないかと推察できます。

お釈迦様の母上、名はマーヤー(摩耶)は、お釈迦様を生んですぐ亡くなられ、その妹のマハープラジャーパティがお釈迦様の父上でである釈迦族王の妃となり、お釈迦様を育てられた。お釈迦様の妃は、ヤショーダラーといい、お釈迦様の息子は、ラゴラといいます。そして、ラゴラはお釈迦様の十大弟子に数えられています。つまりお釈迦様は、恋愛や子育てという家族を持つ人生の機微を十分承知されているわけです。ただし男性の立場からです、そして私も男ですからなんとなく判ります。

では、一から十二まで私の考えで再度説明し直します。一の無明は、男性は真っ暗で自覚できない心の奥底から女性を求める欲求が浮かび上がる。二の行は、そして恋人を得たいという感情から出会いを求めて男性は活動する。三の識は、たくさんの女性と出会い相手の性格や自分との相性を認識する。四の名色は、そしてついにこれはと思える良い女性に巡り会う。五の六入(六処ともいいます)は、相手に惚れてしまうと、六つの感覚器官を通してドキンという衝撃が伝わる。六の触は、恋人に触れたいという強い欲求であり男性が女性にプロポーズすることである。七の受は、相手の女性が男性を受け入れ相思相愛となることである。八の愛は、愛で結ばれた二人は愛し合うため一緒に生活すること。九の取は、夫婦で互いに愛を交わすことそして受精すること。十の有は、妊娠期間のこと。十一の生は、子が生まれること。十二の老死は、子が成長し大人になりやがて老いて死ぬこと。

私の解釈では、十二縁起とは、「男性が女性を探し求めて出会いがあり男女が互いに好きになり子供が生まれやがて老いて死ぬこと」です。そんなことは誰でも知っている常識です。そしてこの解釈は、世間にある仏教本での難しい解釈と比べてあまりに違いすぎますね。でも、お釈迦様は悟り(八正道や四諦)の内容が正しいかどうかを確認するときに、この十二縁起のそれぞれの段階で悟りの内容が正しいかどうか確認されたという言い伝えも残っています。つまり、十二縁起とは、人生の段階を男女の恋愛と家庭生活で区切ったものであり、悟りの正確性を確認するための評価表つまりチェックシートみたいなものです。人間の精神構造は、五蘊ですでに説明済みなので十二縁起が精神構造のはずかありません。そして私の立場に述べたように、お釈迦様が十二縁起で神秘的な霊魂の話をすることもありえません。とにかく十二縁起とは、だれでも知っている平易すぎる常識ですから、わざわざ章を設ける必要がまだ無いと私は考えています。

私がこの幸せ研究室で、空、如来、菩薩を取り上げない理由は、空、如来、菩薩の考え方は、お釈迦様の死後、数百年後に発生した考えであることが、仏教の歴史を検証した学説からはっきりしているからです。空、如来、菩薩は、たいへん良くできたファンタジー小説に似ています。今風に言えば、仏教に入信してもらうための広告宣伝、キャッチコピーの役割をしていたのでしょう。その考え方は、当時の人には必要だったと思われますが、お釈迦様の許しを得て付け加えられたものではもちろんありません。

今、「すべての者と物は、空である」と言えば、体感的、経験的事実との違いをうまく説明できなくなります。仮にそうだとすると何者にも違いを認めないことにもつながり、なんでも同じという乱暴な議論になり、理論的にも実践的にも大きな成果が得られることは無くなります。最悪の場合、八正道の否定も可能になりそうです。

如来、菩薩について、物質的存在、つまり肉体を持った存在であるはずがなく、であれば現実として感じれるはずもなく、つまり、感じられたらそれは物質でありまがい物の如来、菩薩であるということ、つまり、如来、菩薩はあくまでも空想してみた、それだけのものです。仮に如来、菩薩あるとすれば、私たちの論理では証明できず、現実で体感もできない世界の者です。つまり、この幸せ研究室で取り扱う範囲外の者です。

