第三部 第十二章 富

現代で富と言えば、お金のことです。お金をどのように得たらよいかについて考えていきましょう。

お金を失う近道は、十悪の罪を犯すことです。その中でも盗みは、一時的にお金が手に入った気がしますが、その金額はわずかなものです。ニュースを見ていますと僅かな金額を泥棒したばかりに、一生を棒に振る人がいることがわかります。泥棒をすると罪がばれることを恐れるため隠れたり嘘を突き通そうとしますから、ますますお金と縁遠くなります。

お金そのものは、ものやサービスを得るときに支払うだけのものです。お金そのものがここにあっても食べられもしないし、服として着ることもできないし、雨風をしのぐこともできません。たんなるお金は、それを眺めてニンマリ笑うことしかできません。であれば、銀行へいって札束がたくさん流れている様子をみてニンマリ笑うことでも良さそうです。どこがちがうのでしょうか。

それは自分のお金か、人のお金の違いです。なぜあなたの元にそのお金があるのですか。それは誰かがあなたに渡したからあるのです。お金というものは、人気投票の投票用紙のようなものです。あなたがした努力の成果としてあなたに贈られた人気度のようなものです。人気のある人のところにお金は集まります。

あなたはどれだけのお金が欲しいのですか。それに相応しい人気がありますか。

人々の人気を得るためには、人々を喜ばせて幸せにすることが大切です。それには、人々の信用を得て役に立つことが求められます。こういうことをしていかないとお金は集まりません。

お金が欲しければ、まず、一人でも多くの人が幸福になる善を行う必要があります。善を行う良い方法が八正道ですから、やはりお金を得るよい方法は、八正道ということになります。

人々の人気を博し信用を得るには、それなりの立派な人にならなければなりません。だから、もう人気と信用がある人を見習ってください。姿形を美しくし、もうたたっぶりと人気と信用があり、体から喜びと楽しさが溢れてくるように振舞いましょう。

最初は、お金がなくともできる無財七施を行って人気と信用を獲得してください。あなたには、八正道がありますから、いずれ十分な富を得ることができます。

富を得ても、肉体は一つです、食べられる食物、着られる衣服の枚数、住める住居の広さにも限度があります。結局のところ、余った富は、一人でも多くの人が幸福になることに利用するしか他に道はありません。

余った富を自分で有効に使うために、会社を作り経営することになります。たくさんの人を雇い富を分配し働いてもらうのです。

個人にしても会社にしても、できるだけ多くの人を幸福にする品物やサービスを提供することが、人気を博し信用を得る秘訣です。

雇った人が良い人で会社の事業が人々を次々と幸福にするときは、会社はどんどん儲かります。会社は人間と違いいくらでも大きくなれますが、品物が人々すべてに行き渡るとそこが限度です。余った儲けは、別の会社を興すことに使います。

お金は大変に便利ですから、十悪の貪りの対象になり易いものです。自分と会社で楽しく生きていくために十分必要なお金の額というを、片時も忘れないようにして節度を守りましょう。

お金そのものは善でも悪でもありません。使い方と稼ぎ方で、あなたの善悪が決まります。人を幸福にしてお金を稼ぐことは善です。

また、お金で買えないものもたくさんあります。時間、寿命、知識を覚えること、能力を向上させること、他人の真心は、お金では買えません。

多すぎるお金は、まるで命があるかのように勝手に振舞い始めます。まずあなたの時間を奪い次に心を苦しめ始めます。どのぐらいのお金まで扱う能力があるか、自分で自分を見つめ直してください。

真の富はお金ではありません。真の富はあなたに寄せられた人気や信用です。人気や信用とは、つまり良い人かどうかということです。

宗教とお金について、考えます。

「第二部 第十二章 三帰依」で、「仏教教団の生活が成り立つために、信徒から僧に布施が必要」と書きました。

生身の人間が生きるためには、衣食住が必要です。衣食住を維持するために、お金がとても便利です。生身の人間が、専門職として宗教の布教をしたり、信者からの相談に応じたりするためには、生活費が必要となります。

生身の人間が宗教家になるということは、宗教で生活費を稼ぐ専門職となることか、あるいは、道楽で無償で働くことになります。

職業としての宗教家がしていることは、商売としての宗教であり、ビジネスであり、生活費となる利益を追求する事業です。

一部の宗教家には、他の宗教、宗派、教団、寺院・教会との競争心が出てきます。自分の宗教事業の発展を願って、信者を増やす仕組み、信者を逃さない仕組み、信者から布施=喜捨=献金を徴収する仕組みを考え出します。

宗教発展の仕組みとは、(1)人気を得やすいできるだけ簡単な道徳律を作ること、(2)救済と罰を含むファンタジーを創作し不安を煽ること、(3)莫大な支払いの義務を課し、支払わない者へ精神的な罰を与えることです。

イスラム教では、ザカートとして財産の2.5%を、神から求められます。サウジアラビア国では、ザカート税が決まっています。

キリスト教の教会の多くは、信者に財産の10%献金を要求してきます。

仏教教団の維持にどれだけのお金が必要なのか、お釈迦様がその金額を指定されたことはありません。ですから、どの教団も「おいくらでも構いません」と言ってきますが、「お金は欲しくありません」と断ることもありません。

宗教家が要求してくる金額が多いか少ないかは、あなた自身が判断するしかありません。もし支払うつもりが無いなら、宗教事業に関わってはいけません。

日本人であれば、すでに税という形で、国家が行う公共の福祉活動に寄与しているから、どこの神様にも仏様にも堂々していることができます。理由は、仏教、キリスト教、イスラム教が始まったどの時代から見ても、大きく前進した自由と民主主義による福祉国家が今の日本だからです。その日本にも改善することは多々有ります。皆さん自身で考え投票するなり立候補するなりして良くしていきましょう。

結局のところ、宗教の中で一番役にたつところは、道徳律です。道徳律は、ネットや本で無料情報として知らせればそれで十分です。合理的に整理され、補足説明の行き届いた道徳律であれば、皆さんの役に立ちます。

ときどき人間は迷うので、他人に相談して助言を得たくなります。そういう時に、親や家族に相談するだけでは不安なときに、先生や先輩を頼りましよう。それでも不安なら、それぞれの分野の専門家に頼りましよう。どの宗教の信者でもない人が宗教家に頼るのは、最後の最後で良いと思います。

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(更新日: 2017年03月23日)
幸せ研究室