大乗仏教の本来の目的「自分だけ悟るのでなく衆生を救う」ということを現代で実現するならば、迷信や空想に頼らず、便利な科学と貨幣経済と民主主義を重んじ、八正道を丁寧に説明しなればならないと私は考えています。

「どこを探しても明快に理解できる八正道の(日本語の)説明が見つからない。」 と私は感じています。 お釈迦様が最初の最初に語られた悟りの内容であり、 最も基本であり、最も大切であり、 しかも最初だからこそ明快なはずの悟りへの道標、 そうあるはずの八正道について、 実は(日本人は)誰も正確に理解していないのではないか という不思議な印象です。

お釈迦様が生きておられたときは、明快だったものが、 いつのまにか、忘れ去られ、 そのときそのときの時代の常識と異なる国の社会常識で間違って解釈された。 つまりボタンを掛け違えてしまった。

それに気が付いていた人もたくさんいたはずだが、 なぜだか見て見ぬふりをしてしまった。 その理由は色々でしょう。

ただ、最も後世に悪影響を与えたと思われることは、次のようなことと推測します。 宗教的な権力を持った人が解釈の間違いを犯したが、それを認めずに亡くなってしまった。 むしろその間違いに宗教的脅しを加えていた。 そのため、間違いの説が生き残り混乱を招き、教えの分裂を招いていく。 まさに諸行無常の歴史です。 こういう、状態を末法の状態と言うのでしょう。

とろこが、現代社会では、科学が発達し、物だけでなく心の問題についても、 合理的に説明できるいろいろな考えが紹介され、 常識として知られています。 また、コンピュータや人工知能の研究で、情報と知能を 機械的現象として捕らえる方法が極めて発達しています。

コンピュータ科学では、情報処理には、ハードウェアとして、 入力装置、記憶装置、演算装置、出力装置が必要です。 でも、それだけでは動くことができず、 エネルギーとして、電力が必要であることが判っています。 エネルギーにより演算装置は、ソフトウェアであるプログラムをたどり 情報を入力し続け、その情報を処理し続け、 記憶を更新し、出力を続けます。 そして、自己成長つまり進化するには、 ソフトウェアとしてのプログラムが、 自分で自分を書きなおせる能力が必要であることも判明しています。

現代の常識、分析的思考では、肉体と精神を分けて考え、精神を理性と感情に分けて考えます。 ここで漠然と持ち出した言葉である精神とは、また漠然と持ち出した言葉である心のことです。 心の働きは、感覚つまり情報の入力と、記憶と感覚の比較による対象の認識が最初にあります。 認識とは、これは何であるという区別と、大きい小さい、強い弱い、好き嫌いの程度の判定です。 認識の次には、次の動作を決める判断、決断、つまり意志決定をします。 そして意思から筋肉に命令が伝わり体が動くのです。 意識がある人とは、外界からの刺激つまり言葉に反応して、言葉を返す人です。 少なくともイエス・ノーの意志表示を筋肉反応として返すことができることです。 しかも普通の人間であれば、心の動きは、すべて記憶され、経験として思い出すことができます。

そして、この程度のことは、誰でも体験している日常生活での心と体の動きそのものです。 この説明に、異を唱える人はいません。 そしてコンピュータに詳しい人には、注目して欲しいのですが、 人間の肉体と精神の基本構造とコンピュータの動作がとても良く似ていることです。

現代の日本では、キリスト教の教えも広く知られており、その長所もまたよく知られています。 わたしは、キリスト教の信者でも研究者でもないのでその教義について詳しくは判りませんが、 アメリカやヨーロッパの人々の生活に根付くキリスト教の教えが、 彼らの発想、感情、行動の根本にあり、 それが彼らの成功に結びついていると推測しています。

また、現代は、スポーツや芸術が発達し、優秀な人が表彰され、 彼らから勝利のための方策を聞く機会がたくさんあります。 心をどのようにコントロールすると成功するのか、 ハウツーとして沢山の人が良いことをたくさん述べています。

世界最高峰の選手、例えばオリンピック選手たちのインタビュー等で判ることは、 日本人選手にしろ外国人選手にしろ、 リラックスしていながらも集中していることが大切なことです。

日本人にありがちな、歯を食いしばって、息を止めて、 がんばるだけの単純な根性論では、勝利は遠のくということです。

伸び伸びと育てられた、気立ての良い明るい人が勝利者の大多数です。 卑屈で偏屈ですねた者が勝利を得ることは少ないです。

私は、リラックスとは、八正道の正定、常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいること。 集中とは、八正道の正念、いまするべき仕事に集中すると考えています。

仏教も本来は、もっと明快で使えるハウツーだったはずではないのでしょうか。 そうであって欲しいと私は思います。

心とは何かというときに、不滅の霊魂とか、神秘的瞑想に頼ることは止めてみましょう。 現実に物や感覚として感じることのできない、つまり実証できないただの空想に頼らなくとも、 だれでも感じられる共通の常識だけで説明していきましょう。 では、話を戻します。

十悪については、比較的理解しやすいためか、世の人の解釈にあまり大きな違いはありません。 それで、八正道と十悪を表で対比させたいと思います。

まず、八正道の項目を心(つまり精神、理性と感情、)、語り(つまり話言葉と書き言葉)、行い(つまり行動)に分類します。

No.八正道分類
(1)正見
(2)正思惟
(3)正語
(4)正業
(5)正命
(6)正精進
(7)正念
(8)正定

八正道の項目は、心から始まり、次が語りであり、次が行いであり、最後に心が二つあります。 これは、どういう心を持つと正しいか、 それによってどういう話をして意思表示をすると正しいか、 その意志をどういう行為をして実現すると正しいのか、 そして目指す正しい心の状態つまり悟った心状態とは何であるかを 順を追って説明したものです。 つまり、原因から結果について並べたものです。 ですから、最初の正見が最も大切であり悟りの始まりです。次に大切なものが正思惟です。

正見は、精神の理性・理論・理屈のことですので、正思惟は感情・好き嫌いです。 ここでつまずくと、正見も正思惟も考えということになり、 何がなんだかわからない曖昧で漠然とした説明 (上っ面だけの説明、正見とは正しく見る、正思惟とは正しく考えること)と成り果てます。 後で、八正道と十悪を対比させてよく考えてみます。 すると正思惟が感情であると結論つけることができます。

本文で説明した私の解釈ですが、 正業は、人々の幸福のためになる職業に就く。つまり、どういう事をすると良いか。 正命は、自分、家族、人々の命を大切にし親切にする。つまり、どういう方針ですると良いか。 正精進は、高い目標を定め、清い方法で前進する。つまり、どういう方法ですると良いか。 としています。

まず、十悪の項目も心(つまり精神、理性と感情、)、語り(つまり話言葉と書き言葉)、行い(つまり行動)に分類します。

No.十悪分類
(1)殺生
(2)偸盗
(3)邪淫
(4)
(5)二枚舌
(6)悪口
(7)無駄口
(8)貪る
(9)怒る
(10)邪見

十悪の項目は、行いから始まり、次が語りであり、最後に心が三つあります。 これは、罪の重いものから並べたという意味があります。 悪い行いは、悪い言葉より罪が重く、悪い言葉は、悪い心より罪が重いということです。 また、結果を先に述べ、原因を後に述べた形です。 悪い行いの原因は、悪い言葉である。悪い言葉の原因は、悪い心であるということです。 悪い心の貪るは、強欲とも言われ、果てしない欲望です。 悪い心の怒るは、精神の悪い感情のことです。 悪い心の邪見は、精神の悪い理性、理屈に合わない間違いのことです。 そして、悪い心の根本原因は、邪見です。

十悪は、八正道の逆順であることが理解できたので、十悪を並べ変えて八正道と対比させます。

No.八正道分類十悪
(1)正見 邪見
(2)正思惟怒る (貪る)
(3)正語 嘘 二枚舌 悪口 無駄口
(4)正業 殺生 偸盗 邪淫
(5)正命 殺生 邪淫
(6)正精進偸盗
(7)正念 貪る
(8)正定 貪る 怒る

いかがでしょうか、八正道と十悪は項目の数と範囲が微妙に違うので、 一対一には対応させにくいのですが、ほぼうまく対応します。

正見と邪見は完全に一対一です。

正思惟つまり正しい感情は、主として怒るに対応します。 さらに、貪る・強欲をカッコつきでいれておきました。 強欲があると怒りが増すことが多いからです。

正思惟は、怒ると反対の感情です。貪る強欲も無くします。 それは、いったいどんな感情でしょうか。 正思惟の説明として、怒らないこと、で済ませてしまうのでは無く、 もっと踏み込んで積極的に説明してみましょう。 正思惟とは、喜び、楽しみ、感謝すること、あるいは同情・慰めではないでしょうか。 付け加えて、強欲を無くし相手に譲り与えることではないでしょうか。

正語に対応するものは、明快です、嘘・二枚舌・悪口・無駄口の四つです。

正業は、するべきこと、仕事、職業ですので、殺生 偸盗 邪淫に関係する仕事はいけません。 正命は、良い方針、命を大切にし親切にするですので、特に、殺生 邪淫を対応させます。 正精進は、良い方法ですので、ズルや卑怯なことをしないという意味で、偸盗を対応させます。

正念、つまり、いまするべき仕事に集中することには、 十悪の貪るの強欲、あれもこれもと欲しがり気がふらついていることを対応させます。

正定、つまり、常に心を落ち着かせて穏やかな心持ちでいるですが、 その反対とは、心が異常に興奮してざわめき、我を失っている状態、 怒りや強欲に身をまかせている状態ということで、 十悪の貪ると怒るを対応させます。

八正道と十悪の対比は、いかがでしたか。 これまで説明が不十分と思われた八正道の心の部分について理解が深まると思います。

正見は、合理性を理解し重んじること、 正思惟、感情・気持ちの問題であり、喜び、楽しみ、感謝すること、あるいは同情と慰め、 正念が、雑念を払い、目の前の仕事に集中すること、 正定が、落ち着いたおだやかな気持ちであること という解釈が、合理的であると理解していただけると思います。

そうなんです、不滅の霊魂とか、神秘的瞑想は、八正道に出てこないことが判ります。

宗教の教義についていろいろ調べています。いろいろと考えさせられます。

だれでも思いつくことですが、宗教と聞くと息苦しさを感じる人がいると思います。 息苦しさとは、宗教からくる何らかの強制・圧迫・ストレスという意味です。 息苦しさがあると楽しくありません。

ですから、信心する前に、その宗教とその宗教の指導者の性質を見極める必要があります。

信者に対して優しいのはアタリマエのようですが、そうでもないこともあります。 たいてい、信者に何かを要求してきます、それが私たちには問題です。 信者に金品を要求するか、労働を要求するか、布教を要求するか、心を要求するか、何も要求しないか。

信者を止める人(裏切り者?)には、どういう態度をとるかも問題です。 信者以外、異教徒には、どういう態度をとるか。 褒めるか、哀れむか、無視するか、改宗を強制するか、怨むか、憎しむか、呪うか、脅すか。

「私には自由に感じ考える意志がある」と人間の全員が感じていると、私には思えます。

実は、自由意志というものがあるかどうか、証明することは、とても困難と思います。 だから、自由意志なんて、そもそも、ありえないかもしれません。

また、絶対的支配者であれば、 自由意志のある世界を作ることも、 自由意志の無い世界を作ることもできたはず。

なぜその宗教の世界観が説かれるのか、よく考える必要があります。 絶対的支配者の名を借りて、なんらかの人間の目的が隠されている気がします。

少なくとも今の現実は、 「自由意志がほぼ確実にありそうだ」と 私に感じさせてくれる世界です。

ゲームで、「ゲームオーバー後に、成績一覧で、下位者は罰せられる。」 そんなゲームに誰が好き好んで参加するでしょうか。

自由意志のある者を、ルール説明も承諾も無く、 拉致してゲームで競わせ、 ゲームがある程度進行してから、 ルール説明を始める、 そしてゲームオーバーになり、 下位者は永遠に罰せられる。

そんなゲームを運営したら、 人権侵害で間違いなく逮捕され監獄送りです。

でも、「この世はそんなゲームのような世界だ、だからこの宗教に入りなさい」 という風に聞こえることも時々あります。

結局のところ、どの宗教も自由意志の存在を認めていると思われます。 自由意志が無いなら、全員を絶対的支配者の力で信者にすれば良いだけなのに、 そうしていないからです。

人に自由意志があれば、他人を自分の思い通りに動かすことは、難しい。

他人の意志を制約しないとき、他人の行動を制約するには、牢獄が必要になる。 もちろん、私に、他人を牢獄に入れる権利も力も意志も無い。

他人の意志を制約するとは、その他人の意志決定の選択肢の中で、 こちらの希望する選択肢を選ばせること。

それには、こちらの希望する選択肢が他人にとって利益があり、 残りの選択肢が悪い選択肢であると思わせることである。

他人に知識を与え、判断基準を変更させ、 こちらの希望する選択肢を選ばせる。

でもその選択肢は、その他人にとって利益がある、 少なくともその他人が不利益を被らないと判断しないと、 選択されることは無いでしょう。

利益とは、物質的快感(金品)、肉体的快感(食欲、性欲、病気が治る、若返る)、 心理的快感(勝利、褒められる、愛される、家族仲間と安寧に過ごせる、自分のプライドを満たす)の いずれかでしょう。

不利益とは、物質的損害、肉体的苦痛、 心理的苦痛(怨み、憎しみを受ける、差別される、プライドを無視される) ということでしょう。

優れた宗教なら、「どんなときも、どんな相手にも、怨み、憎しみを心に思ってはいけない」 と説かれると思います。

そして現実の問題、例えば、女性を見るとだれかまわず抱きたくなるという男の性欲、 敵から攻撃を受けたときの対処の仕方、をどのように説明するかで、 その宗教の特徴が出てくると思います。

信者に何も要求しない、求められれば、ただ知識だけを提供する、知識の実践は信者の自由である、 それでは宗教と言えないのでしょうか。

2012年07月24日

日本の仏教に出て来る業を取り上げない理由

日本の仏教には「業」という言葉がありますが、 ここ「幸せ研究室」では敢えて「日本の仏教の業」を取り上げていません。 その理由を説明しておきます。

辞書「大辞泉」によれば、「日本の仏教の業」とは、
(1) 人間の身口意による善悪の行為
(2) 前世の行為によって現世で受ける報い
(3) 理性で制御できない心の働き
とあります。

(1)ですが、身口意とは、身体・言葉・心のことでありますから、 「日本の仏教の業(1)」とは「精神と肉体のすべての行為」を指します。すべての行為とは、善悪すべての行為という意味です。 八正道とは、心(理性と感情)と言葉と行動をどうすると良いかという指針ですから、八正道は「日本の仏教の業(1)」の正しい仕方の説明です。反対に十悪とは、「日本の仏教の業(1)」悪い仕方の説明です。ここで、(八正道)+(十悪)=(日本の仏教の業(1))という関係が成り立ちます。 注意して欲しいことは、八正道の中にある「正業」の業(=仕事)と「日本の仏教の業(1)=精神と肉体のすべての行為」は意味の範囲が違うことです。 これで、私流の解釈ですが「正業とは人々の幸福のためになる職業に就く」とした理由を理解していただけるのではないでしょうか。 八正道が仏教の根本であることは明白なので、「正業」と混乱を招きやすい「日本の仏教の業(1)」は取り上げる必要はないといえます。

(2)ですが、前世、現世という証明できないことについて語っているため、 「誰もが正しいと認める客観的法則」とは言えません。 ですから、ここ「幸せ研究室」では「日本の仏教の業(2)」を取り上げるわけには行きません。

(3)ですが、「理性で制御できない心の働き」とは現代の用語では、動物的な本能やその感情のことです。 動物的な本能やその感情を「幸せ研究室」から拾い出すと、 八正道の「正思惟」、十悪の「貪る = 貪欲」や「怒る = 瞋恚」、 四苦八苦の「愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」などが出てきます。 既に丁寧に詳細に明快に説明されているこれらの適切な言葉があるのに、 「日本の仏教の業(3)」という言葉でぼんやりとした範囲に戻してしてしまう必要はないと言えます。

2013年03月08日 2013年10月23日(改)

お釈迦様が家族を捨てて出家したことへの批判を検討します。

お釈迦様への批判としてよく言われていることは、妻や幼い子供を捨てて出家したこと、一国の王子の地位を捨てて出家したことです。この「出家した」という事実は最も有名な話として言い伝えられておりますから、お釈迦様でも言い逃れることはできません。

お釈迦様の出家という行為は、妻子ある王子という立場とお釈迦様自身の教えに照らして正しかったのかという検証が必要になります。できるだけ当時の状況をふまえて、順を追って検討していきましょう。

まず、お釈迦様についての言い伝えやお経の話が、どれが想像上の伝説・脚色なのか、どれが史実なのか、今では不明なことばかりであることを承知しておく必要があります。残された資料から慎重に史実と思われるものを拾い集めていくことになります。そして、推定史実の状況から、お釈迦様の個人的な考え・感情を推測することになります。

お釈迦様は、29歳で出家され、35歳で悟りを開かれ、その後80歳で入滅されるまで教えを説かれたと言われています。お釈迦様の父上は、コーサラという大国に服属する小部族のシャーキャの王(クシャトリヤ階級)で名をシュッドーダナといいました。母上の名はマーヤーです。母上はお釈迦様の生後一週間で亡くなり、母上の妹君、名はマハープラジャパティー、によって育てられました。お釈迦様は、16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ(ラゴーラとも言う)を授かります。ラーフラの生年ははっきりせず、お釈迦様の出家前後ではないかという説が有力です。その他にも数人の妃がいて子供がいたという説もありますが、正確なことは解りません。

当時は、バラモン教が支配する階級社会であり、大きくバラモン(聖職者・僧侶)、クシャトリヤ(王族・武人)、ヴァイシャ(庶民)とシュードラ(隷民)と四階級に分かれていました。当時の男性社会については、女性社会より詳しく伝えられています。女性社会もあったはずですが言い伝えが少ないです。母上と養母の妹君のように、当時の王族には、姉妹婚の風習があったことも事実のようです。当時は文字による記録をされずに、すべて口伝したと伝えられています。数百年後に文字による記録としてお経ができましたが、亡くなってから数百年経つのでお釈迦様に事実を確認することはもちろんできません。現代の立場からお釈迦様時代の階級社会の制度・風習・結婚習慣を批判しても意味がありません。

お釈迦様が悟りを開いてから12年後の47歳に故郷カピラ城に帰郷したと言い伝えられています。そのとき、女性の弟子(比丘尼)を初めてとって、母上の妹君であり養母となられたマハープラジャパティー妃らが比丘尼となりました。妻のヤショーダラーも、最終的には比丘尼(それも第一人者と言われています)になっています。息子のラーフラも弟子(比丘)となり、釈迦十大弟子の一人として有名です。

お釈迦様の親族の多くが出家してお釈迦様の弟子になったということは、僧の集団として過ごし、心・言葉・行動の戒律を守ったということです。

残念なことに、今も残る言い伝えでは年月の計算に辻褄が合わないところがあり、ぼんやりとした史実しか浮かび上がりません。

お釈迦様が出家して悟りを得るまでの7年間、さらに故郷のカピラ城に帰郷するまでの12年間、放置された家族に対する責任には何があるでしょうか。現代の目から見れば、経済的責任と精神的責任でしょうか。当時の社会常識を推測して責任の果たし方を判断しなければなりません。

経済的責任については、お釈迦様の家族は、お釈迦様の出家後も、これまで通り王族の生活ができていたようですから、お釈迦様は生まれ持った王子の地位と財力で、家族の生活の保証をするという経済的責任を果たしたと考えられます。

親が長期間不在だったわけですから、現代の目から見て、父としての精神的役割を果たせなかったこと、及び、家族への連絡不足が責められることでしょうか。

父親不在には、昔も今も家族が待つことを納得できる理由が必要でしょう。お釈迦様は、世の中の人々を苦しみから救う前人未到の知恵を悟るために修行に出たわけで、明確な理由がありました。現代的に言えば、危険な外国への単身赴任でしょうか。待つ側にも辛いことがあったと思われますが、家族は父の親の目的を理解して待つことを求められても仕方ない部分がありました。

現代的な家庭教育と違い、当時の王族の文化習慣では、子供の養育は生みの親でなく専任の教師が行っていても不思議ではありません。お釈迦様に子弟の教育の責任はなかったと言えそうです。

30歳近くの妻への愛情表現については、日本の徳川将軍家の大奥がそうであったように、当時の文化習慣では不要だったかもしれません。この点は曖昧な責任問題として残ります。

現代の交通事情や通信事情を仮定して、家族への連絡がないことを非難することはできません。当時の交通手段は徒歩です。また電話も郵便もありません。何年も音信不通になることは当然ですし、当時の人にはそれがアタリマエの感覚でした。

王国側から見ると、お釈迦様の父上の治めたシャーキャ国は、政治形態としてはサンガという共和制(専制的な王を持たず、部族民の代表たちが協議して政治する)を取っていたため、お釈迦様が必ず王位を継ぐ必要があったわけではなさそうです。また、跡継ぎの子供が生まれてから出家したとも言えます。

お釈迦様の晩年に、このシャーキャ国は、服属していた支配側のコーサラ国から攻め込まれて滅んでしまったと言い伝えられています。この祖国の滅亡がお釈迦様の責任と言うこともできません。伝説ではコーサラ国王の逆恨みが滅亡の原因のようです。お釈迦様とその家族は出家していたのでこの争いに巻き込まれなかったとも推測できます。

征服側のコーサラ国もやがて滅んでしまいました。この諸国の盛衰こそ諸行無常の教えの通りです。ただ、お釈迦様が残された八正道の教えは、人間の思惑(=我欲)とは関わり無く、昔から変わらずに残り続ける真理の法則という意味で諸法無我の教えです。

どんな人間も必ず老いて病に伏していずれ死ぬのですが、この逃れられない運命を少しでも苦しまずに、むしろ楽しく一生を過ごして終わるための知恵が、お釈迦様の教えです。

お釈迦様の家族を含め多くの人々が、この教えを知ることで少しでも苦から逃れることができたのなら、結果として「お釈迦様の選択は正しかった」と私は感じます。

2014年12月05日-08日

第四部 付録 参考資料

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この文書は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
(表示 - 非営利 - 継承)です。
作: 大野 伸介 (2011年11月より 2017年03月23日)